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松平忠輝とは!徳川家康の子なのに改易された武将をご紹介

松平忠輝が亡くなった諏訪鹿島城
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松平忠輝とは

この記事では松平忠輝とはということで、徳川家康の子(6男)に生まれ、若くして大きな領地を得ながらも、ほどなく改易。

その後、数十年にわたり配流生活を送った武将の生涯をお伝えします。

松平忠輝が生まれてから大坂の陣まで

生まれた年も生まれた場所も諸説あるものの、松平忠輝が生まれたのは1592年と考えられています。

当時の徳川家康は、小田原征伐が終わり、豊臣秀吉の命により東海地方から関東地方に移封された直後になります。

徳川家康自身が多忙であったのは間違いないところですが、一方では大大名としての地位を確立した時期ともいえそうです。

もっとも松平忠輝自身は、生母茶阿局の身分が低く、第6男であったことから、徳川家の後継になる立場ではなく、生まれてすぐに下野国の大名皆川氏に預けられ養育されます。

それでも徳川家康の子であることに間違いなく、早くも1599年には1万石の領地を与えられています。

また、関ケ原の戦い後の1602年に元服するとともに下総国内で5万石、さらに1603年には信濃国に移封されるとともに12万石を与えられます。

松平忠輝が結婚をしたのは1606年。

相手は伊達政宗の娘五郎八姫です。

もしかしたら、伊達家と縁戚関係になったのが、松平忠輝の改易に影響を及ぼしたのかもしれません。

1610年、松平忠輝は越後国高田と信濃国川中島の合計で63万石(石高については諸説あり)を与えられます。

これは位置的には加賀前田藩120万石の東にあたります。

加賀前田藩の西側は、徳川家康の次男結城秀康が越前国67万石を領していて、徳川家康の次男と六男が徳川家の仮想敵ともいえる前田家を挟む形になります。

ここまでの松平忠輝は表向き順調な生涯を送っているようにみえますが、大坂の陣の頃から歯車が大きく狂っていきます。

1614年大坂冬の陣で、松平忠輝は大阪攻めではなく、江戸留守居役の任を与えられます。松平忠輝は勇猛と言われた武将で、攻めに加われない役割は相当に不満だったようです。

1615年の大坂夏の陣では、出陣の願いが叶えられるものの、今度は遅参して戦功をあげることができずにいます。

大阪の陣での不満や遅参だけが原因であったかどうかは不明ですが、徳川家康は激怒して、それ以降の面会を禁じます。

翌1616年に徳川家康は亡くなりますが、その病床に徳川秀忠などの子は呼ばれるものの、松平忠輝は近くまで駆け付けながら、徳川家康の許しを得ることはできませんでした。

徳川家康の死後、第2代将軍徳川秀忠の命により改易。最終的には信濃国諏訪の地に流罪、そこで亡くなるまで過ごしています。

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松平忠輝改易の理由

松平忠輝改易の理由は、いくつかのことが言われています。

一番、分かりやすいのは大坂の陣の失態で、徳川家康の逆鱗に触れたからというものです。

ただ、それだけで改易になるでしょうか。

例えば、徳川家康の三男徳川秀忠も関ケ原の戦いに遅参して、徳川家康の逆鱗に触れたと言われていますが、その後は第2代将軍になっています。

松平忠輝の改易については、いくつかのことが言われています。

松平忠輝粗暴説

松平忠輝は勇猛であったけれど粗暴で、家臣から怨嗟の声が上がっていたようです。

改易よりずっと前のことですが、松平忠輝は重臣たちから素行が悪いことが指摘され、その声は徳川家康にも届きます。

このときは徳川家康の裁定で、かえって重臣たちが処分されますが、重臣たちからそうした声が上がるのは異例なこと。

松平忠輝には相応の問題があったように思われます。

また大坂夏の陣では、行軍の途中に無礼があったとして、将軍徳川秀忠の家臣を斬っています。

このことは当時の常識に照らしても過剰防衛で、松平忠輝の粗暴さは改まっていなかったと考えられます。

なお、大坂の陣における松平忠輝の不行跡については、他にも徳川家康の命に背いた、軍令違反を犯した、金銭に関する不正があったなどいくつかのことが言われています。

伊達政宗警戒説

伊達政宗は松平忠輝の義父にあたります。

伊達政宗は武将として逸材でしたが、成長したときは既に豊臣秀吉の天下。

また、本拠としていたのが東北地方ということもあり、天下取りの争いに参加できませんでした。

松平忠輝と伊達政宗の長女五郎八姫の婚姻はまさに政略結婚でしたが、徳川家康はそれだけ伊達政宗の器量を警戒していたと考えられます。

伊達政宗は天下取りに参加することはできなかっとはいえ、少しずつ幕府権力に接近し勢力拡大。

幕府も伊達政宗への警戒感を強めていったとされています。

伊達政宗が江戸幕府と対立した場合、その旗頭になるのは徳川家康の実子である松平忠輝。

このことが松平忠輝改易の直接の理由になったかは不明ですが、徳川家康が亡くなると江戸幕府の土台が揺らいでしまう可能性があります。

そのことを未然に防ぐため、松平忠輝を改易処分にした、そんな可能性はあるかもしれません。

五郎八姫影響説

五郎八姫はキリシタンだったとされています。また、松平忠輝自身もキリシタンに理解を示していたと言われています。

ところで、大坂の陣での豊臣家は牢人衆が主力を占めていましたが、明石全登に代表されるようにキリスト教に帰依する武将も多かったと言われています。

攻める側の松平忠輝が、キリシタンが多く籠る大阪城を積極的に攻めることはできません。

大坂夏の陣における松平忠輝の遅参も、このあたりに理由があったとも言われていますが、江戸幕府からみたら敵対行動にも移ります。

遅参だけでなく、遅参した理由も松平忠輝改易の理由になったかもしれません。

 
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改易後の松平忠輝

1616年、徳川家康が亡くなって間もなく、兄で第2代将軍の徳川秀忠により改易。

最終的には諏訪の地で、長い流人生活を送ります。

もっとも流人生活と言っても、実質は軟禁状態に近く、近隣への外出は許されていたようです。

そして亡くなったのは1683年、91歳です。

松平忠輝が生まれたのは1592年。改易されたのが1616年で24歳の頃。そして、亡くなったのが1683年。

松平忠輝の流人生活は、70年近くに及んだことが分かります。

 
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