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今川氏真と徳川家康はどんな関係だったの

今川氏真と徳川家康はどんな関係だったの

今川氏真と徳川家康の関係についてご案内をしていきます。

今川氏真と徳川家康は2人とも戦国時代の武将。

そして歴史上あまり目立たないけれど、この2人はその生涯を通じて不思議な関係であったようです。

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 今川氏真・徳川家康とは

今川氏真は、1538年に生まれ、1615年に亡くなっています。

父は海道一の弓取りと称賛された駿河・遠江の太守今川義元。

今川家は室町幕府の中でも名家として知られた存在ですが、戦国時代に入ると守護大名から戦国大名へ見事な脱皮を図っています。

今川氏の勢力が最大であったのは今川義元の時代。しかし、今川義元が桶狭間の戦いで討死した瞬間から今川氏は没落していきます。

戦国大名としての今川氏が滅亡をしたのは1569年。

桶狭間の戦いは1560年ですから、その僅か9年後に大名としての今川氏は滅亡をしてしまいます。

今川義元の後継者が今川氏真です。今川氏真が実質的に今川義元の後継となってから10年ももたずに今川家は滅亡。

ところが今川氏真自身は生き残っていています。

そのような経緯が徳川家康との関係を不思議なものにさせていると言ってもいいようです。

徳川家康は、1543年に生まれ、1616年に亡くなっています。今川氏真よりは少し年下ですが、同時代を生きた武将と言えます。

徳川家康は三河を領有していた松平広忠の嫡男。しかし松平広忠が家臣に討たれてしまったことで、徳川家康は年少時から数奇な運命をたどります。

徳川家康は竹千代と言われた幼少のころから人質生活を送ります。最初は織田氏の人質。次が今川氏の人質です。

特に今川氏の人質となっていた年数は約10年にも及びます。徳川家康は少年期から青年期にかけて今川氏の人質として過ごしています。

その運命が大きく変わったのはやはり桶狭間の戦い。

桶狭間の戦いに先鋒として出陣していた徳川家康は、今川義元の死を知るとともに自らの領国である三河の岡崎城に入城。

今川氏の後継となった今川氏真の意向に逆らい、今川氏にとっては不倶戴天の敵である織田信長と同盟を結びます。

1582年織田信長が本能寺の変で横死すると、その後は天下人となった豊臣秀吉に臣従。

豊臣秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いで大勝、1603年には江戸幕府を開き、実質的に豊臣氏に代わって天下人となります。

その後、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅亡に追い込み、その翌年に病死をします。

今川氏真と徳川家康の関係は普通に考えたら、徳川家康が人質生活を送っていた時代に限定をされるはずです。

しかし実際はそうはならなかった。

このあたりが今川氏真と徳川家康の関係の不思議なところです。

今川氏真と徳川家康の関係 桶狭間の戦いまで

今川義元像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川家康が駿府で人質生活を送っていた当時の領主は今川義元です。

今川義元は徳川家康の生殺与奪の権を握っていましたが、実際は徳川家康に対して十分すぎるほど文武についての教育を施しています。

もちろん今川義元が善意で行っているわけでもなく、将来の今川家の家臣を育てるという意向が強かったものと思われますが、その教育が後の徳川家康に大きな影響を及ぼしたのは事実のようです。

