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日本史

徳川家康と石田三成の対立と関ヶ原の戦いが起きた背景とは

石田三成の旗

関ヶ原の戦いとは

この記事では、徳川家康と石田三成の対立。

そして、関ヶ原の戦いが起きた背景についてお伝えします。

ところで、関ヶ原の戦いは、現在の暦でいうと1600年10月12日(この記事での年月日はすべて現在の暦に置き換えています)に起こっています。

東軍の大将は徳川家康。

西軍の大将は毛利輝元。

徳川家康も毛利輝元も、豊臣秀吉が晩年に定めた五大老のメンバーです。

しかし、毛利輝元は大坂城に籠り、関ヶ原の戦いに出てくることはありませんでした。

したがって関ヶ原の戦いは、徳川家康と現場で西軍の中心的立場を担っていた石田三成の覇権争いで、天下分け目の戦いとも言われていました。

もっとも、天下の帰趨を定める大きな戦いであったにも関わらず、実際の戦闘は僅か数時間。

関ヶ原の戦いは、東軍の大勝利に終わっています。

西軍の石田三成は戦場を離脱するものの、捕えられ斬首。

一方、東軍の徳川家康は1603年に江戸幕府を開府。約260年続く江戸時代の礎を築いています。

それでは、徳川家康と石田三成の対立と、関ヶ原の戦いが起こった背景について、いくつかを列記していきます。

徳川家康と石田三成の対立 豊臣秀吉の失政

関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成の対立によって生まれたものです。

もっとも徳川家康は、豊臣秀吉に臣従していたとはいえ、元は豊臣秀吉と同格の大名。

石田三成は大名の立場であったとはいえ、豊臣秀吉の家臣の一人。

徳川家康と石田三成には大きな格の違いがありました。

豊臣秀吉が元気であれば、徳川家康と石田三成に対立は生まれなかったはずです。

実際に、徳川家康や石田三成がお互いをどのように思っていたかは別にしても、豊臣秀吉在世中に表だった対立は生まれていません。

しかし、豊臣秀吉が亡くなるとすぐに、徳川家康と石田三成には対立の構図が生まれています。

それは、なぜでしょうか。

徳川家康と石田三成の対立。そして、関ヶ原の戦いを引き起こした最大の要因は、豊臣秀吉の失政にあったと考えられます。

豊臣秀吉は天下を統一し、約100年間続いた戦国時代を終わらせることに成功をしています。

豊臣秀吉が天下統一を果たしたことで、ようやく戦いから解放される。多くの人がそう思っていたのではないでしょうか。

ところが、豊臣秀吉が行ったのは、さらに人々を疲弊させる戦い。しかも、国内の戦いではなく、まったく手探りで行わなければならない朝鮮出兵という無謀な外征です。

朝鮮出兵は、文禄の役と慶長の役の2度にわたって起こっています。どちらの戦いも日本は苦戦の連続で、豊臣秀吉は慶長の役の途中で病死しています。

天下を統一して内政の整備に尽力すべきところ、それを外征によっておざなりにしてしまった。

豊臣秀吉は晩年に五大老・五奉行の仕組みを作り、豊臣政権が持続するよう画策しました。でも、制度が軌道に乗る、はるか手前で生涯を終えています。

五大老・五奉行の制度は、豊臣秀吉の死とともに形骸化してしまっています。

豊臣秀吉の失政が、徳川家康と石田三成の対立を生み、関ヶ原の戦いを引き起こした最大の要因と考えても過言ではないように思われます。

徳川家康と石田三成の対立 覇権争い

豊臣秀吉が亡くなったのは、1598年9月18日。

関ヶ原の戦いが起こったのは、1600年10月12日。

豊臣秀吉が亡くなった当時、豊臣家は安泰でした。しかし、豊臣秀吉の死後わずか2年でおきた関ヶ原の戦いで、豊臣家の覇権は徳川家に移っています。

この原因は、徳川家康の行動の素早さによります。

豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康は豊臣秀吉在世中の決まり事を破っていきます。

その代表的な例が大名間の勝手な婚姻で、徳川家康は多くの大名家と縁戚関係を結んでいきます。

これに異を唱えたのが石田三成。

石田三成は徳川家康の専横をとがめだて、徳川家康と石田三成の対立は顕在化します。

では、このとき徳川家康にはどのような思いがあったのでしょうか。

一番、わかりやすいのは豊臣家に代わって徳川家が天下を握ろうとしたというものです。

