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徳川家康と本多正信との関係とは
徳川家康と本多正信は、どのような関係だったのでしょうか。形式上は徳川家康が主君で、本多正信は家臣。その一言で2人の関係は決まってしまいます。
しかし、徳川家康と本多正信の関係は、主君と家臣という枠にはおさまらなかったようです。
徳川家康と本多正信はどちらかといえば友。しかも刎頚の友のような関係であったと言われています。
では、どうして徳川家康と本多正信は友のような関係だったのでしょうか。
この記事では、徳川家康と本多正信主従の関係を、簡単にご紹介していきたいと思います。
関係1 年齢
徳川家康は1543年、本多正信は1538年に生まれています。そして、徳川家康は1616年6月、本多正信は1616年7月に亡くなっています。
徳川家康と本多正信は主従の関係ですが、本多正信の方が5歳の年長。
徳川家康は青年期になるまで今川家の人質として生活するなど、相当の苦労をしながら成長しています。
そんなことから、徳川家康にとって本多正信は頼りがいのある兄のような存在になり得たのではないでしょうか。
また、徳川家康も本多正信も当時としては長命を保っています。接する時間が長いため、2人の関係もより強いものになったのかもしれません。
本多正信は病死と伝えられています。
殉死ではないようですが、徳川家康が亡くなってすぐに本多正信もその生涯を閉じています。
そんなことからも、2人の関係の濃さをうかがい知ることができるようにも思われます。
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関係2 三河一向一揆から本能寺の変まで
今川義元が桶狭間の戦いで倒れた後、徳川家康はようやく三河国に帰ることができます。しかし、その直後に起こったのが三河一向一揆。
三河武士は結束が固いことで有名でしたが、一方では一向宗が強いことでも有名です。
徳川家康の家臣にとって三河一向一揆は、徳川家康を選ぶか、信仰を選ぶのかという戦いで、通常の戦いよりも根深いものがありました。
三河一向一揆で徳川家康に敵対した家臣のなかに本多正信もいました。
三河一向一揆は徳川家康の勝利に終わりましたが、本多正信は徳川家康の元を離れ諸国を巡るようになります。
本多正信がもっとも長期間、身を寄せたのは松永久秀と言われています。
戦国時代、謀略をもって上り詰めた代表的な人物が3人います。
これを戦国時代の三梟雄といいますが、その三梟雄とは北条早雲、斉藤道三、そして松永久秀です。
松永久秀は足利13代将軍足利義輝を死に追い詰めたり、東大寺の大仏を焼き払ったりと、その悪逆ぶりは時の権力者である織田信長でさえも一目置く存在になっています。
本多正信は、その松永久秀の元に約10年間身をおいていたと考えられています。
松永久秀は策略家として世に知られた存在。その松永久秀の元に長らく身を寄せていた本多正信。
本多正信には策略家たる天賦の才能があったのでしょうか。
松永久秀も徳川家にはいないタイプの武将であると、本多正信のことを高く評価をしているようです。
いわゆる武略よりも知略の修行をした本多正信。
本多正信が徳川家康の元に帰参したのがいつなのかは定かでありませんが、遅くとも本能寺の変の少し前。
本多正信が帰参したことで、徳川家康と本多正信の深い関係が生まれ始めます。
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関係3 本能寺の変から関ヶ原の戦いまで
本能寺の変が起こったのは1582年。本能寺の変が起こった時期は戦国時代の末期で、群雄割拠というよりも、いくつかの大きな大名が大きな版図を支配していました。
そうなると戦場で戦うというよりも、むしろ外交的な側面が重視されるようになります。
徳川家といえば三河武士。
三河武士は戦場での戦いには秀でていましたが、残念ながら他国と渡り合い外交のできる人物はあまりいませんでした。
あえて徳川家にその存在を求めるならば石川数正でしょうが、石川数正は徳川家を離れたことはなく、他の三河武士よりは多少外交ができるという程度の人物です。
さらに石川数正は豊臣秀吉の天下統一の過程で、豊臣秀吉に調略され徳川家を離れてしまいます。
徳川氏にとって重要なのは外交で、他の大名に負けない能力を持った人物が必要でしたが、残念ながら徳川家康に古くから従っていた家臣に適当な人物はいませんでした。
