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日本史

徳川家康と武田信玄の戦いとその後を時系列で簡単解説

徳川家康が居城とした浜松城

はじめに

徳川家康が勢力を拡大していく過程で、最大の敵となったのが武田信玄です。

徳川家康と武田信玄の戦いは、武田信玄の勝利に終わり、徳川家康は追いつめられます。

武田信玄亡き後も、徳川家と武田家の戦いは続きますが、最終的には武田信玄の後継となった武田勝頼を破り武田家を滅亡に追い込んでいます。

この記事では、徳川家康と武田信玄の戦いと、武田信玄亡き後の徳川家と武田家の関係を時系列でお伝えしていきます。

まずは3人の武将の生没年をお示しします。

 
武田信玄1521年~1573年
徳川家康1543年~1616年
武田勝頼1546年~1582年

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徳川家康と武田信玄の戦い

武田信玄と近隣諸国の関係で有名なのが、1554年に結ばれた甲相駿三国同盟です。

甲は甲斐国の武田信玄、相は相模国の北条氏康、駿は駿河国の今川義元です。

甲相駿三国同盟は、大きな勢力を保っていた3人の戦国大名が、生き残りを図るための同盟でした。

では、この当時、徳川家康は何をしていたのでしょうか。

徳川氏(当時は松平氏)も西三河一帯を治めていましたが、実質は西の織田氏あるいは東の今川氏の庇護を受けなければ生きていけない存在でした。

徳川氏は今川氏を頼りますが、今川氏にとって徳川氏は傘下にすぎません。

言い換えると当時の徳川家康は格下で、武田信玄にとっては歯牙にもかけない存在でした。

徳川家康と武田信玄に接点が生まれるのは、桶狭間の戦いが終わってからになります。

1560年の桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を討ち取ります。それまで今川氏の人質だった徳川家康は、今川義元が亡くなった後に独立を果たします。

さらに、清洲同盟で織田信長に接近を図るとともに、今川義元亡き後、今川氏を率いることになった今川氏真を見限っています。

今川氏真は暗愚で知られていて、領土を守る実力はありません。

今川氏が治めていた駿河国と遠江国は、北の武田信玄、西の徳川家康の草刈り場となっていきます。

このとき、武田信玄と徳川家康に明確な接点が生まれます。

武田信玄と徳川家康は、駿河国は武田信玄、遠江国は徳川家康が奪い取る同盟を結びます。

武田氏と徳川氏はそれぞれ今川氏の領内に入りますが、武田氏の軍勢が駿河国だけでなく遠江国にも攻め込み、同盟が破綻するとともに両者は敵対関係になります。

結果的に、徳川家康は遠江国を支配下に置くことに成功します。この過程で徳川家康が行ったのが相模国を本拠とする北条氏康との連携。

北条氏が武田氏をけん制している間に、徳川家康は遠江国を支配下に置くことができます。

徳川家康と武田信玄は敵対関係になりますが、徳川家康と北条氏康は同盟関係となり、1590年の小田原征伐で北条氏が滅亡するまで続きます。

さて、徳川家康と敵対関係になった武田信玄ですが、武田信玄も北条氏康と同盟を締結し、結果的に駿河国は武田信玄の支配下になります。

戦いが一段落した武田信玄が、次に行ったのが西上です。

当時の室町幕府の将軍は第15代足利義昭です。

ただ足利義昭が将軍になれたのは織田信長の力によるもので、将軍の座に就いた当初の足利義昭はそのことに感謝していました。

しかし、すぐに織田信長の傀儡に過ぎないことを悟った足利義昭は多くの大名に呼びかけ、織田信長包囲網を構築します。

このとき足利義昭に呼応したのが、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺、そして武田信玄です。

