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武田四天王(武田四名臣)とは
この記事では、武田四天王についてご紹介していきます。武田四天王とは、戦国時代に最強と言われた武田信玄の元で活躍をした4人の武将。
武田四天王と言われるのが一般的ですが、武田四名臣と呼ばれることもあります。
では、武田四天王とは具体的にはだれだったのでしょうか。
武田四天王と讃えられた4人の武将を列記すると
・ 馬場信春
・ 山県昌景
・ 高坂昌信
・ 内藤昌豊
になります。
では、武田信玄の事績を簡単にご紹介するとともに、武田四天王のそれぞれの武将についてもご案内をさせていただきます。
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武田信玄とは
武田信玄は1521年に生まれ、1573年に亡くなります。
武田信玄は甲斐源氏の末裔で、かつ甲斐国の領主。つまり武田信玄は、生まれながらの国主ということになります。
もっとも時は戦国時代。
武田信玄は武田家の嫡男ですが、嫡男だからといって身分が保証されているわけでもなく、また、名家であるからと言って国を治められるわけでもありません。
事実、武田信玄は父である武田信虎を追放の上、なかば強引に武田家の家督を相続しています。
武田信玄の本拠は甲斐国。その甲斐国を足掛かりに隣国の信濃国に触手を伸ばしていきます。
武田信玄は信濃国の諏訪を統治下におき、諏訪家の領主の娘(諏訪御料人)を側室にし、2人の間には男児が誕生します。
(この男児は武田信玄の4番目の男子。本来は武田家の後継者となれる存在ではありませんでしたが、紆余曲折の上、最終的には武田信玄の後継者となり武田勝頼と名乗ります。)
信濃国に侵攻を開始した武田信玄でしたが、信濃国は小国主が多く統治が難しい国と言われていました。
実際、信濃国北部の村上義清は武田信玄に従うどころか、越後国の上杉謙信の保護を求めます。
この結果、起こったのが有名な川中島の戦い。
戦国時代の中でも最強と言われた武田信玄と上杉謙信は、1553年から1564年までの間に合計5回、川中島で軍を対峙させています。
もっとも、はっきりとした勝敗がつくこともなく、結果的に両者は和睦をしています。
その後、武田信玄は徳川家康と共に今川氏真の領地である駿河国に侵攻を開始します。
この頃の武田信玄は徳川家康と同盟を結び、さらには織田信長とも決して悪い関係ではありませんでした。
しかし、今川領の統治を巡って徳川家康と対立。
さらには、室町幕府第15代将軍足利義昭と織田信長が対立したことで、武田信玄は足利義昭につき、武田信玄と織田信長の対立も明確になります。
武田信玄が徳川家康の領地に侵攻を開始したのが1572年。武田信玄と徳川家康は三方が原の戦いで激突。
徳川家康の家臣は三河武士と言われ屈強の武将が多いことで知られていました。しかし、当時、最強と言われた武田信玄の前では大人と子供。
徳川家康は大敗を喫し、さらに武田信玄は織田信長と激突するところまでいきます。
しかし、この陣中で武田信玄は喀血。侵攻を諦め甲斐国に戻る途中で51歳の生涯を終えます。
武田信玄の後継者となったのが前述の武田勝頼。
武田勝頼は勇猛で知られていて、さらに最強と言われた武田軍も無傷で残っていたので、近隣諸国は相変わらず武田家を恐れていました。
しかし、武田勝頼は家臣との対立も多かったと言われていて、さらには1575年の長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗。
長篠の戦いで武田勝頼は、武田信玄の元で育った武将の多くを失うことになります。
それからも武田家の勢力はさらに衰え、1582年には織田信長の軍勢に攻めたてられ、天目山で自害をします。
武田信玄の時代に武田家は最強の時代を迎え、武田家の版図は最大になります。その石高はおおむね120万石。
しかし、武田勝頼は武田信玄が残した遺産を武田信玄没後10年も経たずに失い、武田勝頼自身も命を落としています。
甲斐国の戦国大名である武田信玄。
その武田信玄の元で活躍をしたのが武田四天王です。
それでは武田四天王のそれぞれの武将の事績を簡単にご紹介していきます。
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武田四天王1 馬場信春
馬場信春は1514年または1515年に生まれ、1575年に亡くなります。馬場信春は甲斐国の土豪として知られた武川衆で、武田信玄の父武田信虎の時代から武田家に仕えています。
もっとも、武田信虎の追放に加わっているところから、より武田信玄に近い存在であったことがうかがえます。
武田信玄に見いだされた馬場信春でしたが、実際の武功も抜群。
馬場信春はその生涯で70回以上の戦いに参加をしながら、かすり傷一つ負わなかったという逸話が残されています。
そのため、馬場信春は「不死身の鬼美濃」として讃えられてもいます。
また、馬場信春は猛将として著名であっただけでなく、知将としても知られていました。さらには築城術でも評価をされていたようです。
馬場信春の最期は1575年の長篠の戦。
長篠の戦で武田軍は大敗を喫しますが、何といっても主君の武田勝頼だけは逃さなければならない。
武田軍の殿軍(しんがり)を務めていた馬場信春は織田軍と果敢に戦い、主君の武田勝頼を逃がすとともに討死を遂げます。
武田四天王2 山県昌景
山県昌景は1529年に生まれ、1575年に亡くなります。山県昌景は飯富虎昌の弟とされ、飯富虎昌は武田家の家老の職を務めていました。
