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目次
どうする家康!相関図と11の苦難・決断・その後とは
大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、約260年続いた江戸幕府の礎を築いた徳川家康。徳川家康は西三河一帯を治める松平広忠の嫡男で、そこだけを捉えれば出自がはっきりしない豊臣秀吉より恵まれた立場です。
しかし松平家の勢力は弱く、東の今川家あるいは西の織田家の庇護を受けなければ生き残れませんでした。
実際、徳川家康は4歳の頃に織田家の人質、さらに6歳の頃には今川家の人質として幼少期・少年期を過ごしています。
人質なので生殺与奪の権は織田家や今川家にあります。
今川家ではしっかりとした教育が施されていたようですが、人質であることに変わりありません。
徳川家康は小さいころから、命の危険にさらされていたと言えます。
もっとも人質であることに関しては、徳川家康の意思はまったく関係なく「どうする」さえ考えられない立場でした。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元はあっけない最期をとげますが、言い換えるとここから徳川家康の苦難と決断の歴史が始まります。
徳川家康は生涯の間で何度も重大な決断を下しています。
この記事では時系列で11の場面について、相関図を示しながら徳川家康がどのような苦難に会い決断を下したのか、そしてその後どうなったのかお伝えします。
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どうする家康1 桶狭間の戦い後
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1560年 | 17歳 | 徳川家康(当時は松平元康) vs 今川氏真 |
苦難のあらまし
桶狭間の戦いで今川義元が討死したとき、徳川家康(当時は松平元康)は前線の大高城にいました。勢いに乗った織田の軍勢が大高城に攻め込んでくる可能性があります。
兵力が劣っていた徳川家康が生き延びるために与えられた選択肢はただ一つ。大高城から退却することだけです。
徳川家康はどこに向かったのでしょうか。
徳川家康の決断
徳川家康は駿府に戻らなければいけないはずでした。徳川家康は今川家の武将の一人でしたし、今川義元が討死しても嫡男今川氏真がいます。また、駿府には徳川家康の正室瀬名(後の築山殿)と嫡男竹千代(後の松平信康)がいました。
しかし、徳川家康が向かったのは駿府ではなく、松平家の地盤である岡崎城です。岡崎城には今川家から派遣された城代がいるはずでしたが、既に駿府へ逃げ出しています。
城代が残っていれば躊躇したかもしれませんが、空城になっていたため徳川家康は岡崎城に入り、駿府へ戻ることはありませんでした。
もっとも徳川家康の決断は、今川氏真から敵対行為とみなされ、正室と嫡男を失ってしまう可能性もありました。
その後
今川氏真は、西方の織田家よりも、東方の武田家や北条家との関係強化に腐心します。今川氏真の行動により、今川家と織田家に挟まれた松平家は孤立。そこで、徳川家康は今川氏真を見限り、1561年にはこれまでの敵であった織田信長と清洲同盟を結びます。
徳川家康と今川氏真はこの段階で完全な敵対関係になります。
肝心の瀬名と竹千代ですが、徳川家も今川家の重臣を捕えていたため、人質交換の形で無事に徳川家康の元に戻ることができています。
なお今川氏真は武田家や徳川家の侵略で領地を減らし、1569年、大名としての今川氏は滅亡しています。
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どうする家康2 三河一向一揆
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1563年 | 19歳 | 徳川家康 vs 徳川家家臣 |
苦難のあらまし
岡崎城に戻った徳川家康は西三河一帯の統治に乗り出します。その過程で起こったのが、1563年の三河一向一揆です。西三河では一向宗を信仰する門徒の拠り所として本證寺、上宮寺、勝鬘寺の三寺院があり、松平広忠の代に不入の特権が与えられ独立した立場を保っていました。
徳川家康も関与できない状況でしたが、徳川家家臣が不入の特権を破ったことで三河一向一揆が起こります。
ただの一揆であれば、武力による鎮圧も可能であったはずですが、問題は徳川家家臣にも一向宗を信仰する家臣が多くいたことです。
こうした家臣は現世の徳川家、来世の極楽往生の二者択一を迫られ、たとえば本多正信や渡辺守綱などは一揆に加わり、戦いの場で肉親や知り合いが敵味方に分かれます。
仮に一揆を鎮圧することができても、その中にいる家臣たちを失うことになる。家臣がいなくなれば、領国経営が成り立たなくなる。
