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日本史

細川藤孝と明智光秀の関係とは!時系列で簡単にご紹介します

細川家の居城の小倉城

細川藤孝と明智光秀

約100年続いた戦国時代を終焉に導こうとした織田信長。その織田信長を本能寺の変で倒した明智光秀の名前はあまりにも有名です。

しかし、明智光秀の天下は「三日天下」と言われるようにあっという間に終わり、その後は豊臣秀吉が天下統一を果たしています。

明智光秀の三日天下にはさまざまな理由がありますが、その一つにあげられられるのが細川藤孝の存在です。

明智光秀と細川藤孝、知名度では大きな開きがあるかもしれません。しかし、戦国時代を見事に乗り切ったのは細川藤孝です。

この記事では、細川藤孝と明智光秀の関係を時系列で追っていきたいと思います。

細川藤孝と明智光秀の関係1 足利義昭擁立まで

細川藤孝は、1934年に生まれ、1610年に亡くなります。

一方の明智光秀は、生年不詳で、1582年に亡くなります。

細川藤孝は三淵晴員(みつぶちはるかず)の子として生まれています。

三淵晴員は室町幕府の第12代将軍足利義晴、第13代将軍足利義輝、第15代将軍足利義昭に仕えた人物です。

また三淵晴員は名族として知られていた細川家から養子に入り、子の細川藤孝は三淵家から細川家に養子に入っています。

細川藤孝は名家の出身なので、生年月日も生まれた場所も記録に残っています。

一方の明智光秀はどうだったのでしょうか。

明智光秀も名族の土岐家の出という話はありますが定かではありません。
そのため、生年月日も生まれた場所もはっきりとはしていません。

また、その後の事績も不明な点が多く、前半生は謎に包まれています。

細川藤孝と明智光秀は身分でいえば、とても遠い存在でした。

では、二人の出会いはどのようなものだったのでしょうか。

ここで登場するのが朝倉義景(あさくらよしかげ、1533年~1573年)です。

朝倉義景は戦国大名として著名で、また自らが治める越前国は京都にも近い場所にありました。

明智光秀は、そんな朝倉義景に約10年間仕えていたとされています。

一方の細川藤孝は第13代将軍足利義輝に仕えていましたが、足利義輝は三好三人衆に暗殺をされてしまいます。

また、三好三人衆は足利義輝の従兄弟であった足利義栄を第14代将軍の座に据えます。

細川藤孝は、第13代将軍足利義輝の弟で幽閉をされていた足利義昭を救出し、足利義昭の将軍擁立を画策します。

足利義昭が、さまざまな大名を頼った後に行きついたのが朝倉義景です。

また、朝倉家で窓口になったのが明智光秀であり、この時に細川藤孝と明智光秀の関係がうまれたと考えられています。

しかし、足利義昭の要請に応えることなく、朝倉義景は上洛を先延ばしにしていきます。

足利義昭は朝倉家に見切りをつけ、織田信長との交渉を始めます。

このとき、織田信長の元に赴いたのは細川藤孝ですが、明智光秀もともに交渉に加わったと伝えられています。

織田信長の正室は濃姫。濃姫は美濃国を治めていた斎藤道三の娘です。

また、明智光秀自身も美濃国の土岐家の出身で、一説に明智光秀と濃姫は従兄弟であったとも伝えられています。

細川藤孝は足利義昭の直臣で名族ではありましたが、それだけでは弱い。そのため濃姫と縁のある明智光秀とともに織田信長と交渉にあたります。

もちろん、朝倉家の家臣という立場で織田家と交渉するのは無理があります。

そこで、明智光秀は朝倉家の家臣であると同時に、足利家の家臣にもなっていた可能性があります。

もっとも、ルイス・フロイスの『日本史』では、明智光秀は足利家の家臣ではなく、細川輔藤孝の家臣だったという記述も見受けられます。

さて、足利義昭の意向を受け、織田信長は上洛の準備に取り掛かります。

この段階で、まだ細川藤孝は足利義昭の家臣という立場です。

一方の明智光秀は、朝倉義景の元を離れ、足利家に仕える立場を維持させつつも、織田信長の家臣にもなっていきます。

そして1568年、足利義昭は織田信長の力により上洛し、第15代将軍の座に就きます。

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細川藤孝と明智光秀の関係2 足利幕府滅亡まで

細川家の居城の小倉城
第15代将軍になった足利義昭ですが、実質的には傀儡の将軍。実権を握り続ける織田信長とは次第に険悪になっていきます。

明智光秀はこの時点で織田信長に重用をされていきます。

何よりも能力のある者を好んだ織田信長らしい選択ですが、明智光秀は織田家の家臣として多忙な日々を過ごすようになります。

明智光秀の心情は、自分を重用し様々な仕事を与えてくれる織田信長に傾きつつあったのかもしれません。

