>
日本史 PR

徳川慶喜の評価が定まらない理由をいくつか考えてみました

徳川家の居城の江戸城
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

徳川慶喜(とくがわよしのぶ、1837年~1913年)は、江戸幕府第15代将軍であるとともに、江戸幕府「最後の将軍」として多くの人に知られています。

徳川慶喜が亡くなってからまだ100年余り。

普通に考えれば事績や考え方などが伝わり、評価もある程度は定まっていてもおかしくない人物のはずです。

しかし、徳川慶喜については評価が定まっていないようです。

評価がないわけではありません。評価はされているけれど、その評価が正反対に分かれていて、評価をすることが厄介な人物。

それが徳川慶喜です。

どうして、徳川慶喜は評価が定まらないのか、何か理由があるのでしょうか。この記事では、徳川慶喜の評価が定まらない理由を考えてみました。

徳川慶喜の評価が定まらない最大の理由とは

徳川慶喜は1913年(大正2年)73歳で亡くなります。

しかし、徳川慶喜が歴史の表舞台にあったのは慶応から明治へと年号が変わるころまでで、徳川慶喜自身の年齢では30歳頃までとなります。

明治になって徳川慶喜は歴史の表舞台から姿を消してしまいました。もしかしたら30歳以降の徳川慶喜は自身にとっては余生だったのかもしれません。

激動の時代に中心的役割を果たし余生も十分にあった。

本来であれば、この間、文書なり言葉なりで往時のことを語ることもできたはずですが、そのような痕跡はほとんど見受けられないようです。

歴史の中心的人物であったはずなのに、自らは往時のことに言及をしていない。このことが徳川慶喜の評価が定まらない最大の理由に思えます。

スポンサーリンク


徳川慶喜の人物像とは

徳川家の居城の江戸城
徳川慶喜の評価を考える前に徳川慶喜の人物像について考えてみました。

人物像1 徳川慶喜は英明であった

徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の子として生まれ、9歳で徳川御三卿の一つである一橋家を相続します。

毛並みの良さは折り紙付きで、幼少時から十分な教育を受け、しかも英明さが知られていました。

江戸幕府の中では、徳川慶喜は徳川家康公の再来とする評価もあったようです。

人物像2 徳川慶喜は尊王思想に篤かった

徳川慶喜は水戸徳川家の出身。水戸徳川家は徳川家康の第11男を祖としながらも基本的な思想は尊王。

その尊王思想を徳川慶喜も強く受け継いでいたと言われています。

人物像3 徳川慶喜は女性に人気がなかった

徳川慶喜は女性に人気がなかったようです。

特に徳川13代将軍家定の正室である天璋院(篤姫)、14代将軍家茂の正室である和宮は、徳川慶喜を嫌っていたことが知られています。

それは、徳川慶喜が女性を馬鹿にしている、嘘ばかり言うということで、もしそうだとしたら天璋院や和宮ばかりでなく多くの女性に嫌われていた可能性もあります。

人物像4 徳川慶喜は空気が読めなかった

明治時代になり徳川家の集まりがあった時、徳川慶喜はごく当たり前のように一番上座に座りました。しかし、このとき徳川慶喜は隠居の身で徳川家の当主は徳川家達です。

本来であれば徳川家達が上座に座るところなのに、徳川慶喜はまったく気がつかなかったようです。最終的に徳川家達に促されて徳川慶喜はその席を譲っています。

また、これも明治のことですが静岡に隠棲した徳川慶喜は写真などの趣味に没頭し、悠悠自適の生活を送ります。

しかし、その周囲に住んでいたのは旧徳川の幕臣でこの人たちの多くは生活に困窮していたと言われています。

旧幕臣から見たら、徳川幕府をつぶして自分たちから生活の糧を奪った当事者が目の前で遊んでいる。徳川慶喜の生活に対して周囲の目は厳しかったと言われています。

スポンサーリンク


徳川慶喜の評価を2分する最大の原因

幕末とあって徳川慶喜の周囲ではたくさんの事件がありました。その中でも徳川慶喜の評価を2分する最大の原因となったのが、鳥羽・伏見の戦いです。

鳥羽・伏見の戦いは、1868年1月3日に勃発しています。

前年に大政奉還した後、幕府軍は旧幕府軍となりましたが、この旧幕府軍・会津藩・桑名藩の軍勢が、主に薩摩藩を中心とする軍勢と衝突したのが鳥羽・伏見の戦いです。

戦いそのものは薩摩藩の勝利に終わりましたが、その当時の戦力を考えると旧幕府軍にも十分な勝機がありました。

仮にこの戦いが続いていたとすれば、旧幕府軍が勝利したのではないかとも言われています。

しかし、徳川慶喜は戦いを継続するどころか、旧幕府軍に戦いを続けることを命じておきながら、自らは江戸に帰ってしまいます。

家臣を見殺しにして、自分だけ安全なところへ逃げ込んだわけですから、評価が最悪になってもいたし方のない所です。

ただ、勝機が十分にあったにも関わらず、どうして江戸に帰ったのか。その理由を考えると徳川慶喜の評価は一筋縄ではいかなくなってきます。

理由1

まず、考えられるのは徳川慶喜は尊王思想が篤かったことです。

敵を薩摩を中心とする軍勢と書きましたが、この軍には「錦の御旗(錦旗)」がありました。

軍が錦旗を持っているということは朝廷の軍勢の証。尊王思想に篤かった徳川慶喜が戦を続けられなかったのは当然のことかもしれません。

理由2

徳川慶喜がこだわったのは戦の勝敗ではなく、戦を早く終結させること。

鳥羽・伏見の戦いが長く続いた場合、一番得をするのは諸外国です。また下手をすれば日本が植民地化される。そんな可能性さえありました。

英明を謳われ、中国など諸外国の状況も知悉していた徳川慶喜の最善の選択。それは戦いを一日も早く終わらせることにあったと言われています。

事実、江戸に帰った徳川慶喜は主戦派の小栗忠順などを遠ざけ、恭順派の勝海舟を重用し、自らは謹慎生活に入り恭順の意向を示しています。

勝てる戦なのに戦わなかった。これを臆病と謗る向きもあるようですが、逆にこれだけ徹底した恭順の意志を示すこともなかなかに難しいはずです。

考えようによっては、徳川慶喜は相当に胆力がある人物と考えることもできます。

さいごに 徳川慶喜の評価とは

徳川家の居城の江戸城
徳川慶喜が恭順の意志を示したことで、日本の内乱は短期間で終結することができました。また、結果的に江戸無血開城で、江戸を戦火から救うこともできました。

そのように考えると、徳川慶喜は英明で胆力のある人物。そうした評価が成り立ちます。

ただ、前述のとおり恭順の意を示す前に家臣を見捨てた。また、江戸は助かったが、その代わりに会津藩の悲劇をもたらすことにもなった。

そのように考えると、徳川慶喜は臆病で信用できない人物。そうした評価も成り立ちます。

また、そのことは別にして明治以降の悠悠自適の生活。もしかしたらこれにも深い意図があったのかもしれませんが、表面上は周囲の人を思いやる心に欠けていたのではないか。

そんな風に考えることもできそうです。

徳川慶喜は長命でしたが、その後半生において、ほとんど何も語っていない。それが徳川慶喜の評価を難しくする最大の理由。そんな気がしています。

 
■合わせて読みたい

こちらの記事もお読みください