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北条氏政の汁かけ飯の逸話と武将としての評価とは!

北条氏政が居城とした小田原城
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北条氏政の汁かけ飯の逸話と武将としての評価とは

日本には判官びいきという言葉があるとおり、敗者に対して温かな評価を与えることがあります。

しかし、一般的には敗者には厳しい評価が行われているのも事実。

その一例が北条氏政に対する評価です。

北条氏政は関東を制覇していた後北条氏を滅亡に追い込んだ愚将として評価されていることが多いようです。

そして、その低い評価は北条氏政の汁かけ飯の逸話に凝縮されています。

では、北条氏政の汁かけ飯の逸話とはどのようなものなのか。北条氏政は本当に愚将だったのか。

この記事では、北条氏政の汁かけ飯の逸話と武将としての評価について考えてみました。

北条氏政とは

北条氏政は戦国時代の梟雄、北条早雲を祖とする後北条氏の4代目として、関東地方に君臨した戦国大名です。

初代北条早雲、2代目北条氏綱、3代目北条氏康の後を継いで、北条氏政は後北条氏4代目の当主となっています。生年は1538年、没年は1590年になります。

3代目北条氏康の後を引き継ぎ4代目となったのは1559年。

若い時に世襲をしていますが、父の北条氏康が1571年に病没するまでは父と共に領国の統治に当たっています。

北条氏は歴代有能な領主を輩出しています。

特に3代目北条氏綱は領地を接する武田氏や今川氏などと三国同盟を結び、関東での覇権を確固たるものにさせています。

北条氏政が子の北条氏直に家督を譲ったのは1580年。

5代目となった北条氏直は1562年生まれですから、若くして4代目当主となった自分自身と同じように北条氏直にも若くして家督を譲っています。

もっともこのあたりも北条氏康と北条氏政と同様。父である北条氏政が実権を握り、子の北条氏直が形式上の統治をするという形になっています。

戦国大名としての後北条氏は5代目の北条氏直で途絶えてしまいますが、実質的には4代目の北条氏政が実権を握っているとき滅亡に追い込まれています。

そのため世の中の評価は北条氏直ではなく、父の北条氏政に対して厳しいものになっています。

北条氏政は最後は豊臣秀吉の小田原征伐に敗れて切腹に追い込まれます。子の北条氏直は切腹こそ免れますが高野山に追放。

もっとも北条氏直は後年1万石の大名として復活。

北条氏直は病弱で、1591年に亡くなったため家を存続させることはできなかったものの、当主が追放という軽い処分で済んでいるのは意外です。

北条氏政は戦国大名として覇を唱えた後北条氏を滅亡に追い込んだ元凶として、その評価は低いようです。

また、その評価の低さを端的に表しているのが、有名な北条氏政の汁かけ飯の逸話です。

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北条氏政の汁かけ飯の逸話とは

北条氏政の汁かけ飯の逸話は、北条氏政が愚将であったことの評価を決定づける逸話として知られています。

北条氏政が父の北条氏康と食事をしていたときのこと。北条氏政は汁を飯にかけたが、汁が少なかったのでもう一度汁を継ぎたした。

飯に何度も汁をかけた北条氏政の食事ぶりを見ていた父の北条氏康は、毎日食べる飯なのにそれにかける汁の分量も満足に測れないのかと嘆きます。

そして、その程度の判断ができない者に、領国を治めることや家臣を束ねることができるはずもない。

ここまで関東で領地を広げてきたが、北条氏政の代で後北条氏も終わりであると嘆息をする。

これが北条氏政の汁かけ飯の逸話です。

北条氏政の汁かけ飯の逸話はあまりにも有名です。

しかし、この逸話は実際にあった話ではなく、後世の創作とも言われています。また創作がいつの時代、誰によってなされたのかもはっきりとしていません。

北条氏政の汁かけ飯の逸話は、後北条氏を滅亡に追い込んだ北条氏政の愚かぶりを強調するため、無理に作られたもののようです。

北条氏政の武将としての評価とは

北条氏政の武将としての評価は一般的に低いようです。しかし、無能だったのかというと必ずしもそうではありません。

北条氏政の生きた時代は戦国時代の末期。大きないくつかの勢力がそれぞれの版図を広げていた時期になります。

1582年3月、隣国の武田氏が滅亡します。

その武田氏を滅亡に追い込んだ織田氏と後北条氏は緊張関係が生まれますが、同年6月には織田信長が本能寺の変に倒れ、織田氏の勢力は急激に衰弱。

その後、やはり隣国の徳川氏と敵対関係に陥りますが、徳川氏とも和睦。

徳川氏と和睦をしたことで後顧の憂いを無くした北条氏政は北関東を攻略。北条氏政の代に後北条氏の版図は最大となります。

