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小早川秀秋の裏切りと死因の理由を簡単解説
小早川秀秋は、1582年に生まれ、1602年に亡くなります。亡くなった時の年齢は僅か21歳。若くして亡くなったのに、小早川秀秋はあまりにも有名な人物です。
その理由は小早川秀秋は裏切りで有名だったから。
それも単なる裏切りではなく、天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦いでの裏切りです。
関ヶ原の戦い当時、小早川秀秋は18歳の青年でしたが、その青年が歴史を大きく転換させています。
この記事では、小早川秀秋は関ヶ原の戦いでどうして裏切りをしたのか。
そして、小早川秀秋はなぜ21歳で亡くなったのか。その死因についてお伝えします。
小早川秀秋は裏切りをしたの?
小早川秀秋は、西軍の石田三成の誘いを受け、応諾していながら、関ヶ原の戦いでは東軍の徳川家康の味方をしています。そんなことから、小早川秀秋は裏切り者であるというのが通説になっています。
もちろん、この意見を否定することはできませんが、実際には別の意見もあるようです。
その意見とは、小早川秀秋は最初から東軍に与する予定であり、裏切りはしていないという説です。
この意見の傍証としては
・ 小早川秀秋は朝鮮出兵に際して、石田三成の讒言で豊臣秀吉の不興をかっていた。
・ 小早川秀秋の叔母である高台院(豊臣秀吉の正室北政所)から徳川家康の恩を忘れるなと言われていた。
などがあります。
朝鮮出兵(慶長の役)で、小早川秀秋は石田三成の讒言にあい、豊臣秀吉に転封を命じられます。
しかし、豊臣秀吉の死後、徳川家康の取り成しもあり、小早川秀秋は旧領を回復します。
小早川秀秋にとって、石田三成は不倶戴天の敵。一方、徳川家康は恩人。
こうした人間関係を考えると、小早川秀秋が石田三成の味方をする理由などはないという考えも成り立ちます。
また、小早川秀秋が東軍に味方するに際して、黒田長政が小早川秀秋の陣に目付を派遣しています。
黒田長政は石田三成を嫌い、早くから徳川家康に接近していた人物として知られています。
東軍の目付け役がいるということは、少なくとも小早川秀秋が東軍につくという意思表示をしていた証拠にはなるようです。
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小早川秀秋が裏切り者と思われた理由とは
小早川秀秋は、西軍の石田三成から莫大な恩賞を約束されていました。
具体的には、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職を委ねるとともに、上方2ヶ国の加増です。
こうした莫大な恩賞の存在が、小早川秀秋が西軍の味方をする理由の一つになっています。
また、小早川秀秋の動きそのものにも怪しい点はありました。
もっとも不思議なのは、小早川秀秋が伏見城を攻撃したことです。
当時、伏見城には徳川家康の家臣である鳥居元忠が籠っていました。この伏見城に攻撃を仕掛けて、鳥居元忠を自害に追い込んだのは小早川秀秋です。
その後、小早川秀秋は西軍を離れ、徳川家康にお詫びの書状を出しています。
この一連の行動は、小早川秀秋が西軍の味方なのか、東軍の味方なのかをわかりにくくさせています。
小早川秀秋は関ヶ原の戦いにおいて、陣を松尾山に置きます。
松尾山には西軍の伊藤盛正が陣をおいていましたが、これをどかして小早川秀秋が松尾山に居座っています。
松尾山は関ヶ原を一望できる高台にあり、関ヶ原の戦いにおいては重要な地点と考えられていました。
この行動は、東軍につく小早川秀秋が西軍の伊藤盛正を追い出したとも考えられますし、逆に西軍の勝利を呼び込むために、大群の小早川軍が積極的に陣を置いたとも考えられます。
大群の小早川秀秋の軍勢が要衝の松尾山に陣を置いた。
このことは東軍の徳川家康にとっても、西軍の石田三成にとっても心強いものであったはずですが、同時に疑心暗義にもさせたようです。
関ヶ原の戦いが始まっても、小早川秀秋は戦いには参加せず様子見をしていました。
黒田家の目付から催促され、石田三成の方からも参陣を催促されていたはずです。
それでも様子見をしていた小早川秀秋ですが、関ヶ原の戦いが始まってしばらく後、しびれを切らした徳川家康が小早川秀秋の陣地に鉄砲を発砲。
