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はじめに
桂久武と西郷隆盛の関係をわかりやすくお伝えします。西郷隆盛は度量の大きさから多くの人に影響を与え、多くの人が西郷隆盛によって運命を変えられています。
その一人が桂久武(かつらひさたけ)です。
この記事では、桂久武が西郷隆盛と出会ったことで、どのように運命を変えていったのかを中心にご案内します。
まずは、桂久武と西郷隆盛の生没年をお伝えをします。
★ 桂久武の生没年 1830年7月4日~1877年9月24日
★ 西郷隆盛の生没年 1828年1月23日~1877年9月24日
年齢は西郷隆盛の方が約2歳の年上。一方、桂久武と西郷隆盛は同日に亡くなっていることがわかります。
それでは、桂久武と西郷隆盛の関係を時系列でご案内していきます。
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桂久武と西郷隆盛の関係1 奄美大島
桂久武は、薩摩藩主島津氏の分家である日置島津家当主島津久風の第5男として、1830年に生まれています。兄には西郷隆盛の思想に大きな影響を与え、お由羅騒動で不慮の死を遂げた赤山靭負(あかやまゆきえ、1823年~1850年)がいます。
その後、1855年には桂家の養子となり、桂久武となります。
桂久武は薩摩藩の中で要職を務めますが、主君である島津斉彬が亡くなると状況は一変。1861年、桂久武は奄美大島への左遷を命じられてしまいます。
一方の西郷隆盛は元々は薩摩藩の下級武士でしたが、島津斉彬に見いだされ江戸や京都で活動をしていました。
しかし同じく島津斉彬の死により運命が一転。西郷隆盛は、奄美大島に流罪を命じられます。
西郷隆盛が奄美大島に流罪となったのは1858年のこと。その後、1861年11月に西郷隆盛は赦されて薩摩に戻ります。
桂久武と西郷隆盛がいつ出会ったのかは定かではありません。
ただ、桂久武は1861年に奄美大島に赴任をします。西郷隆盛は、1858年から1861年11月まで奄美大島に流罪の刑に処せられています。
桂久武と西郷隆盛は短いながらも同時期に奄美大島にいて、このときに桂久武と西郷隆盛の関係が生まれたと考えられています。
なお、西郷隆盛は奄美大島で島の娘である愛加那と結ばれています。そして、西郷隆盛と愛加那の間には菊次郎、そして西郷隆盛が薩摩に戻った後には菊子という2人の子が生まれています。
西郷隆盛が薩摩に戻るとき、島の掟ということで愛加那は島に留まらなけれはいけなくなり、子も奄美大島に残ることになります。
西郷隆盛が奄美大島を去った後、桂久武は愛加那と2人の子の面倒をみたと伝えられています。
桂久武と西郷隆盛の関係2 沖永良部島
その後、桂久武は薩摩に戻ります。一方、薩摩に戻った西郷隆盛でしたが、薩摩藩の実質的な権力者だった島津久光の命令に背いたことで、1862年6月には沖永良部島への遠島を命じられます。
沖永良部島は、奄美大島よりもさらに遠隔の地。処遇も前回の遠島よりもはるかに厳しいもので、西郷隆盛自身も暗殺されることを覚悟していたようです。
桂久武は西郷隆盛に何度も手紙を送ったと伝えられています。その内容は「(西郷隆盛が)赦免されるよう努力をするから、短気を起こさず辛抱強く待っていてくれ。」というものでした。
桂久武は薩摩に戻った後、1865年には家老にまで上り詰めます。一方の、西郷隆盛は島津久光の意向に逆らい2度目の流罪。桂久武が西郷隆盛に近づくのは相当の危険があったはずです。
桂久武は自分に災難が降りかかってくるのも顧みず、西郷隆盛の赦免に尽力をした。
このことは感情の量が人一倍多いと言われた西郷隆盛を感動させ、西郷隆盛と桂久武の関係は終生にわたって強固なものとなっていったようです。
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桂久武と西郷隆盛の関係3 戊辰戦争
家老になった桂久武は長州の木戸孝允を厚遇。こうした活動がきっかけとなり、薩長同盟が結ばれます。薩長同盟がなければ明治維新は起こらなかった、あるいは遅れたと言われていますが、桂久武は薩摩藩の家老として重要な役割を担っています。
また、桂久武のこうした活動は、西郷隆盛との関係をより強固なものにしたと言われています。
戊辰戦争において桂久武が担った役割は兵站(へいたん)。桂久武は戊辰戦争時に薩摩に留まり、官軍に必要な兵器・弾薬・金銭等の調達を図っています。
桂久武は戊辰戦争での官軍の活躍を側面から支えています。
明治政府が樹立した後の桂久武は、現在の知事にあたるような仕事を歴任しますが、病気を理由に1873年には郷里の鹿児島に帰っています。
桂久武と西郷隆盛の関係4 西南戦争
西南戦争は、1877年に鹿児島の私学校と明治政府の間で行われた戦いです。私学校の中心人物は西郷隆盛。明治政府の中心人物は大久保利通です。
当時、薩摩にいた桂久武は非戦論者で、私学校にも明治政府にも与する気持ちはなかったと考えられています。
私学校が進軍を開始する前夜、西郷隆盛は桂久武の元を訪れ、深夜まで話し込んだと言われています。
その話の内容は分かってはいませんが、西郷隆盛が桂久武を戦いに巻き込もうとした可能性は低く、西郷隆盛が桂久武の厚情に感謝し別れを告げに来たのではないかと考えられています。
私学校が出陣するとき桂久武はそれを見送っています。しかし、桂久武は急遽家から武具を取り寄せ、私学校の軍に参加をします。
西郷隆盛自身もこのことは予期していなかったようで、桂久武の参陣に対して心から感謝をしていたようです。西南戦争において桂久武は戊辰戦争の時のように兵站と募兵の役割を担っています。
西南戦争は時の経過とともに明治政府が有利となり、私学校は鹿児島の城山に籠り最後の抵抗を図ります。
桂久武も西郷隆盛と共に城山に籠りますが、兵站と武具の修理、爆薬の製造を行っています。
1877年9月24日、明治政府は城山の総攻撃に取り掛かります。このとき、西郷隆盛を初め私学校の幹部たちの多くは亡くなりますが、桂久武も同じ。
敵軍の放った流れ弾が当り、幹部の中ではもっとも早くに亡くなったと言われています。
さいごに
この記事では、桂久武と西郷隆盛の関係を時系列でお伝えしてきました。
西郷隆盛が最も尊敬していたのは主君である島津斉彬。このことは恐らくですが間違いないところろだと思います。
では、西郷隆盛が最も信頼していたのは誰でしょうか。もっとも有力なのは、幼馴染でもあった大久保利通だと思われます。
では、桂久武はどうでしょうか。
桂久武は、西郷隆盛の1回目の遠島、2回目の遠島。それぞれで西郷隆盛の苦境を救っています。また、戊辰戦争や西南戦争では、西郷隆盛を側面から支えています。
まさかの時の友こそ真の友と言われていますが、西郷隆盛にとって桂久武はまさにそうした存在。
西郷隆盛の書状でもっとも多いのは桂久武あてのものとも言われていますが、西郷隆盛と桂久武は真の友。
もしかしたら大久保利通以上に、桂久武と西郷隆盛は深い関係で結ばれていたのかもしれないですね。
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