徳川家康は三河一向一揆に対してどのような決断を下したのでしょうか。
徳川家康の決断
徳川家康にとって三河一向一揆は鎮圧しなければならない戦いでした。実際、戦いは徳川家有利に動きます。しかし完全に勝利すると、さらに犠牲も増えてしまいます。
そこで徳川家康は和議を誘いかけ、一揆を終息に導いています。
その後
一揆方には多くの家臣が参加していました。徳川家康は、一部は追放などの処分を下したものの、多くの家臣の帰参を許します。また和議成立後、領国内での一向宗信仰を禁止し、それは19年間も続きます。
三河一向一揆は約半年間続いています。結果は徳川家康の勝利に終わりますが、国土は荒廃し、有能な家臣を少なからず失いました。
しかし、被害を最小限におさめた徳川家康の手腕は見事で、三河一向一揆後は三河国が政治的に安定していきます。
なお、徳川家康は生涯で何回もの苦難に見舞われますが、三河一向一揆の鎮圧には相当の苦労が伴ったと言われています。
そのため、三河一向一揆・三方ヶ原の戦い・伊賀越えの3つの出来事を、徳川家康の生涯における三大危機とする意見もあります。
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どうする家康3 三方ヶ原の戦い
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1573年 | 29歳又は30歳 | 徳川家康 vs 武田信玄 |
苦難のあらまし
桶狭間の戦い後、織田信長は目覚ましい活躍を見せ、1567年には足利義昭を室町幕府第15代将軍の座につけています。しかし、すぐに織田信長と足利義昭は反目。足利義昭は諸国の大名に声を掛け織田信長包囲網を築きます。
織田信長と同盟を結んでいた徳川家康が一番恐れていた甲斐国の武田信玄が、足利義昭に呼応して西上を開始。
武田家の軍勢が西に向かうとき、まず相手になるのが徳川家康です。
武田家が率いていた軍勢は約3万人。徳川軍は8千人に過ぎず、織田からの援軍もごく僅か。人数的に勝ち目はない状況でした。
実際に三方ヶ原の前哨戦ともいえる一言坂の戦いや二俣城の戦いで、徳川軍は敗れています。
徳川家康は武田信玄の侵攻に対してどのような決断を下したのでしょうか。
徳川家康の決断
この時、徳川家康は居城の浜松城にいました。武田家の軍勢は浜松城から離れた場所を行軍し、浜松城を攻める気配はありませんでした。浜松城に籠城すれば、やり過ごせた可能性も十分にあります。
しかし徳川家康にとって、自分を無視するように通り過ぎる武田軍は許せる存在ではありません。
家臣の多くが反対するのを押し切って起こったのが三方ヶ原の戦いです。
結果は徳川軍の大敗北、多くの家臣を失いますが残った家臣の命がけの行動で徳川家康はどうにか浜松城に戻り、武田軍も浜松城に大攻勢を仕掛けることはありませんでした。
その後
三方ヶ原の戦いは徳川家康にとって生涯最大の敗戦で、失ったものは多かったようですが、その後の徳川家康にとって大きな糧となっています。三方ヶ原の戦いの直後に武田信玄は陣中で没し、織田信長包囲網は瓦解。さらに、織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡します。
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どうする家康4 築山殿と松平信康の死
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1579年 | 36歳 | 徳川家康 vs 織田信長(?) |
苦難のあらまし
徳川家康の嫡男松平信康の正室は、織田信長の娘徳姫です。築山殿は今川家、徳姫は織田家の出ということもあり、二人は不仲であったと言われてます。
また、夫の松平信康は粗暴で徳姫とは疎遠であったと伝えられています。
徳姫が父の織田信長に、二人を糾弾する書状を送ります。
築山殿については甲斐国の唐人医師減敬との密通があり、さらに武田家と内通していること。
松平信康については不仲であることなどです。
織田信長は徳川家の重臣酒井忠次を呼び出して真偽を確かめたところ、酒井忠次が多くを認めます。
そこで織田信長は徳川家康に築山殿と松平信康の死を命じます。
徳川家康はどのような決断を下したのでしょうか。
徳川家康の決断
徳川家康の命により、築山殿は徳川家家臣に討たれ、松平信康は自刃します。織田信長とは清洲同盟で結ばれていたものの、この当時は織田信長が主で、徳川家康が従という関係でした。
また実際の力関係も織田信長が圧倒的に上で、徳川家康に反抗するという選択肢はありません。
正室と嫡男を一度に失うという決断をした徳川家康でしたが、実際にこれ以外の方法はなかったようです。
もっとも最近ではまったく別の説も有力になっています。