天下は統一されたとはいえ、徳川家康自身は戦国時代を生き抜いてきた武将です。天下は実力あるものが握るのが当然と考えていたとしても不思議ではありません。

豊臣秀吉が後継にしていたのは豊臣秀頼。しかし、豊臣秀吉が亡くなった時、豊臣秀頼は5歳。そのような子供に天下を治められるわけもない。

野心というような大げさなものではなく、天下は実力者である自分が治めるものと考えたとしても何の不思議もありません。

もっとも、別の意見も存在します。

豊臣秀吉は亡くなる間際に、豊臣秀頼が成人をするまで、政務は徳川家康に任すと遺言を残しています。

また、豊臣秀吉が亡くなった後、武将の中での位階は徳川家康が最高(内大臣)でした。

そのことを考えると、豊臣秀吉が亡くなったからといって、豊臣家を滅ぼす意図などはなく、むしろ忠実に豊臣家を盛り立てようとした。

このような考えも、可能性は低いながらもあったかもしれません。

関ヶ原の戦い後も豊臣家が存続したことを考えると、徳川家康は豊臣秀吉が亡くなった段階では、天下を狙ってはいなかった。

そうした意見を100%否定することはできないように思われます。

しかし、徳川家康の行動を石田三成がどのように見ていたのかというと話は別です。

石田三成も豊臣秀吉の天下を狙っていたという意見もありますが、果たしてどうでしょうか。

これも100%否定できるわけではありませんが、可能性としてはかなり低いように思われます。

石田三成は豊臣秀吉に見いだされて出世を果たしてきました。また、実際に財務などにも明るかったため、五奉行にも任じられています。

石田三成にとって豊臣秀吉は恩人であり、豊臣家は身を挺してでも守るべき存在であったように思われます。

石田三成は豊臣家に代わって天下を狙うよりも、豊臣家の中にあって権力を握る。このような思いを持っていた可能性が高いように思われます。

そうした石田三成からみたら、徳川家康は豊臣家に代わろうとする敵。実際に徳川家康の行動は見事にそのことを裏付けている。

そう思ったとしても不思議ではありません。

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徳川家康と石田三成の対立 武断派vs文治派

石田三成と徳川家康の対立が顕在化したのは豊臣秀吉の死後。

それに対して、それよりはるか以前よりはっきりしていたのが、武断派と文治派の対立です。

豊臣秀吉は徒手空拳から身を起こしています。当然、譜代の家臣がいたはずもありません。

豊臣秀吉の有名な家臣はいわゆる子飼いの武将。小さな頃より、じっくりと育て上げた家臣が豊臣秀吉にとっての宝でした。

豊臣秀吉は尾張の出身。

まだ身分の低い時に見出した武将の代表としては、加藤清正や福島正則がいます。この時代、豊臣秀吉に育てられた武将の多くは、豊臣秀吉と同じ尾張の出身。

いわゆる尾張派の武将です。

その後、豊臣秀吉は出世を果たし、さらに家臣が必要になります。

豊臣秀吉が初めて城を持ったのは近江国長浜ですが、この時代に見いだされたのが石田三成など。

石田三成などは、近江派と言われていました。

また、尾張派と近江派では特徴も異なっていました。

尾張派の武将の多くは、個々が武術に優れていたばかりではなく、戦場においてその才能を発揮していました。

したがって、尾張派の武将はその多くが武断派ともいわれていました。

尾張派であり、武断派でもある武将の代表格は、前述の加藤清正や福島正則。加えて子飼いの武将とは言えませんが、黒田長政や細川忠興も武断派と目されていました。

一方、近江派の武将の多くは経理に明るい人材が多かったという特色があります。

戦いにおいても、この武将たちが担うのは、戦いで先陣をきることよりも、むしろ後方で兵站を担うことです。

たとえば、加藤清正・福島正則は尾張派。

石田三成は近江派。

出身地が違います。

また、加藤清正・福島正則は武断派。

石田三成は文治派。

豊臣秀吉の元での役割も大きく異なっています。

出身地が違い、役割も異なる。対立の構図が生まれやすい環境にあったようです。

また、石田三成の性格が対立に拍車をかけています。

石田三成は、真面目で融通が効かないタイプ。さらに自らの才能に自信を持っていました。

石田三成は、自分の尺度で物事を図り、良いことは良い、悪いことは悪い。