一方の細川藤孝は足利義昭の家臣であり続けますが、足利義昭が様々な画策を練り織田信長包囲網を築く段階で、足利義昭から心が離れていきます。

1573年、織田信長により足利義昭が追放され足利幕府は実質的に滅亡しますが、細川藤孝もこの時点で足利義昭を離れ織田信長の家臣となります。

では、この時点での細川藤孝と明智光秀の関係はどうだったのでしょうか。

細川藤孝と明智光秀の関係3 本能寺の変まで

細川藤孝と明智光秀は共に織田信長の家臣となっています。

細川藤孝と明智光秀は織田信長の家臣という点では同格で、それぞれ持ち場を与えられていましたが、明智光秀が山陰方面軍総大将の任に当たったとき細川藤孝はその与力になっています。

与力とは、家臣ではないけれど指揮下に入るということで、この時点の序列としては明智光秀が上で、細川藤孝が下ということになります。

1578年になると織田信長の命により、細川藤孝の嫡男細川忠興と、明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)が婚姻をします。

細川藤孝と明智光秀は織田家に仕える家臣というだけでなく、親戚にもなります。

織田家の家臣として順調に歩みを続けてきた細川藤孝と明智光秀ですが、その状況を一変させたのが1582年の本能寺の変です。

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細川藤孝と明智光秀の関係4 山崎の戦いまで

本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀がまず行ったのが味方集めです。

この時、織田家の有力武将は各地を転戦し、京都近くに強大な敵になりそうな武将は存在しませんでした。

でも明智光秀が行ったのは謀反で、大義名分は今は遠くにいる織田家の有力武将にあります。

そこで、明智光秀が何よりも優先しなければならなかったのが味方集めです。

本能寺の変は明智光秀の軍勢だけで行っています。

明智必秀自身も多数の武将を抱えていましたが、それだけでは不足。そこで、まず頼ったのは長い間共に戦い、親戚でもある細川藤孝です。

しかし、明智光秀の願いにも関わらず細川藤孝はこれを固辞。家督を嫡男の細川忠興に譲るとともに、自らは剃髪して細川幽斎を名乗ります。

細川幽斎が明智光秀の誘いを断ったのは、明智光秀の謀反という行為が許せず、かつ主君である織田信長に対する弔意を示すためと言われています。

また、明智光秀の下につくことを潔しとしなかった、あるいは明智光秀に対してある遺恨があった。

理由はさまざまに語られていますが、細川藤孝は明智光秀に対して明らかに背を向けたのは事実です。

明智光秀は追い詰められていきます。

さらに、当時は中国地方で毛利氏と戦闘状態にあった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が京都に近づいてきます。

羽柴秀吉はとりわけ有能な武将で大義名分もあります。そのため羽柴秀吉には味方がどんどんと集まり、山崎の戦いにおいて明智光秀は敗れ生涯を閉じます。

細川藤孝が明智光秀の味方になっていたとしたら。

結果は同じだったのかもしれませんが、細川藤孝が明智光秀に背を向けたことが、後世言われる「明智の三日天下」につながったのではないでしょうか。

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さいごに その後の細川藤孝

細川家の居城の小倉城
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、天下統一にまい進をしていき、細川藤孝も豊臣秀吉の家臣に組み込まれていきます。

細川藤孝は武将として有能であるばかりでなく、有職故実にも通じていたので重用をされます。

もっとも豊臣秀吉がなくなった後は徳川家康に接近。1600年の関ケ原の戦いでは東軍につきます。

関ケ原の戦いに至る過程で、細川ガラシャの自害という不幸にも見舞われますが、結果的に東軍の勝利。

当主であった細川忠興は九州の豊前国に約40万石を与えられ、細川家は江戸時代を大名として生き延びていきます。

また隠居していた細川藤孝は京都で悠々自適な生涯を送り、1610年に亡くなります。

戦国時代により著名なのは明智光秀ですが、実を取ったのはむしろ細川藤孝。

あまり知られてはいないかもしれませんが、細川藤孝は武将としても文化人としても有能であるだけでなく、時代を見通す力に優れていた。

そんな人物だったのかもしれないですね。

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