徳川家康と築山殿は元々不仲で、密通や内通の可能性もありました。
徳川家康と松平信康は実の親子でしたが、松平信康の成長に伴い意見の相違をみることも多く反目しがちでした。
また、家臣もそれぞれにつき、徳川家を二分させる可能性がありました。
徳川家康は徳川家の内部抗争の芽を事前に摘み取るため、織田信長に頼み築山殿と松平信康を死に追いやったとも言われています。
どちらが正しいかは不明ですが、徳川家康の決断で築山殿と松平信康が生涯を閉じたのは確かです。
その後
徳川家康は松平信康の家臣の一部を処分しますが、一方では家臣団の分裂を防ぐ施策を行って一体化に努めています。築山殿と松平信康の死の原因は複数の説があるものの、徳川家康は家臣の動揺を抑えることに成功しています。
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どうする家康5 伊賀越え
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1582年 | 39歳 | 徳川家康 vs 明智光秀 |
苦難のあらまし
1582年6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれます。少し前の1582年3月には甲斐国の武田家が滅亡し、武田領に接していた徳川家の戦いも一段落。徳川家康は織田信長の招きで堺を遊覧していた時、本能寺の変を知ります。
明智光秀が次に狙うのは、織田信長の同盟者であった徳川家康。
本国に帰れば徳川家の軍勢は侮れませんが、遊覧なので徳川家康に従っていた家臣はごく僅かです。
徳川家康は京都の知恩院で切腹する覚悟をしますが、徳川家康はどのような決断をしたのでしょうか。
徳川家康の決断
徳川家康の切腹を思いとどまらせたのは本多忠勝。徳川家康は三河国に戻ることを決断します。そして、具体的に三河国に戻る算段をしたのが服部正成です。
服部正成は忍者の協力を得ながら明智光秀の追撃をかわし、伊賀国から伊勢国を経て三河国に戻ることができています。
その後
明智光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ生涯を閉じ、羽柴秀吉は織田信長に代わって天下取りにまい進します。一方、徳川家康は本能寺の変後の織田家の抗争に背を向け、武田家が治めていた甲斐国・信濃国へ侵攻。
領地を拡大するとともに、武田家の遺臣を積極的に採用し徳川家の軍事力を増大させます。
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どうする家康6 小牧長久手の戦い
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1584年 | 41歳 | 徳川家康 vs 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉) |
苦難のあらまし
明智光秀を破った羽柴秀吉は、1583年に織田家の重臣で敵対していた柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ります。また、柴田勝家に与した織田信長の三男織田信孝を切腹に追い込みます。
織田家に代わり天下取りを狙っていた羽柴秀吉が次に狙ったのが、織田信長次男織田信雄です。
羽柴秀吉の狙いを知った織田信雄は徳川家康を頼ります。徳川家康はどのような決断をしたのでしょうか。
徳川家康の決断
織田信長の死により清洲同盟は終わったものの、義がこちらにあることを知った徳川家康は織田信雄に味方。表面上は羽柴秀吉と織田信雄の戦いですが、実質は羽柴秀吉と徳川家康の対決。小牧長久手の戦いは両雄が直接に対決した唯一の戦いと言われています。
小牧長久手の戦いは約半年続きます。
局地戦では織田・徳川軍が有利であったものの、羽柴秀吉の調略により羽柴秀吉と織田信雄が和睦。戦うための大義名分を失った徳川家康も退却します。
その後、羽柴秀吉は豊臣秀吉となり天下統一を果たし、徳川家康は自らの領国経営に専念します。
その後
羽柴秀吉と織田信雄の和睦に続き、羽柴秀吉と徳川家康も和睦。和睦の条件として、徳川家康の次男秀康が羽柴秀吉の元へ人質として差し出されます。戦いは優位に進んだものの、外交的には徳川家康の敗北であったようです。
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どうする家康7 石川数正の出奔
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1585年 | 42歳 | 徳川家康 vs 豊臣秀吉 |
苦難のあらまし
小牧長久手の戦い後、一応の和睦は成ったものの、さらなる外交交渉が必要でした。このとき徳川家から豊臣家に赴き交渉をしたのが石川数正です。石川数正は徳川家の重臣で、主な役割は外交交渉。
