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徳川家康と井伊直政はどのような関係だったのでしょうか

井伊直政像
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井伊直政誕生から徳川家康との出会いまで

この記事では、徳川家康と井伊直政の関係を、時系列でわかりやすくお伝えします。

井伊直政は、遠江国井伊谷を本拠地とする井伊家の第24代当主です。

生まれたのは1561年。

本来は生まれながらの領主であったはずの井伊直政ですが、実際は隣国の今川氏に従属をする立場でした。

井伊直政が生まれた1561年は桶狭間の戦いの翌年。

今川家の当主は、今川義元の嫡男である今川氏真。

今川氏真の代に大名としての今川氏は終焉を迎えますが、井伊直政が誕生した当時、今川氏の勢力はまだまだ強いものがありました。

井伊家の当主は、井伊直政の父である第23代井伊直親でしたが、今川氏真に謀叛の疑いをかけられて討ち果たされてしまいます。

このときの井伊直政は僅か2歳。

井伊家を統べる能力はないのはもちろんのこと、謀叛人の子供ということで、命さえ危ない状況でした。

このとき、井伊直政を助けたのは、今川家から井伊家に派遣されていた目付の新野左馬助です。

また、第22代当主井伊直盛の娘である次郎法師が還俗して井伊直虎を名乗り、井伊家を率いるとともに、井伊直政の保護者のような立場になります。

(時期的に井伊直虎が井伊家を率いたのは、第23代井伊直親と第24代井伊直政の間に入りますが、井伊直虎自身は井伊家の当主には就いていないと考えられています。)

その後、成長した井伊直政が徳川家康と出会ったのは1574年のこと。

井伊直虎や井伊家とつながりの深い南渓瑞聞などが画策して、徳川家康と井伊直政の出会いの場を作ります。

徳川家康との面会を果たした井伊直政は、徳川家康の小姓に取り立てられるとともに、井伊氏発祥の地である井伊谷の領有も認められています。

井伊直政が徳川家康の家臣に取り立てられたのは、井伊直虎や南渓瑞聞の尽力が大きかったと言われています。

ただ、それだけで徳川家康が井伊直政を家臣にしたのでしょうか。

徳川家康が井伊直政を家臣に取り立てた理由は、主に2つが考えられています。

一つは、井伊氏が由緒ある家柄であったこと。初代の井伊共保は生まれてすぐに捨てられ、藤原氏が拾って育てています。

それだけでは名族とは言えませんが、それでも井伊直政は井伊家第24代の当主。

徳川家康よりは、はるかに祖先を遡ることができます。

また、井伊家そのものが長らく今川氏に隷属し、しかも井伊直政の父である井伊直親は今川氏に殺された。

徳川家康も今川義元の元で、約10年の人質生活を送っています。

井伊直政の境遇に同情した徳川家康が、井伊直政を家臣に加えたとも言われています。

もう一つの説は衆道(男色)。

当時の武将は戦場に長らくいることが多く、女性を戦場に連れて行くこともできませんでした。

そのため、当時の武将にとって衆道はむしろ当たり前のこととされていました。

たとえば織田信長などは女性だけでなく、男性も愛したことで知られています。

井伊直政は眉目秀麗、今でいうイケメンです。

徳川家康も衆道を好んでいたところ、目の前にイケメンの少年が現れた。だからすぐに小姓にしたというものです。

徳川家康と井伊直政の関係については史料にも記載されているところであり、この意見を批判する材料はどこにもありません。

しかし、徳川家康は好みの対象こそ違うとはいえ、豊臣秀吉と同じくらい女性を愛した人物です。

何とも言い難いところですが、徳川家康と井伊直政が衆道関係にあったという説には少しばかり疑問がありますし、少なくとも徳川家康が衆道に拘泥することはなかったのではないでしょうか。

徳川家康が井伊直政を家臣に加えたのは衆道説もありますが、それ以上に井伊家が名族であったこと、井伊直政の境遇に同情をしたことが大きかったように思われます。

また、何より版図を拡大しつつあった徳川家康は、有能な家臣を一人でも多く召し抱える必要がありました。

だからこそ徳川家康は井伊直政を家臣に加えた。そんな可能性が高いようにも思われます。
 

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徳川家康と井伊直政の関係 小牧長久手の戦いまで

井伊直政は、徳川家康の家臣に取り立てられました。

しかし、徳川家康は三河国を本拠地とする大名で、徳川家康の家臣は三河武士と言われる人たちで構成されていました。

三河武士は屈強で知られていましたが、一方では固陋(ころう)とも言われていました。

井伊直政は三河国の出身ではなく、隣国の遠江国の出身。

そのため、本多作左衛門や大久保忠世など、複数の三河武士から辛く当たられたとも言われています。

後年、井伊直政は「赤備え」を率いて「井伊の赤鬼」と恐れられましたが、徳川家康に仕えるまでの境遇、あるいは徳川家康に仕えてからの逆風などがばねになっていたのでしょうか。

