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はじめに
この記事では、徳川家康と築山殿(つきやまどの)の関係を、時系列でわかりやすくご案内していきます。築山殿は徳川家康の正室です。
しかし築山殿にとって、徳川家康の正室となったことは果たして幸せだったのでしょうか。
そんなことを考えながら、記事を書き進めていこうと思います。
なお、築山殿の元々の名前は瀬名姫ですが、この記事では築山殿としてご紹介をしていきます。
徳川家康と築山殿の関係1 結婚をするまで
築山殿は、関口親永の娘として生まれています。生年は不詳ながらも出自は分かっていて、関口親永は当時駿河や遠江を領有していた今川氏の重臣です。
今川氏には瀬名氏を名乗る一族がいましたが、瀬名氏から関口氏に養子として迎えられたのが関口親永です。
関口親永は単に今川氏の重臣というだけでなく、今川氏の一門に連なっていたようです。
関口親永は、井伊直平の娘を正室を迎えます。井伊直平の娘は、当時の今川氏の当主であった今川氏親の養女となったうえで、関口親永に嫁ぎます。
井伊氏も由緒ある家柄ですが、さらに箔をつけるため今川氏の養女になったものと考えられます。
この正室の名前は、はっきりとはわかっていないようです。ただ、関口親永とこの正室の間には、2人の男子と1人の女子が誕生しています。
この女子こそ築山殿です。
さて、築山殿が成長すると当然のことながら縁談の話がでてきます。
当時、有力武将の子供の多くはいわゆる政略結婚。基本的に自由恋愛は存在しない時代でした。
築山殿もご多聞にもれず、縁談は主君である今川義元の主導のもとに進められました。
では、築山殿の相手は誰だったのか。
その人物こそ後に徳川家康になる若者でした。
ところで、徳川家康との婚姻に際して築山殿の心情はどうだったのでしょうか。
徳川家康は三河国の領主となる立場にいました。
しかし三河国は今川氏の属国で、当時、徳川家康の居城である岡崎城には今川氏から派遣された代官が居座っています。
そして徳川家康は今川氏の本拠地である駿府で、人質としての生活を送っています。
築山殿は今川氏の一族に連なる身分。
一方、徳川家康は今川氏の人質。
現代風に言えば、まさに格差婚です。
築山殿の心中は穏やかではなかったのかもしれません。
また徳川家康は1543年の生まれで、築山殿と徳川家康の婚姻は1557年。
徳川家康の年齢はまだ14歳の頃。今でいえば少年です。
一方の築山殿は生年が不詳なのではっきりとはしませんが、既に20歳を超え徳川家康よりも10歳程度は年長であったと考えられています。
当時の感覚でいえば築山殿は婚期を逃した女性。その相手がはるかに年下の少年。もしかしたら築山殿には忸怩たる思いがあったかもしれません。
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徳川家康と築山殿の関係2 桶狭間の戦いまで
築山殿は複雑な思いで徳川家康との結婚に臨んだのかもしれません。
ただ、徳川家康と築山殿は案外と仲睦まじかったようで、1559年には男子(松平信康)、1560年には女子(亀姫)を授かっています。
ところが2人の仲はあることで亀裂が入ってしまいます。それが亀姫誕生の年に起こった桶狭間の戦いです。
桶狭間の戦いは今川義元が織田信長の尾張に攻め込んだ戦いで、当初は圧倒的に今川氏有利が伝えられていました。
ところが織田信長の奇襲により、今川義元はあっけない最期を迎えています。
桶狭間の戦いで徳川家康は今川軍の先鋒を務めていました。
しかし今川義元の死を知った徳川家康は、勢いに乗じた織田軍の攻撃をかわすため、当時住んでいた駿府ではなく、本来の居城である岡崎城に戻ります。
岡崎城には今川氏の代官がいるはずですが既に駿府に逃亡。徳川家康は空き城になっていた岡崎城に入城、駿府に戻ることはありませんでした。
徳川家康と築山殿の関係3 瀬名姫が築山殿となるまで
さて、ここで問題が発生します。徳川家康は本来の居城の奪還に成功したものの、正室の築山殿と子供たちは相変わらず駿府にいたまま。
築山殿は、今川氏の人質として留め置かれることになってしまいます。
また桶狭間の戦い以後、徳川家康は今川義元の後継であった今川氏真を見限り、織田信長に接近をします。
徳川家康と織田信長の同盟が成立したのが1562年。
この同盟は今川氏真の知るところとなり、今川氏真は激怒。
築山殿とその子供は無事であったものの、築山殿の両親は自害に追い込まてしまいます。
その後、徳川家康も今川氏一族の鵜殿氏を人質として確保。
