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はじめに
この記事では、日本三大怨霊についてご案内をしていきます。ところで日本三大怨霊は、菅原道真と平将門と崇徳天皇と言われていますが、そもそも怨霊とは何でしょうか。
怨霊は自分が受けた仕打ちに対し恨みを持ち、その死後もたたりをもたらすとされています。
では、日本三大怨霊として知られる菅原道真と平将門と崇徳天皇は生前にどのような仕打ちを受けたのでしょうか。
そのあたりを簡単にご紹介をしていきます。
日本三大怨霊1 菅原道真
菅原道真は、845年に生まれ、903年に亡くなります。当時としては、そこそこの寿命を全うしていますし、暗殺されたという説も聞きません。
また、菅原道真は現在でも知名度の高い人物ですが、それは菅原道真が学問の神様と崇められているため。決して、怨霊だから知名度が高いわけではなさそうです。
では、どうして菅原道真が日本三大怨霊の一人に数えられているのでしょうか。
菅原道真は、幼少時より詩歌に卓越した才能を見せていたとされています。
そのため宮中での出世も早く、家格がそれほど高くなかったにも関わらず、当時の宇多天皇に引き立てられ公卿の地位にまで上り詰めます。
また、当時の権力者は藤原氏でしたが、菅原道真も藤原氏と同様に天皇家との縁戚関係を結び、その地位を確固たるものにしていきます。
この当時の、菅原道真で特筆すべきことは遣唐使を廃止したこと。
遣唐使は619年頃から始まったとされていますが、菅原道真は894年にこれを廃止。その後、907年に唐が滅亡していることを見ても、菅原道真の慧眼ぶりがうかがえます。
菅原道真は宇多天皇の後、醍醐天皇の元でも力を発揮し899年には右大臣まで出世をします。
しかし、菅原道真の出世は同時に藤原氏を敵にしてしまうことも意味していました。
そして、醍醐天皇を廃位する企みがあり、その首謀者が菅原道真であったと讒言を受けて菅原道真は失脚。
この讒言は最大の権力者である藤原氏により行われたという説が有力ですが、最終的に菅原道真は京都から九州の大宰府に左遷を命じられます。
菅原道真が日本三大怨霊とされるのは、菅原道真が亡くなった後、さまざまに起こった不幸が原因とされています。
その主だったものを時系列でご紹介していくと
909年 | 菅原道真を陥れた藤原時平が39歳で病死 |
923年 | 醍醐天皇の皇子(藤原時平の甥)が死去 |
925年 | 醍醐天皇の孫(藤原時平の孫)が死去 |
930年 | 醍醐天皇が死去 |
したがって、藤原時平や醍醐天皇に降りかかった災難はすべて菅原道真道真の怨霊によるものだと考えられてきました。
そこで朝廷は菅原道真を右大臣に復位させ、さらに左大臣、太政大臣と既に亡くなっている菅原道真を出世させていきます。
さらには、菅原道真の霊を慰めるために、京都に北野天満宮を建立します。これが天神信仰の始まりで、後世、菅原道真は学問の神様として崇められるようになります。
菅原道真が左遷されたことをどれだけ恨みに思っていたのかは定かではありませんが、その後に数々の不幸が訪れたのは事実。
こうした恨みを恐れた朝廷が遅ればせながら菅原道真の名誉を回復して、怨霊から学問の神様になっていったのでしょうか。
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日本三大怨霊2 平将門
平将門は生年は不詳ですが903年という説が有力です。一方、没年は940年。平将門の乱を起こし敗死しただけに、こちらについては確かなようです。
生まれた場所は現在の千葉県あたりと考えられています。平将門自身は桓武天皇の流れを汲む人物ですが、既に臣籍に降下をしています。
そのため、平将門は15歳の頃に平安京に出て朝廷に仕えますが、思うような出世もできず20歳代後半には関東の地に舞い戻っています。
関東に戻った平将門を待ち受けていたのは地元の平氏一族を初めとする豪族たちとの騒乱。
この騒乱の理由もいくつも挙げられていますが、実際はどれが正しいのか今でもはっきりとしていないようです。
ただ、はっきりとわかっているのは数々の戦いの中で平将門が台頭をしてきたこと。
関東での争いは一時は朝廷を巻き込むほどでしたが、それでも結果的に平将門は処分されることもなく、関東での地歩を築いていきます。
しかし、その後の平将門は関東で国府軍と戦い、結果的に朝廷に反旗を翻すことになります。
こうして起こった平将門の乱は初めの頃は平将門に有利に働き、平将門は「新皇」を自称するようになります。
当初は関東の一部での騒乱とみていた朝廷も平将門の勢いが増すにつれ本腰を入れ始め、ついに平将門は討死をします。
平将門の乱はあまりにも有名ですが、乱は僅か3か月で終息。討死をした平将門の首は平安京で晒されます。日本の歴史上、晒し首(さらしくび)になったのは平将門が最初と言われています。
