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渡辺守綱は徳川十六神将の一人
渡辺守綱(わたなべもりつな)は徳川家康の家臣で、徳川家康が天下を取るころまでに活躍した徳川十六神将の一人に数えられています。徳川家康の家臣としては、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政のいわゆる徳川四天王が知られています。
そこまでは及ばないまでも、渡辺守綱も徳川家康の元で働いた有能な家臣であることに間違いありません。
この記事では、渡辺守綱の運命の転変や、槍半蔵という異名の由来をご紹介します。
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渡辺守綱の運命の転変
渡辺守綱が生まれたのは1542年。主君の徳川家康の生年は1543年なので、概ね同時代を生きたことが分かります。渡辺氏は松平家の譜代の家臣で、父渡辺高綱(不詳~1564年)も徳川家康の父松平広忠と徳川家康に仕えています。
1560年桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、今川氏の一武将であった徳川家康は独立を果たします。
今川氏から離れた徳川家康ですが、次に訪れた苦難が1563年の三河一向一揆です。
当時、徳川家康が治めていた三河国は一向宗の門徒が多く、家臣も例外ではありませんでした。
三河一向一揆が起こったとき、一向宗を信奉し、かつ徳川家に仕えていた家臣は二者択一を迫られ、実際に多くが主家を裏切り一揆に加わっています。
例えば、後に徳川家康の懐刀とも言われた本多正信。徳川十六神将の一人に数えられた蜂屋貞次 、そして渡辺守綱も一揆に加わっています。
三河一向一揆は半年ほど続き、徳川家康の勝利に終わります。
本来、主君に反旗を翻した家臣は重い処分を受けるところです。
ただ、独立を果たしたといっても徳川家の勢力基盤は脆弱。さらに有能な家臣を失うわけにもいきません。
本多正信など一部の家臣は徳川家を離れますが、渡辺守綱は帰参を許されています。
その後は徳川家の多くの戦いに参加。武勇に優れていた渡辺守綱は、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどで先方の役を任されています。
ずっと時代が下り1590年の小田原征伐後、徳川家康はそれまでの領地を離れ、豊臣秀吉に関東移封を命じられています。
このとき渡辺守綱は徳川家康より3,000石を与えられ、後にはさらなる加増を受けます。
渡辺守綱の立場に大きな変化が生じるのは1608年です。
1600年の関ケ原の戦い、1603年江戸幕府の創設と、天下は徳川氏のものになっていましたが、まだ豊臣家は存続。
徳川家康はさらに江戸幕府を盤石にするため、自らの九男徳川義直を尾張藩主に任じます。
もっとも徳川義直はまだ7歳の頃。大国を治められるはずもなく、尾張国の付家老に任じられたのが渡辺守綱です。
所領こそ14,000石と大名並みになったものの、それまでの徳川家直臣から陪臣(家臣の家臣)になってしまいます。
直臣と陪臣では立場としては大きな違いがあります。
徳川家康の信任を得ていたからこその人選であることは間違いないものの、渡辺守綱自身の気持ちはどうだったのでしょうか。
もっとも渡辺守綱自身は任務をまっとうし、1614年と1615年の大坂の陣にも尾張藩家老として参陣。
1620年、名古屋で亡くなっています。
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さいごに 槍半蔵の由来
渡辺守綱は槍半蔵という異名を持つことで知られていました。この記事の最後に槍半蔵の由来をご紹介します。徳川十六神将は徳川家康の家臣でもとりわけ有能な武将の総称ですが、渡辺守綱はどのような面で秀でていた武将なのでしょうか。
渡辺守綱は槍の名手として知られてます。
1560年の桶狭間の戦いをきっかけに徳川家康は今川氏を離れますが、今川家の後継者となった今川氏真から見たら、下の立場で働いていた武将が今は敵対していると映ります。
実際、徳川氏と今川氏の間には小競り合いのような戦いが多く、1602年の三河国八幡の合戦では徳川氏が劣勢になります。
徳川氏が退却する際、殿(しんがり)の役を務めたのが渡辺守綱で、得意の槍をふるいつつ今川氏の追撃を防いでいます。
この時の働きから、以後の渡辺守綱は通称の渡辺半蔵という名前から「槍半蔵」と称されます。
なお徳川十六神将の中で槍を得意とした武将に服部正成(服部半蔵)がいます。通称は同じですが、渡辺守綱は槍半蔵、服部正成は鬼半蔵と称されています。
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