もっとも徳川家康の側から考えたらやはり人質。心休まる日はなかったかもしれません。

ところで今川氏真です。今川氏真は太守今川義元の嫡男。紛れもなく今川家の正当な後継者です。また、徳川家康より約5歳の年長。

立場から考えても、年齢的にも徳川家康よりもはるかに上です。徳川家康から見たら主筋にあたるのが今川氏真です。

徳川家康と今川氏真にどの程度の接点があったのかはわかりませんが、今川氏真が上、徳川家康が下という決定的な差がありました。

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今川氏真と徳川家康の関係 大名の今川氏が滅亡するまで

1560年、桶狭間の戦いで今川義元はあっけない最期を迎えます。しかし、桶狭間の戦いで今川家の領地がなくなるわけではありません。

今川家にとって桶狭間の戦いは大きな痛手であったことは間違いないところ。この戦いで今川家は有力な家臣も多く失っています。

しかし戦った相手の織田信長も精一杯の戦い。今川氏を追撃するような余裕は持っていませんでした。

桶狭間の戦い直後の状況を考えると、今川氏のしなければいけないことは今川義元の弔い合戦です。

今川氏の戦力は落ちてしまったとはいえ、まともに戦えば織田信長よりは上。

そのため弔い合戦を主張する声は家臣に多く、実際に今川義元亡き後の今川氏真にもそうした願いが多く届けられていたようです。

しかし今川氏真自身は弔い合戦に積極的ではありませんでした。

結局、今川氏真は弔い合戦のような大規模な戦を仕掛けることはありませんでした。

弔い合戦は時が大切です。その時期をむざむざ逃してしまった今川氏真を見限って今川氏から離反していった家臣はことの他多いようです。

では徳川家康はどうだったのでしょうか。

桶狭間の戦いが終わって、事実上、今川氏の人質から解放された徳川家康は本拠地である三河の岡崎城に入ります。

そして今川氏真の資質を見限った徳川家康は1562年に桶狭間の戦いでは敵であった織田信長と同盟を結び、実質的に今川氏との関係を断ち切ることになります。

今川義元の時代、領国は駿河と遠江、そして三河も実質的に支配下に置いていました。

その中で、三河は徳川家康と織田信長の同盟をきっかけとして、今川氏の支配下ではなくなっていきます。

また三河に続き遠江も井伊氏などの離反があって今川氏の勢力が及びにくくなっています。

ただ、この段階で今川氏の滅亡というのは考えられませんでした。

今川氏真について大方の評価は低いものです。しかし、今川家には今川氏真の祖母に当たる寿桂尼が健在でした。

寿桂尼は女戦国大名と言われたほどの傑物。寿桂尼が元気である限り、近隣の諸国も手を出せない状況であったようです。

しかし寿桂尼は1568年に亡くなります。

すると状況は一変。

1568年には甲斐の武田信玄が駿河に侵攻をしてきます。また三河からは徳川家康も侵攻をしてきます。

桶狭間の戦い後の今川氏真と徳川家康の関係は主従関係から同じ戦国大名として対等の立場に変わっています。

しかも、味方同士ということではなく敵対関係でこの両者は戦ってもいます。

1569年、今川氏真は駿河をも失い、戦国大名としての今川家はここに滅亡をします。

今川氏真と徳川家康の関係 後半生

徳川家康像



 

 

 

 

 

 

 

 

今川氏真が大名の地位を失ったのは30歳を過ぎたころ。

今川氏真の享年は77歳ということですから、大名でなくなった今川氏真にとってはあまりにも長い後半生になります。

今川氏真に関して何よりも不思議なのが、武田氏と徳川氏によって大名の地位は奪われてしまったものの、命は奪われていないということです。

似た境遇の持ち主としてあげられるのが武田勝頼です。武田信玄亡き後、後継となった武田勝頼ですが、結果的に織田氏に攻め込まれて1582年に武田勝頼は自害をしています。

この例をあげるまでもなく、一般的に戦国武将が戦に敗れるときは命も失うとき。これが戦国時代の一般的な常識です。

ところが今川氏真は大名としての地位を追われても天寿をまっとうしている。

今川氏真は何を考えていたのだろう。戦国大名としてはとても珍しい生き方をしているだけに、とても興味を掻き立てられます。

さて、大名でなくなった後の今川氏真はここから流転の人生を始めることになります。

今川氏真がまず頼ったのが、自身の正室の実家である北条家。当主は北条氏康です。

しかし1571年に北条氏康は亡くなり、後継の北条氏政は武田氏に接近。命の危険を感じた今川氏真はなんと三河の徳川家康を頼り、徳川家康も今川氏真を庇護します。

この段階で今川氏真と徳川家康の関係ははっきりと逆転したと考えられます。

今川氏真がいつまで三河に滞在していたのかはわかりません。ただ1583年までは浜松に居たことが確認されています。

その後、今川氏真は京都に移ります。京都にいたのが、いつからいつまでなのかははっきりとしていません。

ただ1612年頃には江戸に移り、1615年に江戸で亡くなったと考えられています。

大名の地位を失った今川氏真は各地を流転しています。それでも天寿を全うできたのは常に誰かの庇護があったから。その生涯で生活に困窮したことはないように見受けられます。

今川氏真は徳川家康の庇護を受けていた期間が特に長かったと考えられます。

今川氏真と徳川家康の関係。

最初は今川氏真が主で徳川家康は従。

次に今川氏真と徳川家康は同じ戦国大名として敵味方の関係。

そして、最後は今川氏真が従で、徳川家康が主。

特に最後の時代が長かっただけに、今川氏真の心境、徳川家康の心境がそれぞれに気になるところです。

さいごに

今川氏真には特筆すべきことがあります。それは今川氏真は武家であるよりも公家に近かったこと。

たとえば、織田信長の前で蹴鞠を披露したのは有名な話ですし、和歌や連歌への傾倒は相当なものであったようです。

実際に交流するのも公家であったり、いわゆる文化人であったり。今川氏真は生涯を通じて公家風であろうとしたように見受けられます。

そのことを考えると今川氏真は戦国大名としての生活よりも、京都での生活の方がうれしかったのかもしれません。

もっとも、この行為は後世の格好な批判材料となったようで、今川氏真は武将としての活動よりも公家の活動を大切にした。だから国を滅ぼした。

これが今でも今川氏真の評価が低い最大の根拠になっているようです。

確かに今川氏真は戦国大名としては失格です。

しかし一方で今川氏真は実をとっています。

それは今川氏真の孫である今川直房が江戸幕府で高家になっていること。また、今川氏真の次男も江戸幕府で旗本に取り立てられています。

高家とは江戸幕府において儀礼を司る役職で、いわゆる名門しか任じられることはありませんでした。

旗本にしても高家にしても石高そのものは多くはありません。しかし今川氏真が生き残ったことで大名でないにしても子孫もそれなりに地位を得ることができた。

それはある意味、戦国時代という混乱の時代に起きた奇跡だったのではないでしょうか。

そして今川氏真は徳川家康と不断の関係を持ったからこそ奇跡を起こすことができた。

そう考えても良いような気もするのですがいかがでしょうか。


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