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日本史

本多忠勝の武将としての評価を10の逸話からご紹介します

徳川氏が居城とした江戸城

本多忠勝の逸話をご紹介します

この記事では、本多忠勝の逸話。そして、その逸話から武将としての評価を考えてみました。

まずは、本多忠勝について簡単にご紹介します。

本多忠勝は、1548年に生まれ、1610年に亡くなります。

本多家は、三河の小領主にすぎなかった松平氏に仕えます。松平氏は後年、徳川家康を生み出します。

徳川家康が創設した江戸幕府では、各大名を譜代や外様に分類をしています。

もちろん、松平氏の時代より徳川氏の家臣となっていた本多忠勝の家系は譜代。

しかも、最古参の譜代であることから、譜代の中の譜代である「安祥譜代」(あんじょうふだい)の一人に数えられています。

もっとも、戦国時代にあって武将の評価は、歴史ではなくあくまでも実績。

本多忠勝は、徳川家康のもっとも古い家臣の一人であることは間違いありません。

しかし、それ以上に様々な功績があったからこそ、武将として評価され、江戸時代に入っても生き延びることができています。

それでは、この記事では本多忠勝の逸話。

本多忠勝の数々の逸話の中から10の逸話を取り上げ、そこから武将としての評価を考えてみました。

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逸話その1 57度の戦い

本多忠勝は、生涯57度の戦に臨んだと言われています。

戦いなので、その時々の勝ち負けはありますが、特筆すべきは本多忠勝自身の勝負強さ。

本多忠勝は数多くの戦場に身を置きながら、一度もかすり傷さえ負ったことがないと伝えられています。

この逸話から、本多忠勝の武将としての勝負運の強さをうかがい知ることが出来ます。

逸話その2 初陣

本多忠勝の初陣は14歳。元服と同時に戦いに参加しています。

その戦場で叔父の本多忠高が敵の首を取り、それを初陣の本多忠勝に渡し、本多忠勝の初陣での武功にさせようとしました。

しかし、それをきっぱりと断ったのが本多忠勝。

本多忠勝は、自分の武功は自分で挙げるとばかりに敵陣に飛び込み、見事、敵の首を取ったと言われています。

14歳は当時の初陣としては珍しいものではありませんが、そこで敵の首をあげるとなれば話は別。

この逸話から、本多忠勝の一人の武将としての強さや負けん気の強さをうかがい知ることが出来ます。

逸話その3 槍

本多忠勝で有名なのは、本多忠勝が使用していた槍です。

本多忠勝が戦場で槍を立てていたところ、飛んでいたトンボが槍に接触。

なんとトンボが真っ二つになったことから、この槍は「蜻蛉斬り」と名付けられ、後年、天下三名槍の一つに数えられています。

この蜻蛉斬りは、約6メートルもある長いもの。

槍は長い方が有利と言われていましたが、力がなければ扱うことはできません。

この逸話から、本多忠勝は他の武将よりも、はるかに膂力(りょりょく)があったことがわかります。

また、後年、体力の衰えを感じた本多忠勝は、蜻蛉斬りを約1メートル切って短くしてしまいます。

本多忠勝は武将としての実力を冷静に判断する能力にも長けていたことがわかります。

逸話その4 武具と数珠

本多忠勝の武具としては槍が有名ですが、他にもこだわりを見せています。

まず、兜は鹿の角をあしらったもの、鎧は黒糸威胴丸具足。兜や鎧はさほど珍しいものではありません。

ただ、兜や鎧は丈夫さを第一義としながらも、素材にこだわり、できるだけ軽量なものにあつらえ、動きやすいものにしていたと言われています。

また、本多忠勝は戦場に臨むたびに、肩から大きな数珠を下げていたと伝えられています。

もちろん、この数珠はそれなりに重いものであったはずです。

この逸話から本多忠勝は、実用性を何よりも重要視する武将であるとともに、常に討ち取った敵に対して、慈しみを持つ武将であったことがわかります。

逸話その5 狂歌

徳川家康にとって、武田信玄は常に大きな敵として存在してました。

1572年に武田信玄と徳川家康がぶつかった一言坂の戦いでのこと。戦況が不利になった徳川勢は退却し、本多忠勝は「しんがり」を命じられます。

しんがりは、敵を正面に見据えながら、味方を無事に帰還させるのが役割。

戦いの中で、もっとも難しいのがしんがりで、主君から信任され、しかも有能な武将が充てられます。

結果として、しんがりは成功しますが、この後に流行ったのが「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌。