しかし、武田信玄の嫡男である武田義信が父に対し反旗を翻し、飯富虎昌も武田義信につきます。
この動きを未然に察知した山県昌景は、武田信玄に武田義信の謀叛を訴えます。
結果として武田義信は廃嫡の上、30歳の若さで亡くなります。また、武田義信に従っていた飯富虎昌も命を落とします。
それまで飯富を名乗っていた山県昌景は、この事件を契機に姓を山県に改めるとともに、飯富虎昌が率いていた「赤備え」も引き継ぎます。
赤備えとは、部隊の軍装を赤一色に統一し編成したもので、飯富虎昌の時代からこの部隊は屈強で知られていました。
山県昌景自身が元より勇猛な武将と認知されていましたが、その山県昌景が率いる赤備えは武田家最強の部隊ということで近隣にも恐れられていたと言われています。
また、赤備えがとりわけ屈強であったことから、山県昌景の死後、徳川四天王の一人である井伊直政が赤備えを継承。
「井伊の赤鬼」などと言われ恐れられています。
また、真田信繁も赤備えの部隊を編成。大坂夏の陣では、真田の赤備えは敵の徳川家康の陣に襲い掛かり、徳川家康を追いつめたことでも知られています。
山県昌景が亡くなったのは1575年。前述の馬場信春と同様、長篠の戦で生涯を終えています。
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武田四天王3 高坂昌信
高坂昌信は1527年に生まれ、1578年に亡くなります。高坂昌信は、豪農の子として生まれます。その後、父が亡くなり姉との遺産相続の争いに敗れた後、経緯は不明ながらも武田信玄の近習に取り立てられています。
高坂昌信が主に任されたのが川中島周辺。上杉謙信との川中島の戦いでは、大きな役割を担っていました。
武田信玄亡き後は武田勝頼に仕えますが、代が変わっても高坂昌信の役割は対上杉。
もっとも武田信玄と上杉謙信の時代は対立が基本であったのに対して、武田勝頼と上杉景勝の時代は融和政策。
上杉謙信が亡くなった後、上杉景勝と上杉景虎の後継者争いが始まりますが、武田勝頼は上杉景勝に味方することを約束。
高坂昌信の仲立ちにより、武田勝頼と上杉景勝は甲越同盟を締結します。
高坂昌信は1578年に亡くなります。死因は病死と伝えられています。
なお、高坂昌信は高坂弾正と名乗ることもあり、そこから高坂昌信を「逃げ弾正」と評することがあります。
この言葉を読むと敵に背を向けて逃げたと考えがちですが、これは退却するときの戦術が見事であったため。
戦いは引くときが一番難しいと言われていますが、高坂昌信は退却戦の戦術がとりわけ優れていたようです。
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武田四天王4 内藤昌豊
内藤昌豊は1522年に生まれ、1575年に亡くなります。内藤昌豊の父は武田信虎の重臣でしたが、諫言をしたところ武田信虎の怒りをかって殺されてしまったと伝えられています。
その後、内藤昌豊は武田信玄に仕え、主に信濃平定に尽力をします。
また、内藤昌豊は上野国攻略に際しては、北条氏と外交交渉を行うなど武略だけでなく知略にも優れていたと言われています。
内藤昌豊の逸話としては、武田信玄から一度も感状を受け取らなかったことがあげられます。
当時の武将は、活躍をすれば主君から感状を受け取ります。
武将にとっては名誉なことでしたが、主君である武田信玄は内藤昌豊はとりわけ優秀なので、内藤昌豊が活躍するのは当たり前のことと考えていたようです。
また、内藤昌豊も武田家のために活躍することは当然のこととして、感状を欲しがらなかったと言われています。
武田四天王の中でも内藤昌豊は地味で目立たない存在と言われていますが、武略も行政能力も外交能力もとりわけ優れていたと考えられています。
なお、内藤昌豊が亡くなったのは1575年。馬場信春、山県昌景とともに長篠の戦で生涯を終えています。
まとめ
この記事では武田四天王についてお伝えしてきました。
武田四天王とは武田家が最大の勢力を誇った武田信玄に仕えた4人の武将です。
また、武田四天王は武田信玄亡き後の武田勝頼にも仕えています。
では、この記事のまとめとして武田四天王の共通項などについて考えてみたいと思います。
まず、武田四天王は武田信玄が見出した者たち。そう考えても過言ではないように思えます。
馬場信春は、甲斐国の土豪の出身。
山県昌景は、兄が武田家の家老だったものの武田信玄に敵対。
高坂昌信は、豪農の子。
内藤昌豊は、父が武田信虎の重臣だったものの諫言をして殺害。
以上のように、武田四天王は恵まれた環境にあったとは言い難く、それぞれが武田信玄に見いだされ武将として華やかな活躍を見せています。
次に、武田四天王は武田信玄亡き後も武田勝頼に従ってはいますが、全員が武田勝頼よりも先に亡くなっています。
馬場信春、山県昌景、内藤昌豊の3人は1575年の長篠の戦で生涯を終えています。
また、高坂昌信は長篠の戦には参陣していなかったため討死を免れますが、1578年に病死。
武田勝頼が自害をしたのは1582年なので、武田四天王のすべてが武田家が滅亡する前に亡くなっていたことがわかります。
武田家が滅亡した最大の要因は長篠の戦の大敗にあると言われていますが、武田四天王のうち3人がこの戦いで命を落としている。
やはり武田家の滅亡の最大の要因を長篠の戦に求めるのは当然の事なのかもしれません。
もっとも武田信玄の元、武田四天王が活躍したからこそ、戦国大名としての武田氏は最大の輝きを放っています。
武田家の滅亡を見ずして亡くなったというのは、むしろ武田四天王にとっては幸せだったのかもしれないですね。
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