しかし、その後台頭してきた豊臣秀吉とは敵対関係となり、結果的に1590年の小田原征伐で北条氏政は切腹、戦国大名としての後北条氏は滅亡します。

北条氏政の評価は決して高いとは言えませんが、実際には北条氏政の代に後北条氏は最大の版図を得たのは事実。

そのことを考えると北条氏政は戦国大名としては決して無能ではない。北条氏政の武将としての評価は、汁かけ飯に代表されてはいますが逸話は創作。

後北条氏を滅亡に追い込んだ、その結果だけをみて無能としての評価が今でも強いようですが、実はもっと評価されてしかるべき人物。

それが北条氏政のようです。

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さいごに 後北条氏滅亡の理由とは

北条氏政が居城とした小田原城小田原城

後北条氏は北条氏政の時代に240万石を統治するようになりました。しかし、それが跡形もなく消え去ってしまった。

では、どうして後北条氏は滅亡に追い込まれたのでしょうか。この記事の最後に後北条氏滅亡の理由を探ってみたいと思います。

理由その1

織田信長の死後、台頭してきたのが豊臣秀吉です。

豊臣秀吉は敵を滅亡に追い込むのではなく、むしろ家臣にすることを主眼にしています。

戦いで相手を踏み潰すよりも懐柔したほうが、より早く天下を統一できる。そんな考えがあったのかもしれません。

実際に、豊臣秀吉の天下統一の過程で、徳川氏はもちろんのこと、毛利氏も長宗我部氏も上杉氏も島津氏も、そして伊達氏も大名として生き残っています。

その中にあって、後北条氏だけが例外で滅亡に追い込まれています。

その理由としては、いち早く豊臣秀吉に臣従してきた上杉景勝と北条氏政が敵対関係にあった。

あるいは、豊臣秀吉の呼びかけにも関わらず北条氏政が臣従の態度を見せなかった。

そのあたりは諸説あるようですが、一説に豊臣秀吉は北条氏政を倒し、関東地方を奪取することだけは早くから決めていたとも言われています。

実際、関東地方を手に入れた豊臣秀吉は、その土地を徳川家康に与えています。

これは臣従はしてきたと言っても最も怖い敵であった徳川家康を、東海地方からさらに遠くに追いやるための策略と言われています。

豊臣秀吉は天下統一の過程で、仮想敵国の徳川家康をより遠くに追いやる必要があった。また徳川家康と北条氏政は同盟関係にあった。

そこで北条氏政を倒すとともに、合わせて徳川家康を遠方に追いやるために後北条氏だけは倒しておく必要があった。

もしこれが真実だとしたら、北条氏政は蛇に睨まれた蛙。当初から生き延びることなどできなかったことになります。

理由その2

後北条氏は関東地方に君臨してきました。

それは北条早雲以来、統治を行ってきた結果ともいえますが、常に敵を飲み込んできたわけではなく、地方の豪族を懐柔してきた結果ともいえます。

懐柔をすれば統治は早くにできますが、その分、各地の豪族もある程度の権力を保つことにもなります。

また、戦国大名として統治する期間が長ければ、一族なども増えてたくさんの意見が生まれるようになります。

後北条氏は順調に勢力を拡大してきたものの、統治する過程で異分子がたくさん紛れ込んだのも事実のようです。

豊臣秀吉の小田原征伐で、後北条氏は会議ばかりを行いながらも、何も決めることが出来なかった。これが小田原評定の語源と言われています。

この小田原評定の逸話もどうやら事実ではなさそうですが、意見の統一に時間がかかったのは確かなことのようです。

中央集権化を推し進めていた織田信長、そしてその実質的な後継者となった豊臣秀吉。豊臣秀吉の中央集権化という新しい波に飲み込まれてしまったのが北条氏政のようです。

まとめ

北条氏政の評価は一般的には低いようです。

確かに北条氏政は戦国大名としての後北条氏を滅亡に追い込んだ元凶。北条氏政の汁かけ飯の逸話が生まれたのも仕方のない所です。

しかし、実際に北条氏政は戦国大名として愚将ではなかった。これも版図の広がりという事実から見れば否定はできないようです。

もっとも、織田信長や豊臣秀吉から見れば、北条氏に限らず地方の大名の発想は古臭く見えたはずです。

また、実際の統治の仕方などを見ても、中央集権が確立されておらず旧態依然としたもの。

そして、豊臣秀吉には後北条氏をどうしても滅亡に追い込みたい理由もあった。

こうしたことを考えると、北条氏政がどんなに優秀な武将であったとしても生き延びることは難しかった。

言い換えれば北条氏政の評価がどうあれ、後北条氏の滅亡は避けられなかった。

あくまでも私見ですが、後北条氏は時代の趨勢に飲み込まれてしまった戦国大名。そんな気もしています。

 
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