唐の頭とは当時徳川家康が愛用していた兜のことで、中国から渡来した珍しく高価なもの。本多平八とは、もちろん本多忠勝のこと。

本多忠勝が徳川家康の宝と謳われた狂歌は、何といっても本多忠勝の武将としての評価、有能さを讃えたものと言えそうです。

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逸話その6 織田信長

1582年3月に武田家は滅亡します。また、1582年6月には織田信長が本能寺の変で倒れます。

時期としては、その間のこと。

徳川家康は、織田信長の元を訪れます。

そのとき、織田信長は本多忠勝を「花も実もある武将である」と評価し、自らの家臣にも紹介をしています。

織田信長が他家の家臣を称賛するのは、本多忠勝が徳川家でも知られた存在であったからこそ。

また、本多忠勝は織田信長に面会するはるか以前から、たくさんの武功を挙げていたことが分かります。

逸話その7 伊賀越え

織田信長が本能寺の変で倒れたとき、徳川家康は僅かな家臣とともに堺を遊覧していました。

本能寺の変の報に接した徳川家康は逃げられないと観念して、切腹しようとします。

これを押しとどめたのが本多忠勝。

本多忠勝の直言に納得した徳川家康は、伊賀越えを果たして本国にたどり着くことができています。

本多忠勝の冷静沈着な判断が、徳川家康を生き残らせたといっても過言ではない逸話のように思われます。

逸話その8 豊臣秀吉

織田信長亡き後、徳川家康と豊臣秀吉が直接にぶつかったのが、1584年の小牧長久手の戦い。

戦力的には圧倒的に不利だった徳川家康。

ある戦いで、豊臣方に一方的に押されていた徳川勢でしたが、本多忠勝は味方を救うため、僅か500の手勢で豊臣勢の前に立ちふさがり、味方の損害を最小限にします。

このとき、豊臣勢は本多忠勝を討とうとします。豊臣勢の戦力からすれば、本多忠勝を討ち果たすことは十分に可能でした。

しかし、これを制止したのは豊臣秀吉。

豊臣秀吉は、徳川家康を討ち果たしたら本多忠勝を自分の家来としたい。だから、ここで本多忠勝を討ち取ってはならないと言明したと伝えられています。

また、後年、徳川家康が豊臣秀吉に臣従した後に本多忠勝に面会。

豊臣秀吉は、本多忠勝に直接の部下になるよう持ち掛けますが、本多家は先祖代々徳川家の家臣であるので、いまさら主を変えることはできないと固辞しています。

本多忠勝は敵の総大将からも評価された有能な武将であるだけでなく、義にも厚い武将であったことが分かります。

逸話その9 関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いにおいて、東軍と西軍の戦力は均衡していました。東軍の武将の中には自らが不利と心配する武将もいました。

本多忠勝は不安視する味方に、敵方は人数こそ多いが、山上などすぐには動けない場所にいる者が多い。

つまり、山上にいる敵は積極的に戦おうとする武将ではなく、日和見をしているに過ぎないから心配はいらないと看破します。

実際の戦いは本多忠勝の見方どおりになりましたが、本多忠勝は一武将としてだけでなく、一軍を率いる将としても有能であったことが分かります。

また、関ヶ原の戦い後、徳川家康は敵軍の武将に対して厳しい処分をします。

その中にいたのが、真田昌幸と真田幸村の親子。それまでも真田昌幸には何度も苦杯を飲まされていた徳川家康は両名を死罪にしようとします。

しかし、それを防いだのが本多忠勝です。

本多忠勝の娘である小松姫と、真田昌幸の嫡男真田信幸が婚姻していたのが最大の理由ですが、本多忠勝と義理の息子である真田信幸が徳川家康に懇願。

そのかいもあって、真田昌幸と真田信繁は九度山追放で落ち着きます。本多忠勝の情の篤さがにじみ出てくるような逸話ではないでしょうか。

逸話その10 死

本多忠勝は1610年、病気により62歳の生涯を閉じます。

その数日前のこと、本多忠勝は小刀で指を傷つけてしまいます。

戦場でもかすり傷さえ負わなかった本多忠勝。それが平時の何気ない動作でけがをしてしまった。

この小さな出来事で、本多忠勝は死を悟ったと伝えられています。

何となくですが、武将としてというばかりでなく、人としての潔さを感じさせてくれる逸話です。

さいごに

本多忠勝は徳川家康の家臣の中でも、とりわけ有名な武将として評価をされていました。

実際に本多忠勝は徳川家康の創業期を支えた武将として「徳川四天王」の一人として讃えられています。

ただし、本多忠勝が徳川家康の家臣として武功を挙げていたのは関ヶ原の戦いの頃まで。

関ヶ原の戦いから大坂の陣まで、約15年の歳月が経過しているので、当然のことかもしれません。

関ヶ原の戦い後は徳川四天王に代わり、本多正信などの武功よりも策略を得意とした武将たちが徳川家康の側近となっていきます。

徳川家康を唯一の主君とした本多忠勝には、忸怩たる思いがあったかもしれません。

しかし、本多忠勝は領主としても有能でした。

本多忠勝は最後に伊勢桑名藩の領主におさまりますが、この時の領国経営の見事さから、今でも名君と世間に評価をされ讃えられてもいるようです。

この記事では、本多忠勝の10の逸話から武将としての評価を考えてきました。さまざまな逸話から本多忠勝は武将として有能であったことが分かります。

また、それだけでなく人として魅力ある人物であったことも、どうやら間違いのないところ。

いろいろな意見はあるでしょうが、個人的にはそのように思っています。

 
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