松平氏の人質であった鵜殿氏と、今川氏の人質であった築山殿たちの人質交換が行われ、築山殿と子供はようやくにして岡崎に入ることができます。
しかし、これで問題が解決したわけではありません。
岡崎に戻った築山殿ですが、岡崎城にいた徳川家康の生母であるお大の方が築山殿を嫌って岡崎城への入城を認めませんでした。
築山殿は仕方なく岡崎の外れにある寺で生活することになります。
そしてこの寺には築山があったことから、いつしか瀬名姫は築山殿と呼称されることになります。
徳川家康と築山殿の関係4 築山殿が岡崎城に入るまで
築山殿が寺で生活をしている間、1567年には嫡男の松平信康が結婚をします。
その相手は織田信長の娘である徳姫。
築山殿は桶狭間の戦い後、徳川家康に見放されたような形で駿府で人質生活。
人質生活から解放され岡崎に戻ったものの、岡崎城での生活はできなかった。
さらに自分の子供である松平信康が、今川氏にとっては不倶戴天の敵である織田信長の娘(徳姫)と結婚。
どの時点かはわかりませんが、築山殿の心が大きく揺れ動いた時期があったのではないでしょうか。
さて1570年。
築山殿はようやく岡崎城に入ることができます。
ところが同年、徳川家康は自らの居城を浜松に移してしまい、築山殿と松平信康は岡崎城に残されてしまいます。
徳川家康が浜松城に移ったのは戦略上の理由によるものと思われますが、築山殿はここでも寂寥感を感じたのではないでしょうか。
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徳川家康と築山殿の関係5 築山殿事件
岡崎城にいた松平信康と徳姫の間には2人の子供が生まれますが、2人とも女子。後継ぎである男子がいつまでも生まれないことから、築山殿は松平信康に側室をおくことを勧めます。
徳姫は面白いはずがありません。
また、今川氏の出である築山殿と織田氏の出である徳姫は、不仲であったとも伝えられています。
そして事件が起こったのは1579年。
徳姫は、父である織田信長に書状を送ります。
その内容を要約すると、
築山殿は松平信康と自分(徳姫)の仲を引き裂こうとしている、
築山殿は出入りの医師減敬と密通をしている、
築山殿は武田氏と内通し謀叛を企てているというようなものです。
この書状を受け取った織田信長は、徳川家康の重臣である酒井忠次を呼びつけ内容を確認。
酒井忠次がその内容の多くを否定しなかったことから、織田信長は徳川家康に、築山殿と謀叛に加担していると疑われた松平信康の殺害を命じています。
徳川家康と築山殿の関係6 築山殿の最期
織田信長の命令により、徳川家康は重大な決断を迫られます。織田信長の命令を受け入れたら、嫡男である松平信康を失ってしまう。
一方、織田信長の命令を拒んだら織田信長を敵に回すことになってしまう。
答えは明白でした。
当時の徳川家康に織田信長に対抗するだけの力はありませんでした。
1579年、築山殿は徳川家康の家臣によって命を絶たれ、松平信康も切腹をします。
ここまでは徳川家康が意に反して松平信康を切腹に追い込んだという通説に従い、記事を書き進めてきました。
しかし近年では別の説も有力になっています。
それは徳川家康と嫡男である松平信康との間には意見の相違があり、2人には回復できないほどの亀裂が生じていたというものです。
そして、織田信長が築山殿や松平信康の殺害を命じたのも、徳川家康の意を汲んでのものだったというものです。
このあたりの真偽は定かではありませんが、たとえば武田信玄が嫡男の武田義信を廃嫡し死に追い込んだのも、意見の相違が原因とされています。
徳川家康が自らの意志で松平信康を死に追い込んだというのは、荒唐無稽な話でもないようです。
さいごに
正室である築山殿を失った徳川家康は、その後、側室は置いても正室を迎えることはありませんでした。厳密にいえば、徳川家康は後年、旭姫を正室に迎えてはいます。しかし、旭姫は豊臣秀吉の妹で政略結婚そのもの。
徳川家康を懐柔したかった豊臣秀吉が、強引に自分の妹を徳川家康の元に送り込んだものです。
徳川家康がどうして正室を迎えなかったのか。
その理由は定かではありません。
しかし、最初の正室である築山殿は、少なくとも結婚当時は格上。年齢も相当に上。築山殿は気位が高く、夫である徳川家康を自分より下に見ていた。
それに懲りた徳川家康は築山殿が亡くなって以降は正室を置こうとはしなかった。
こんな説が有力ですが果たしてどうでしょうか。
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