そこに戻ってきたのが本多正信。
本多正信も三河武士の一人に違いありませんが、他国で飯を食ってきたという他の三河武士にはない経験を持っています。
さらには身を寄せていたのが松永久秀。
徳川家康が天下を統一する過程にはさまざまな家臣が存在し、大きな役割を果たしていますが、このときの本多正信の存在は徳川家康にとって何よりも大切なものでした。
本多正信は元々鷹匠と、徳川家にあっても身分の低い武将でしたが、徳川家康に帰参するとともにめきめきと頭角を現してきます。
本多忠勝など徳川四天王などとは異なり、本多正信の活動はなかなか表にはでてきません。
外交は時として秘密裏に進められるものなので、当然、本多正信の活動は歴史には残りにくい活動です。
しかし、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの徳川家康の外交は、本多正信の発案によるものが多いと言われています。
徳川家康と本多正信の関係は密室の中で築かれていった。本多正信と徳川家康は肝胆相照らす関係であったのかもしれません。
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関係4 関ヶ原の戦い以降
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸幕府を開き初代将軍におさまります。しかし、将軍の座に長くとどまることはせず、すぐに徳川秀忠に譲り、徳川家康は江戸から浜松へ居を移します。
もっとも実質的権限は徳川家康のもの。徳川家康が浜松で発した指示を、江戸の徳川秀忠が実行に移す。
そんな関係であったようです。
ただ、当時は電話などはありません。基本的には書状でのやり取りですが、齟齬が生まれる可能性もあります。
そこで、徳川家康は本多正信を江戸におき、徳川秀忠の元で将軍を補佐させます。
これは、徳川家康と本多正信が離れてはいても意思の疎通ができる関係だったからで、実際に徳川秀忠は、父である徳川家康の指示を忠実に守ったと言われています。
そして、徳川家康と本多正信の関係は大坂の陣が終わり、徳川家康が亡くなるまで続いたとされています。
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さいごに 徳川家康の死後
本多正信と徳川家康の関係は、傍から見るとただならぬ関係でした。2人の関係はこれで良いとしても、面白くないのは他の家臣。事実、本多正信は他の重臣から相当に嫌われていたようです。
また、本多正信もそのことは十分に承知していたため、権力が絶大であるにも関わらず、大名としての石高は最低の1万石(一説には約2万石)と少ないものでした。
本多正信は、知行よりも自らの能力を徳川氏のために役立てたい。
そうした意味では策略家としての欲望はあっても、領地や官位といった物欲は少ない人物であったようにも思われます。
本多正信は他の武将の妬みを恐れ、嫡子の本多正純に自分が亡くなっても必要以上の加増は受けないようにと厳命をしています。
しかし本多正信の死後、本多正純は加増を繰り返し、最終的には約15万石で宇都宮の領主におさまっています。
その後、徳川秀忠の暗殺を謀ったという理由で1622年に改易、出羽国に配流されその地で生涯を終えています。
徳川秀忠の暗殺を謀ったというのは、有名な「宇都宮城釣天井事件」。しかし、現在では将軍暗殺は濡れ衣であったとも言われています。
その証拠は何よりも本多正純が死罪にはなっていないこと。将軍暗殺ならば仮に未遂であっても死罪は免れませんが実際には命を永らえています。
本多正純の追放は暗殺などという大それたものではなく、本多正信・本多正純と2代にわたって他の徳川家の家臣から妬みを持たれていたために起こったもの。
そのように考えるのがむしろ自然のようにも思われます。
本多正信はそのことをよく知っていたので、加増を断るように本多正純には伝えていました。
しかし、有能ではあっても世間の機微には疎い本多正純は加増を受け、結果的には失脚をしました。
本多正信と徳川家康の関係は、主君と家臣の関係というよりも、個人と個人、友のような関係でした。
その個人の関係が極めて強力だったゆえに、本多正信と徳川家康がどちらも亡くなった後は、その関係が本多家と徳川家には伝えられることもなく跡形もなく消えてしまった。
断言はできませんが、そんな気がしています。
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