その判断に忖度などはまったく存在しないタイプであったようで、時としてその態度は尊大と評されることもあったようです。

石田三成の数少ない理解者の一人に大谷吉継がいます。

大谷吉継も石田三成に対して、石田三成には人望がないというようなことをはっきりと述べています。

武断派と文治派というようなタイプの違いが対立の原因になりましたが、その対立をさらに増幅させたのは石田三成の性格にあったようです。

武断派と文治派の対立は豊臣秀吉の生存中。具体的には朝鮮出兵で対立が顕在化をしています。

武断派の多くが朝鮮に出兵し戦っています。

一方、文治派の石田三成などは後方で兵站の役割を担っています。

お互いにとっての共通の主君は豊臣秀吉。

しかし、豊臣秀吉は日本国内にいて、朝鮮半島に出兵した諸将は、豊臣秀吉に直接に会うことはできませんでした。

そのため、豊臣秀吉が戦況を確認するのは、石田三成など国内にいる武将。

良いことは良い、悪いことは悪いとしか言えない石田三成は、前線で戦う諸将の苦しみなどを報告することなく、むしろ前線で戦う武将たちに不都合な事ばかりを報告します。

そうしたことが数多くあり、石田三成と武断派といわれる諸将の多くは対立をするようになります。
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徳川家康と石田三成の対立 前田利家の死

豊臣秀吉が亡くなった後、五大老が政務を執り行うことになっていました。

では、五大老は誰だったのか。

列記をすると、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景。なお、小早川隆景死後は上杉景勝が五大老になっています。

この中での筆頭は徳川家康。

その徳川家康に対抗できるのは、五大老の中でも前田利家だけと考えられていました。

前田利家は、豊臣秀吉が織田信長に仕える以前から織田信長の家臣でした。また、年齢も近いため、豊臣秀吉と前田利家は仲が良かったことでも知られていました。

そのため徳川家康も、前田利家には一目置いていたと言われています。

しかし、前田利家は豊臣秀吉が亡くなった翌年の1599年にこの世を去ります。

言い方を変えれば、前田利家の死によって、徳川家康に恐れるものが無くなったとも言えるようです。

 
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徳川家康と石田三成の対立 多数派工作

徳川家康と石田三成の対立が明確になるにつれ、多数派工作も活発化します。

多数派工作が活発になればなるほど、さらに徳川家康と石田三成の対立が世の中にはっきりと表れることになります。

ただ、どちらがより熱心に多数派工作をしたかというと、どうやら徳川家康の方が熱心であったよう見受けられます。

徳川家康の意を汲み、多数派工作に励んだ武将としては、徳川四天王の一人である井伊直政。そして、大名では黒田長政や藤堂高虎などが知られています。

そのため、関ヶ原の戦い以前に東軍の味方をした武将も数多くいますし、石田三成の西軍に属していながらも、関ヶ原の戦いにおいて裏切りをして東軍についた武将もいます。

関ヶ原の戦いが短時間で終わったのは、西軍に裏切りをした武将が多かったためと言われています。

その代表が小早川秀秋ですが、小早川秀秋に裏切りをすすめたのは、黒田長政と言われています。

 
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さいごに

石田三成像石田三成像

この記事では、徳川家康と石田三成の対立と、関ヶ原の戦いが起きた背景について、お伝えしてきました。

豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起こるまで、わずか2年。

もちろん、豊臣秀吉が亡くなり、偶発的に関ヶ原の戦いが起こったわけではありません。

たった2年の間に、徳川家康と石田三成の対立を軸として、さまざまな事件が起こり、その集大成になったのが関ヶ原の戦いです。

この記事では、徳川家康と石田三成がどうして対立をしたのかを中心に、記事を書き進めてきました。

ここで書いたこととは異なる意見を持たれる方も多いとは思いますが、一つの意見としてご理解いただければ幸いです。

 
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