外交に精通していた石川数正が、対豊臣で同じ役割を担うのは当たり前でしたが、豊臣秀吉の方が一枚上手です。
石川数正は交渉を重ねるうちに豊臣秀吉に篭絡されていきます。
また豊臣寄りの意見を述べることが多くなった石川数正に対して、他の徳川家家臣から疑いの目が向けられるようになります。
その結果、石川数正は出奔して豊臣家の家臣となります。徳川家康はどのような決断をしたのでしょうか。
徳川家康の決断
徳川家康の力で石川数正を引き戻すことはできません。また、豊臣秀吉に苦情を申し立てることもできません。しかし、重臣を他家に奪い取られたことは徳川家康にとって屈辱であるばかりでなく、その影響はかなり大きなものがありました。
石川数正の出奔は、徳川家の軍制が豊臣家に筒抜けになることを意味します。
そこで、徳川家康は軍制を武田家のものを参考にして新たなものに改めています。本能寺の変後、武田家の遺臣を召し抱えたことがここで役立っています。
その後
小牧長久手の戦いの和睦や、石川数正の出奔は、必ずしも徳川家康が豊臣秀吉の家臣になることを意味するものではありません。しかし、徳川家康が追いつめられていったのは事実で、ほどなく豊臣秀吉に臣従することになり、その関係は豊臣秀吉の死まで続きます。
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どうする家康8 関東移封
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1590年 | 47歳 | 徳川家康 vs 豊臣秀吉 |
苦難のあらまし
1590年、関東一帯を治めていた北条家が豊臣秀吉に攻められ滅亡、徳川家康も大きな変化を迎えます。徳川家康は三河国など東海地方の5か国を治める大名でしたが、豊臣秀吉の命により5か国を失う代わりに北条家が治めていた関東8か国への移封されます。
石高はそれまでの120万石から250万石へ大幅な加増です。
しかし徳川家康にとってみれば、先祖伝来の土地から見知らぬ土地へ移ることになります。
また、関東は当時の政治の中心地であった京や大坂から遠く離れています。
さらに関東には北条氏の遺臣が多く残っていて、統治が難しい場所です。
徳川家康はこの事態にどのように対処したのでしょうか。
徳川家康の決断
見かけは大幅な加増ですが、徳川家康にとって喜ばしいことはほとんどなかったのではないでしょうか。もちろん、豊臣秀吉にすれば最大の仮想敵を遠くに追いやる戦略だったのは間違いないところですが、それでも徳川家康に断る選択肢はありません。
ここから徳川家康は新たな国づくりを始めることになります。
その後
徳川家康は本拠を江戸城に定めます。当時の江戸城は規模も小さく荒れていました。さらに海が間近に迫っていて、飲料水など水の便にも苦労します。
しかし長い時間と多くの費用をかけて整備を続けたことで、後の政治の中心地を造ることができています。
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どうする家康9 関ケ原の戦い
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1600年 | 57歳 | 徳川家康 vs 石田三成 |
苦難のあらまし
1598年に豊臣秀吉が亡くなる直前、徳川家康は豊臣家五大老の一人に任じられます。しかし、豊臣秀吉が亡くなってすぐに権力闘争が始まります。徳川家康は数々の決まり事を破っていきます。
最初は同じく五大老の一人前田利家の抑えが効いていましたが、間もなく前田利家は亡くなります。
その後、徳川家康の行動に異を唱えたのが石田三成ですが、石田三成も隠居に追い込まれます。
豊臣秀吉が亡くなり、豊臣家に代わって政権を握る。
徳川家康がそのように考えていたのは間違いなさそうですが、豊臣家そのものに大きな力があり、さらに豊臣恩顧と言われる大名もたくさんいました。
果たして、徳川家康はどのような手段で関ケ原の戦いに進んでいったのでしょうか。徳川家康にとって天下取りのための最大の苦難が訪れます。
徳川家康の決断
徳川家康は五大老の一人上杉景勝に対して豊臣家に対する謀反の疑いをかけ、上杉家が治める会津征伐に向かいます。上杉景勝に謀反の事実はなかったようですが、徳川家康が諸大名を率いて会津に向かえば、その間に近江国の石田三成が挙兵するはずという確信があったようです。
実際、石田三成は五大老の一人毛利輝元を担いで、徳川家康追討に乗り出します。
ここで徳川家康断は、会津征伐のため陣を敷いていた宇都宮から反転し、西に向かう決断をします。
徳川家康とともに会津征伐に向かった大名の中には、豊臣恩顧の大名も数多くいました。
また大阪には大名の妻子などが留め置かれているので、石田三成の人質にされてしまう可能性もありました。
