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日本史

石川数正が出奔するまでの経緯と理由を簡単解説します!

石川数正が居城とした松本城

はじめに

徳川家康の家臣は、結束が固いことで知られていました。ただ、すべての家臣が徳川家康に従っていたかというとそうでもないようです。

その中の一人が石川数正。

石川数正は徳川家の重臣でしたが出奔して、徳川家康ではなく豊臣秀吉の家臣になります。

では、どうして石川数正は出奔をしたのでしょうか。

この記事では、石川数正が出奔をするまでの経緯と、出奔の理由をお伝えします。

石川数正が出奔するまでの経緯

まずは、石川数正が徳川家康から豊臣秀吉へ出奔するまでの経緯を簡単にお伝えします。

石川数正は1533年生まれで、1543年に生まれた徳川家康よりも10歳年長です。

徳川家康は幼いころから今川義元の人質になりますが、徳川家康に従っていた家臣の一人が石川数正。

徳川家康と石川数正との間には、長く深い結びつきがあったことがわかります。

石川数正は優秀で、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなった後は、今川義元の嫡子である今川氏真、今川義元を破った織田信長と交渉し、徳川家康の独立に多大な貢献をしています。

徳川家康の独立直後に起こったのが三河一向一揆。

徳川家康は一揆の対応に苦慮しますが、このときも石川数正は大きな働きを見せ、徳川家康の苦境を救っています。

その後は、徳川家康の重臣として各地を転戦。

石川数正は三河武士らしい武将としての働き、そして外交官としての働き、後に徳川四天王の一人と言われた酒井忠次とともに、この時代の徳川家で重要な役割を果たしています。

その石川数正に転機が訪れたのが豊臣秀吉との出会いです。

本能寺の変で織田信長が倒れた後、台頭してきたのが豊臣秀吉。

徳川家康と豊臣秀吉は敵対関係にあり、小牧長久手の戦いでは干戈も交えていますが、この戦いの後、少しずつ豊臣秀吉と徳川家康は接近していきます。

このとき、徳川家の外交を役割を担ったのが石川数正。

当初、石川数正はあくまでも徳川家の外交官として豊臣秀吉に接していましたが、その関係が変化。

1585年、突如として寝返りを図り、徳川家康を離れて豊臣秀吉の元に出奔します。

豊臣秀吉の元で石川数正は信濃松本に10万石を与えられますが1593年に病死。享年61と伝えられています。

石川数正にとって人生の大きな転機となったのが、徳川家康から豊臣秀吉への出奔です。

では、どうして石川数正は出奔をしたのでしょうか。次に、その理由のいくつかをご紹介します。

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石川数正出奔の理由とは

石川数正が、どうして徳川家康の元を離れて豊臣秀吉を頼ったのか。残念なことに出奔の経緯を明確に記した史料は残されていないようです。

そのため、出奔の理由について推測はできますが真実はわかりません。ただ、いくつかの理由はささやかれています。

そこで、出奔を図った理由のいくつかを、具体的にご紹介したいと思います。

出奔の理由1 徳川家康と石川数正不仲説

1579年、徳川家康の嫡子であった松平信康が織田信長に切腹を命じられます。これは松平信康が武田氏に内通していると、織田信長が疑ったためといわれています。

松平信康の後見として補佐していたのが石川数正。しかし石川数正は、何もすることもできず松平信康は切腹。

この事件を契機に、それまで親密であった徳川家康と石川数正の関係がおかしくなり、結果的に石川数正の出奔につながってしまった。

これが、石川数正と徳川家康不仲説ですが、この説には若干の疑問が残ります。

従来、徳川家康は嫡男の松平信康に大きな期待をかけていたのに、織田信長によって切腹に追い込まれてしまったと考えられていました。

しかし、昨今では別の説が有力になっています。

それは、松平信康は確かに武将として優秀だけれども、あまりにも粗暴で人の上に立ち統治をできる人材ではなかった。

松平信康の家臣のみならず、父である徳川家康でさえも、松平信康を制御できなくなったため、徳川家康自身が織田信長の許しを得て、松平信康を死に追い込んだというものです。