徳川家康の怒りにおびえた小早川秀秋はようやく参陣を決意。
西軍の有力武将であった大谷吉継の陣に襲い掛かり、これがきっかけとなって西軍は総崩れ、東軍の大勝利に終わったと言われています。
小早川秀秋は、最初から徳川家康の味方をする予定であった。
こうした説もありますが、実際の小早川秀秋は旗幟を鮮明にしていなかったのは確かですし、少なくとも西軍の諸将は小早川秀秋は西軍に味方をすると思っていたはずです。
結果的に、小早川秀秋は西軍の期待に背き、東軍の味方についたことから、「裏切り者」と言われるようになります。
小早川秀秋が当初から徳川家康の味方をするとはいっても、これは内部的なもの。外部には一切伝わらない極秘の情報です。
そのため関ヶ原の戦い後の小早川秀秋は、西軍だけでなく東軍の諸将からも裏切り者のレッテルを張られてしまいました。
これは当時の文書にもいくつも残されているようで、小早川秀秋は裏切り者というのは、一般的な認識としてあったようです。
また、小早川秀秋裏切りの傍証は他にもあります。
関ヶ原の戦いの後、諸将が徳川家康に伺候していたのに、小早川秀秋だけがなかなか赴かなかったとされています。
これは、小早川秀秋は徳川家康を裏切るつもりだった。それが徳川家康にばれてしまったため、怖くて徳川家康に近づけなかったというものです。
小早川秀秋が、徳川家康と距離を置いていたのは事実。しかし、それは徳川家康を裏切ったから恐れたのではなく、小早川秀秋が旗幟を鮮明にするのが遅かったから。
どちらかといえばこの説の方が有力なようですが、徳川家康の元へのあいさつが遅れたことも、小早川秀秋裏切り説に拍車をかけてしまったようです。
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小早川秀秋の死因とは
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いの2年後に亡くなっています。亡くなったのは僅かに21歳。
小早川秀秋には子がなかったことから小早川家は断絶、改易の憂き目にあっています。
小早川秀秋の死因は分かってはいません。
ただ、小早川秀秋があまりにも早く亡くなったこと。
小早川秀秋の死により小早川家は改易、この改易は結果として江戸幕府の利益に結びついたこと。
そんなことから、徳川家康の命により小早川秀秋は暗殺された。
また、小早川家は内紛が絶えないと言われていました。そのため小早川秀秋を快く思わない家臣に暗殺をされた。
そのような噂もあります。
暗殺以外では、小早川秀秋は関ヶ原の戦いで戦った大谷吉継の亡霊によって殺された。
奇想天外ですがこのような意見もあります。
暗殺や怨霊に殺されたという説はあまり真実味はないようですが、関ヶ原の戦い以後、小早川秀秋はノイローゼ気味になり、最期は精神を病んで自殺をした。
この話には少しばかり真実味があるようです。
また自殺ではないけれど、ノイローゼになった小早川秀秋は酒におぼれ、アルコール依存症になり、それが原因で早世したという意見もあります。
関ヶ原の戦いにおいて、最初から旗幟を鮮明にすることが出来なかったこと。
関ヶ原の戦い後、徳川家康を恐れて、徳川家康の前に出られなかったこと。
また、関ヶ原の戦い当時、大国を任されていたとはいえ僅か18歳であったこと。
こうしたいくつかの要因から、小早川秀秋は優柔不断で気弱な性格が浮かび上がってきます。
当時、多くの人は小早川秀秋が石田三成を裏切った。小早川秀秋の裏切りにより西軍は大敗を喫した。
多くの人はこのように考えていたようで、その雰囲気は小早川秀秋にも伝わっています。
優柔不断で気弱な小早川秀秋がこの雰囲気に耐えられるはずもなく、それが酒におぼれる原因となりアルコール依存症に陥った。
小早川秀秋の死因ははっきりとはしていないまでも、アルコール依存症が大きく影響をしている。
このあたりが小早川秀秋の死因の通説となっているようです。
僅か21歳。短い人生の中でもさらに一瞬の判断が歴史を大きく動かした。
関ヶ原の戦い後、亡くなるまで、小早川秀秋はどのような思いで毎日を過ごしていたのでしょうか。
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