そこで徳川家康が伝えたのは、今回の敵は石田三成であって豊臣家ではないというものです。
石田三成は敵が多い人物で、徳川家康とともにいた豊臣恩顧の大名の多くも石田三成に反感を覚えていました。
そうした諸大名の考えをまとめるために、向かう敵を石田三成として起こったのが関ケ原の戦いです。
関ケ原の戦いは、ほんの数時間で終わります。
兵士の数も、陣を敷いていた場所も、石田三成の西軍が有利のように見えました。
しかし、徳川家康の外交戦略が功を奏し、西軍諸将の多くは戦いに参加せず、小早川秀秋のように西軍を裏切った武将もいました。
その後
関ケ原の戦いで勝った徳川家康は、西軍の諸将を罰して、東軍の諸将に西軍諸将の土地を分け与えます。また、関ケ原の戦いで実権を握った徳川家康は1603年に江戸幕府を創設しています。
豊臣家は、関ケ原の戦いで取り潰されることはなかったものの、豊臣家の権限の多くを取り上げられ単なる一大名の立場になります。
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どうする家康10 大坂冬の陣・夏の陣
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1614年~1615年 | 71歳~72歳 | 徳川家康 vs 豊臣秀頼 |
苦難のあらまし
1603年に江戸幕府を創設した徳川家康でしたが、1605年には将軍の座を3男徳川秀忠に譲っています。これは将軍職は徳川家世襲で、政権を豊臣家に渡すことはないという意思表示です。
豊臣家は一大名の地位に落ちていたものの、やはり他の大名とは異なる特異な立場を保っていました。
また、豊臣恩顧と言われる大名もまだまだ存在し、徳川家康は年老いていました。
徳川秀忠は律儀であるものの、能力はそれほどありません。父の徳川家康は、自分が生きているうちに何とかしなければいけないと思い、豊臣家を追い込んでいきます。
徳川家康の決断
徳川家康はいろいろと難癖をつけて豊臣家を追い込みます。その結果起こったのが、1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣で、夏の陣で豊臣秀頼と母の淀殿は自害し豊臣家は滅亡します。
その後
豊臣家滅亡によって、江戸幕府は安定し約260年間にわたり江戸時代が続きます。■合わせて読みたい
どうする家康11 松平忠輝の改易
いつ | 徳川家康の年齢 | 相関図 |
1616年 | 73歳 | 徳川家康 vs 松平忠輝 |
苦難のあらまし
松平忠輝は徳川家康の第6男です。また、松平忠輝の正室は五郎八姫、東北の大名伊達政宗の長女です。松平忠輝は越後高田城を居城とし63万石を与えられていました。剛毅な性格で知られていて、兄で将軍の徳川秀忠との不和が伝えられていました。
松平忠輝の問題は、大坂夏の陣などで軍法に従わなかったことや積極的に動こうとしなかったこと。
こうした数々の出来事は、徳川家康を怒らせるには十分でした。
徳川家康の決断
1616年、徳川家康は危篤状態に陥ります。このとき、他の子供たちは呼ばれたものの、松平忠輝だけは呼ばれませんでした。また松平忠輝は面会を申し出るも、徳川家康は許すことなく亡くなります。
生涯の最期を迎え、それでも子供を処分しなければならなかった。このことは徳川家康にとってかなり重い決断だったのではないでしょうか。
松平忠輝は徳川家康が亡くなってすぐに、兄の徳川秀忠により改易、流罪に処せられます。
徳川家にとって松平忠輝は明らかに異分子だったので処分は仕方なかったとも思われます。
一方、江戸幕府を維持していくためには身内に対しても厳しい徳川家の姿勢も見えてきます。
その後
松平忠輝は流罪の地で許されることもなく、生涯を閉じています。松平忠輝が生まれたのは1592年。
改易となり流罪に処せられたのが1616年で24歳の頃。
そして配流の地で亡くなったのが1683年で91歳。松平忠輝の配流生活はことのほか長かったようです。
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まとめ
徳川家康は織田信長や豊臣秀吉の後に天下人になりました。さらに260年続く江戸幕府の礎を築いています。
しかし、その生涯は順風満帆というわけではなく、むしろ苦難の連続でした。
この記事では、徳川家康が苦難にぶつかったとき、どのような決断を下したのかとともに、その後はどうなったのか。
時系列で、そしてその時々の相関図をお示ししながら「どうする家康」の73年の生涯をお伝えしてきました。
もしかしたら徳川家康の苦難はもっとあったかもしれませんが、ここではそのうちでもとりわけ有名なものを取り上げてみました。
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