細かな部分ではさまざまな意見はあるようですが、徳川家康と松平信康の大まかな関係は以上のとおり。

徳川家康は、松平信康の死に積極的に関わっていたと言われています。

これが事実だとしたら、徳川家康と石川数正不仲説は、にわかには信じがたいことになります。

もしかしたら、徳川家康の行動を、松平信康の傍についていた石川数正が止めようとした。だから不和になった。

確証はありませんが、徳川家康と石川数正不仲説が石川数正出奔の理由だとしたら、こちらの方がより自然のようにも思えます。
 
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出奔の理由2 豊臣秀吉人たらし説

豊臣秀吉は、数多くの優秀な人材を自分になびかせるという特異な才能を持っていました。そのため、豊臣秀吉は「人たらしの名人」と言われています。

徳川家康の重臣であった石川数正。豊臣秀吉と交渉するために徳川家から選ばれたのが石川数正です。

もちろん交渉は一度で終わるものではありません。

徳川方の外交官として豊臣秀吉に接した石川数正は、少しずつ豊臣秀吉の魅力に取りつかれ、最終的には徳川家康ではなく豊臣秀吉を選んでしまった。

これが豊臣秀吉人たらし説です。

当時の勢いは徳川家康よりも豊臣秀吉よりもはるかに上。京や大阪を押さえていた豊臣秀吉と比べると、徳川家康ははるかに地味。

また、徳川家康は大きな勢力とはいっても、家臣に大きな領地を与えることはしませんでした。

一方、豊臣秀吉は大盤振る舞いといえるほど家臣にたくさんの領地を与えていました。

豊臣秀吉の家臣に対する対応は、石川数正にとって大きな魅力であったことは間違いありません。

豊臣秀吉人たらし説は、石川数正が出奔をした理由の中でも、より真実に近いとも考えられています。

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出奔の理由3 石川数正謀叛説

豊臣秀吉人たらし説とも関連しますが、石川数正が交渉とはいえ豊臣秀吉と会う回数が増えれば、それを疑いの目で見る人も多くなります。

石川数正にその気がなくても、時間の経過とともに疑いの目は強くなります。その疑いが、謀叛の企てという疑いに発展しても不思議ではありません。

そうした状況から、石川数正は徳川家にいる場所がなくなった。だから出奔を図った。

この石川数正謀叛説は、豊臣秀吉人たらし説と合わさって、石川数正出奔の理由になったと考える人も多いようです。

しかし、石川数正謀叛説と豊臣秀吉人たらし説は、まったく別のものと考える意見もあります。

その証拠は石高。豊臣秀吉は家臣に領地の大盤振る舞いをします。ところが石川数正に対して当初与えた領地は、僅かに8万石です。

徳川家の重臣を豊臣秀吉自らが篭絡したのであれば、豊臣秀吉は石川数正にもっと大きな領地を与えているはずだ。

石高が少ないのは、豊臣秀吉が石川数正出奔を積極的にすすめたわけではなく、徳川家に居場所のなくなった石川数正を豊臣秀吉が保護をした。だから領地が少なかった。

理由2と理由3がリンクをするのか、あるいはまったく別個のものなのか。このあたりは興味のあるところです。

出奔の理由4 石川数正スパイ説

石川数正スパイ説は、石川数正が徳川家康に命じられて、あるいは石川数正自身の意志で徳川家のスパイの任を帯びて豊臣秀吉の元へ出奔。

豊臣秀吉に仕えるふりをして徳川家に情報を流す。要は石川数正が徳川家のスパイとして豊臣家に潜り込むというものです。

どうして石川数正が寝返りをしたのか、その理由が確定していないので、石川数正スパイ説も否定はできません。

しかし石川数正没後、石川家が徳川家により改易になっていることを考えると、この石川数正スパイ説は信じがたいものがあります。

可能性としては「あり」なのかもしれないけれど、前述の理由2や3の方が説得力があるようにも思われます。

さいごに 石川家のその後

豊臣秀吉の元に出奔した石川数正は、豊臣秀吉から8万石の所領を与えられます。さらにその後、信州松本に10万石を与えられます。

この石高が多いか少ないかは微妙なところですが、石川数正が松本城や城下町の整備に尽力したことは今に伝えられています。

石川数正は1593年に亡くなり、その遺領は3人の子に分割して相続されます。

石川家は関ヶ原の戦いにおいて東軍に与します。もちろん所領は安堵されますが、1613年におきた大久保長安事件に連座して、3人とも所領を没収されてしまいます。

石川数正は実際に徳川家に謀叛をしたわけではなく、石川数正が実行に移したのは単なる出奔です。

そのため、徳川の天下になって即座に所領を失ったわけではありませんが、最終的には外様大名のような扱いを受け改易となってしまった。

そう考えると、やはり石川数正スパイ説は理由としては厳しいものがあるようにも思われますが如何でしょうか。

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