平将門が日本三大怨霊とされるのは、平将門の晒し首に起こったさまざまなできごとが原因とされています。
そのいくつかをご紹介すると
・ 晒し首は数か月の間、目を見開いていた。
・ 晒し首の前で歌人が歌を詠んだところ、晒し首が「俺の胴は何処にあるのか」と語った。
・ 晒し首が自分の胴体を探しに東方に飛び去ってしまった。
晒し首に関しては、これ以外にもいくつかの伝承があるようですが、何れも平将門の無念を示す事柄になっているようです。
また、関東に飛んで行った首は関東にたどり着いたという意見もあれば、途中で地上に落ちてしまったという意見もあり、首が落ちたと伝われる場所には今でも平将門の首塚と称されるものが残っています。
平将門に対する評価は今でも分かれています。
ただ、はっきりとしているのは平将門が討死をしたこと。
古来、戦いに敗れ討死をした武将は無数にいるはずですが、どうして平将門だけが日本三大怨霊と言われるようになったのでしょうか。
少し、不思議な気もします。
なお、平将門は1309年に神として祀られ、現在も神田明神に合祀をされています。
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日本三大怨霊3 崇徳天皇
崇徳天皇は第75代天皇で、1119年に生まれ、1164年に亡くなります。どうして、崇徳天皇は日本三大怨霊の一人に数えられるようになったのでしょうか。
崇徳天皇は鳥羽天皇の常位により1123年、僅か3歳で天皇の地位につきます。
しかし、天皇を退位した鳥羽上皇は美福門院を寵愛し、その間に皇子が誕生したことから崇徳天皇に譲位を迫ります。
1141年、結果的に崇徳天皇は譲位をし、近衛天皇にその座を譲ることになります。
崇徳天皇はその後、崇徳上皇になります。通常、上皇はそれなりの権力を握るものでしたが、実際には鳥羽法皇の権力が強く、大きな権力は与えられなかったと考えられています。
近衛天皇は17歳で崩御します。この場合、崇徳上皇の皇太子が次の天皇になる可能性もありましたが、権力基盤の弱かった崇徳上皇にはその力はなかったようです。
崇徳上皇の立場が激変をしたのは1156年。 鳥羽法皇が崩御したことに端を発します。
鳥羽法皇が亡くなるとすぐに起こったのが権力争い。具体的には崇徳上皇と近衛天皇の後を継いだ後白河天皇の後継者争い。
この争いは、朝廷に仕える多くの人を巻き込んで、後世、保元の乱と称されるようになります。
保元の乱の結果、崇徳上皇は敗れ一命は助かりますが讃岐国に流罪となります。元々、天皇であった人物が流罪になるのは約400年ぶりのこと。
この無念さが崇徳天皇を日本三大怨霊の一人にしたものと思われます。
流罪になった崇徳天皇は再び京の地に戻ることはなく1164年讃岐国で亡くなります。死因は病死というのが通説ですが、暗殺という噂もあるようです。
崇徳天皇が日本三大怨霊とされるのは、さまざまに起こった不幸が原因とされています。
その主だったものを時系列でご紹介していくと
1176年に建春門院・高松院・六条院・九条院が死去。
建春門院は後白河天皇の妃。高松院は近衛天皇の同母妹。六条院は第79代六条天皇で後白河天皇の孫。九条院は、近衛天皇の中宮です。
1177年に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が起こる。
この中で安元の大火は平安京の多くを焼き払う大火。鹿ケ谷の陰謀は時の権力者であった平清盛の暗殺を企てる陰謀。
鹿ケ谷の陰謀は事前に食い止められましたが、この3つの事件は当時の民衆の不安を煽るものであり、当時から崇徳天皇の祟りという噂があったようです。
こうした事件を背景に、崇徳天皇の怨霊を恐れた後白河天皇(当時は後白河院)は崇徳天皇の名誉の回復を図り、崇徳天皇の怒りを鎮めたとされています。
日本三大怨霊のまとめ
この記事では、日本三大怨霊としてあげられている菅原道真と平将門と崇徳天皇、3人の人物を簡単にご紹介してきました。
怨霊とは、生前に受けた仕打ちに対し恨みを持ち、その死後もたたりをもたらすとされています。
日本三大怨霊の特徴としては確かにそのとおりですが、実際に非業の死を遂げたのは平将門のみ。
菅原道真と崇徳天皇については、生前の仕打ちによる恨みはともかくとして、一般には病死という説が有力です。死因と怨霊はあまり関係はないということでしょうか。
また、日本三大怨霊については時代が比較的古いという特徴もあります。
西暦でいえば、菅原道真と平将門は800年代、900年代の人物。崇徳天皇はもう少し時代が新しいとはいえ1100年代の人物。
怨霊になるには時代というのも関係しているのか。そんな気もします。
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