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和田義盛の乱までの経緯をわかりやすくお伝えします!

和田義盛の乱の舞台となった鎌倉
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はじめに

鎌倉幕府の草創期に有力武将の一人として活躍したのが、和田義盛(わだよしもり、1147年~1213年)です。

源頼朝が亡くなった後にできた、鎌倉殿の13人と言われる合議制の機関でも有力御家人の一人として名前を連ねていますが、最期は和田義盛の乱で非業の死を遂げます。

この記事では、和田義盛の乱までの経緯をわかりやすくお伝えします。

和田義盛が侍所別当になるまで

1147年、和田義盛は三浦氏の支族の子として誕生します。

そして、和田義盛が世の中に出てくるのは1180年、33歳の頃です。

1180年8月、伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)が平家打倒のため挙兵。

三浦氏は源頼朝に味方することを決め、和田義盛も行動を共にします。ただ、この時は参陣する前に、肝心の源頼朝が石橋山の戦いで平家方に敗れています。

三浦氏も本拠地の三浦半島に帰る途中、鎌倉の由比ヶ浜で平家方に属していた畠山重忠(はたけやましげただ、1164年~1205年)の軍勢と武力衝突。

さらに畠山重忠は三浦氏の衣笠城を襲い、三浦一族は海上への逃避を余儀なくされます。

この海上で三浦一族は、源頼朝の義父である北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)と合流。

三浦氏と北条氏は、現在の千葉県鋸南町の辺りに逃れ、石橋山の戦いで敗れた源頼朝を迎え入れます。

この時、和田義盛は源頼朝にあるお願いをします。それは、源頼朝が天下をとったら、自分を侍所別当にしてほしいというものです。

9月になると源頼朝は再起を図るため、近くの有力武将に参陣を命じます。

有力武将の千葉常胤(ちばつねたね、1118年~1201年)には安達盛長(あだちもりなが、1135年~1200年)。

同じく有力武将の上総広常(かずさひろつね、不詳~1184年)には和田義盛が使者となり、結果的にこの2人が加わることで源頼朝は一気に大きな勢力を得ます。

また10月になると、三浦氏と敵対していた畠山重忠などの軍勢も加わり、10月には富士川の戦いで平家方に勝利。

11月には、足元を固めるため源頼朝は鎌倉の地に戻り様々な機関を設置。この時、和田義盛は念願の侍所別当に任じられます。

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源頼朝が亡くなるまで

和田義盛は侍所別当の職務をこなしますが、しばらくの間、戦いそのものへの参加はしていません。

和田義盛が参陣をするのは1184年。

10月に源頼朝の命を受けた源範頼(みなもとののりより、1150年~1193年)が、平家追討のため九州に向かおうとしますが、この時、和田義盛は軍奉行として参陣しています。

九州へ行くのは、平家を西方から包囲するためのものですが、実際には九州にわたる船の調達ができず、軍の規律も緩んできます。

源範頼の相談相手として重宝されていた和田義盛でさえも、軍を引き返し鎌倉に戻りたいという願いを持っていたようです。

源範頼が九州にわたることができたのは1185年。その後、九州の平家方に勝利し、西方の包囲網構築に成功します。

この時、平家と正面から対峙していた源義経(みなもとのよしつね、1159年~1189年)は、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させますが、この戦いで源範頼は源義経の軍の支援をしています。

平家を滅亡に追い込んだ随一の立役者は源義経。しかし、平家滅亡後は源義経と源頼朝が深刻な対立に陥ります。

源義経は奥州の地に逃れるものの、奥州を治めていた藤原泰衡(ふじわらのやすひら、不詳~1189年)により討ち取られています。

その後、鎌倉の地で源義経の首実検をしたのが、梶原景時(かじわらかげとき、不詳~1200年)と和田義盛と言われています。

1190年、和田義盛は源頼朝に従い上洛します。

この時の行列の先陣に任じられたのが和田義盛で、さらに源頼朝の推挙により左衛門尉に任じられています。

推挙されたのは10人ということなので、和田義盛は有力御家人の一人であったことがわかります。

1192年、和田義盛は長らく務めていた侍所別当の職を梶原景時と交代します。一説によれば梶原景時のはかりごとによって、侍所別当の職を奪われたとも言われています。

1199年、源頼朝は亡くなり、嫡男であった源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)が鎌倉幕府2代将軍の座に就きます。