徳川家康に仕えてからの井伊直政は目覚ましい活躍をします。

徳川氏にとって当面の敵は武田氏ですが、井伊直政は武田氏との戦闘で武功をあげています。

井伊直政が名を知られるようになるのは1582年のころ。

1582年6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長が横死をします。

このとき、徳川家康は織田信長に招かれ、堺を遊覧しているところでした。

織田信長を倒した明智光秀は、織田家でも有能さを知られた武将です。

徳川家康も一時は死ぬことを覚悟しますが、本多忠勝などの助言で生きることを決意。

難関と言われた伊賀越えを行い、どうにか三河国に戻っています。

このとき、井伊直政も徳川家康に随行しています。

また、本能寺の変の直前、1582年3月には武田氏が滅亡しています。

徳川家康は武田家の家臣を積極的に召し抱え、その多くが井伊直政につけられます。

武田家と言えば山県正景の赤備えが有名ですが、このときから井伊直政も赤備えに軍装を改めます。

この赤備えが戦場に現れたのは、1584年の小牧長久手の戦い。

小牧長久手の戦いは、徳川家康と豊臣秀吉がぶつかった唯一の戦いとして有名ですが、戦場に赤備えで現れた井伊直政の部隊は大活躍し「井伊の赤鬼」と恐れられています。

最初は徳川家康の家臣として小姓からスタートした井伊直政も、この頃には徳川家の重臣の地位に上り詰めていたことが分かります。
 

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徳川家康と井伊直政の関係 関ヶ原の戦いまで

小牧長久手の戦い後、徳川家康は豊臣秀吉に臣従します。

徳川家康が豊臣秀吉の元へ上洛を果たしたとき、徳川家康に従った重臣たちは叙位されますが、井伊直政は重臣の中でも最高位に叙位をされます。

また、その後の小田原征伐などでも井伊直政は武功をあげ、徳川家の中でもとりわけ重要な地位を占めます。

1598年に豊臣秀吉は亡くなります。

豊臣秀吉が亡くなってすぐに徳川家康と石田三成の反目が目立つようになります。この段階でも井伊直政は大活躍。

豊臣恩顧の大名の多くを徳川方に引き込んでいます。

徳川四天王と言われる中にあって、それまで外交政策を担当していたのは、一番年長の酒井忠次。

しかし酒井忠次は1588年に隠居。1596年に亡くなっています。

徳川四天王の中でも、本多忠勝や榊原康政は戦場では優れた才能を見せるものの、外交は苦手。

徳川四天王の最後の一人が井伊直政です。

井伊直政は敵に「井伊の赤鬼」と恐れられていましたが、それだけでなく外交にも優れた手腕を発揮したことがわかります。
 
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徳川家康と井伊直政の関係 井伊直政が亡くなるまで

1600年、関ヶ原の戦いでも井伊直政は外交手腕を発揮。西軍についていた諸将を味方に引き入れることに成功をしています。

井伊直政は実際の戦闘でも活躍を見せましたが、関ヶ原の戦いが終わるころ、戦場から離脱を図る島津家を追いかけ、その途中で島津家の家臣が放った鉄砲が命中。

命こそ助かったものの大けがを負っています。

関ヶ原の戦い後も、井伊直政は戦後処理の多くを任されます。

そして、戦いでの活躍や外交手腕が認められ、京都に近い彦根の地に18万石を与えられています。

関ヶ原の戦いが終わっても豊臣家は存続。

また、京との公家対策も必要。

要衝の地を任された井伊直政は、徳川家康から大きな信任をされていたことが推察されます。

しかし、関ヶ原の戦いでの大けがが癒えることはありませんでした。

そのけががもとで、井伊直政は1602年に亡くなっています。

さいごに

井伊直政像井伊直政像

この記事では、井伊直政と徳川家康の関係について時系列でお伝えをしてきました。

ところで、井伊直政はどのような人物であったのでしょうか。

記事の最後に、その点について触れておきたいと思います。

井伊直政は徳川家康に見いだされますが、徳川家の中で出世を果たすまでは、苦労の絶えない人生を送ってきました。

そのためでしょうか。

井伊直政には、良い評判よりも悪い評判の方が目立っているようです。

井伊直政でよく聞かれるのは「人斬り」。

井伊直政は家臣の振る舞いで些細な事でも気に入らないことがあると、よく斬り捨てをしたと言われています。

そのため、井伊家には有能な武将が集まらなかった時期もあるようです。

また、一軍を率いる武将でありながら、戦いでは常に先陣を取ろうとして、主君の徳川家康にたしなめられたとも伝えられています。

どうやら井伊直政は家臣からは、必ずしも好かれてはいなかったようですが、他人にも自分にも厳しかった。

それが井伊直政であったように思われますし、だからこそ井伊直政は徳川家康から大きな信用を勝ち得たのではないでしょうか。

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