1572年、武田信玄は西上を開始します。

最初の通り道となったのは遠江国・三河国ですが、そこは徳川家康が治める地。武田信玄と徳川家康は対峙します。

武田信玄と徳川家康の兵力を比較すると、武田家の兵力の方が圧倒的に上。

本来であれば、徳川家康の同盟者である織田信長も援軍を出すところですが、織田信長も包囲網により戦力をあまり割くことができません。

徳川家康が守りたいのは、武田信玄の行軍の途中にあり、徳川家康が居城としていた浜松城の北方にある二俣城です。

しかし、二俣城を守る前に始まった一言坂の戦いで敗北。さらに、二俣城の戦いでも徳川軍は破れ、城を奪い取られてしまいます。

武田信玄の目的は京に上ることであり、徳川家康を討ち取ることではありません。

そのため小競り合いはあったものの、徳川家康の居城の浜松城を攻めることなく、むしろ素通りするような形で西に向かいます。

この時、徳川家康が浜松城での籠城作戦を取っていたら、さらなる犠牲は防げたかもしれません。

しかし、自分を無視して目前を通り過ぎる武田軍に徳川家康は激怒。

徳川氏の諸将の多く、そして織田信長から遣わされた援軍の諸将からも反対されますが、徳川家康は武田信玄へ挑みかかります。

これが三方ヶ原の戦いで、結果は予想されていた通り、徳川家康の惨敗に終わります。

徳川家康自身も三方ヶ原の戦場から、命からがら浜松城に逃げ込みますが、この戦いは徳川家康の生涯で最大の敗戦と言われています。

徳川家康の危機は、まだまだ続くはずでしたが、突如、武田軍は甲斐国に戻っていきます。

徳川家康もこの行動を不思議に思い、いろいろと探りをいれたところ分かったのは、陣中での武田信玄の死。

徳川家康はまさに九死に一生を得ています。

また、この時点で徳川家康と武田信玄の戦いは終止符をうっています。

 
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徳川家康と武田勝頼の戦い

徳川家康と武田家の戦いは、武田信玄が亡くなっても続きます。

武田信玄の跡を継いだのは武田勝頼です。勇猛で知られた武田勝頼は、徳川家康と一進一退の攻防を繰り返します。

徳川家康と武田勝頼の運命を決定づけたのが、1575年の長篠の戦です。

長篠の戦は、織田・徳川連合軍と武田家の戦いです。

戦いの前から実力差は明らかだったため武田家内部では消極的意見が強かったものの、血気盛んな武田勝頼はまともに織田・徳川連合軍と戦い、武田家は重臣を含め数多くの家臣を失います。

徳川家康と武田信玄がぶつかった三方ヶ原の戦いは、徳川家康の思慮の浅さが徳川大敗という結果を導き出しました。

対して、織田・徳川連合軍と武田勝頼がぶつかった長篠の戦は、やはり思慮に欠ける武田勝頼の判断が結果に大きな影響を及ぼしています。

その後、武田勝頼は上杉謙信の後継争いに介入しますが、判断の誤りから北条氏と結んでいた甲相同盟を破綻させてしまいます。

甲斐国の武田勝頼は、織田氏・徳川氏だけでなく、北条氏も敵に回し、ますます勢力を弱めていきます。

武田勝頼は、織田信長と和睦の道も探りますが、弱った武田家を織田信長が助けるはずもありません。

1582年になると織田信長と徳川家康は甲斐国に侵攻。あわせて武田家の重臣たちを調略し、武田家を離反する家臣も多くなります。

同年3月、武田勝頼は自害し、武田家は滅亡します。

 
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さいごに 徳川家康は武田信玄を尊敬していた

一時期、徳川家康を大いに苦しめたのが武田信玄です。

では、徳川家康は武田信玄をどのように思っていたのでしょうか。

実際のところはわかりませんが、その後の徳川家康の行動を見ると、徳川家康は武田信玄を国を治める戦国大名として尊敬していた。

そのように思える節があります。

武田家滅亡後、徳川家康は領地を増やし家臣を増やす必要に迫られます。そのとき積極的に採用したのが武田家の遺臣です。

武田家の武将を多く採用することで、武田家の戦いにおける考え方や戦術を積極的に学んだと言われています。

また、徳川家の重臣であった石川数正が、徳川家康の元から豊臣秀吉のも元に寝返りを図ります。

重臣が寝返りしたということは、徳川家の軍令などがすべて豊臣家に漏れてしまうことを意味します。

徳川家としては、軍の機密情報などを変える必要がありましたが、積極的に採用したのが武田家のものだったと言われています。

徳川家康の生涯に大きな苦難を与えたのが武田信玄であることは間違いありませんが、徳川家康はかえって武田信玄の多くを吸収することに努めた。

これが尊敬ということになるのかはわかりませんが、徳川家康がある一面において武田信玄を見習ったのは確かなことのようです。

 
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