しかし、源頼家の政治手法に疑問を持った有力御家人は合議制の機関を作り、これが後世、鎌倉殿の13人と呼ばれるようになります。
 

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和田義盛の乱で生涯を閉じるまで

合議制の機関といっても所詮は有力御家人の権力闘争の場で、まず敗れたのが梶原景時です。

鎌倉殿の13人ができたのは源頼朝が亡くなり、源頼家が将軍の座に就いたのと同年の1199年。

しかし、その直後から梶原景時の排斥運動は起こっており、排斥に重要な役割を果たしたのが和田義盛です。

梶原景時は1200年に討伐され、和田義盛は梶原景時に代わり、侍所別当に復職しています。

1203年9月、鎌倉殿の13人の中で、北条時政と比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)が対立、北条時政は比企能員を自邸に招き謀殺します。

さらに北条氏は比企一族の籠っていた屋敷を襲い、比企一族を滅亡に追い込みますが、侍所別当の和田義盛も比企氏討伐のため参陣しています。

また同月には、北条氏専横に怒った源頼家が、和田義盛と仁田忠常(にったただつね、1167年~1203年)に北条氏討伐の御教書を発しますが、和田義盛はこれを北条時政に知らせてしまいます。

北条時政により仁田忠常は討たれ、源頼家は修善寺に追放され、源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)が三代将軍の座に就き、さらに北条時政自身は鎌倉幕府の初代執権の座に就きます。

1205年6月、畠山重忠に謀反の疑いがかけられ、北条時政の嫡男である北条義時(ほうじょうよしとき、1163年~1224年)を総大将とする軍が畠山重忠討伐に向かい、和田義盛も参陣。

畠山重忠は討たれますが、そもそも畠山重忠に謀反の事実はなく、北条時政が仕組んだものとも考えられています。

様々な権力闘争をうまくかわしてきた和田義盛ですが、ある事件をきっかけに坂道を転がり落ちていきます。

1213年、泉親衡(いずみちかひら、生没年不詳)の企てが露見します。

泉親衡は、現在の長野県上田市を本拠とする武将で、すでに亡くなっている源頼家の子を擁立して北条氏打倒を画策。

この企ては事前に露見して泉親衡は逃亡。

しかし、和田義盛の子の和田義直(わだよしなお、1177年~1213年)、和田義重(不詳~1213年)、甥の和田胤長(わだたねなが、1183年~1213年)が加担していたことが明らかになります。

子の和田義直、和田義重は許されたものの、和田胤長は関与が深かったとして陸奥国に配流、鎌倉の邸も没収。

和田義盛は一族の和田胤長の邸を和田一族に戻すように求め、一度は認められるものの、最終的に邸は他の御家人にわたってしまいます。

和田胤長の配流、和田胤長の邸の没収。

このすべてを取り仕切ったのが北条時政に代わり、2代目執権となっていた北条義時ということで、和田義盛と北条義時の仲は悪化します。

そこで、和田義盛は反北条勢力を結集して挙兵することを画策。

しかし、すでに味方をすることを約束し、和田義盛も頼りにしていた三浦義村(みうらよしむら、1168年~1239年)が変心して北条義時に寝返りし、追いつめられた和田義盛は鎌倉の地で挙兵。

激しい市街戦が繰り広げられ状況も一進一退でしたが、和田義盛は討ち取られ、一族の多くも運命を共にしています。

この一連の流れを和田義盛の乱と称しています。
 

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さいごに

和田義盛の乱で、和田義盛が最期を迎えるまでの経緯をわかりやすくお伝えしてきました。

和田義盛は初代の侍所別当に任じられた通り、武勇にすぐれた人物と言われていました。また、愚直さで多くの武将に信頼されていました。

しかし、一方では思慮に欠けるとも言われ、これが滅亡の原因になったとも考えられています。

鎌倉幕府草創期には武勇に優れる武将が必要だったのは事実ですが、政治が安定してくるとむしろ邪魔になってしまっていた老将。

それが和田義盛という人物であったのかもしれません。

 
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