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徳川家のお墓の場所はどこ?歴代将軍はここに眠っている

徳川家康像
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1603年に始まり約260年も続いた江戸幕府。

長い歴史の間には、初代の徳川家康から第15代の徳川慶喜まで15人の将軍がいました。

では、15人の将軍のお墓の場所はどこにあるのでしょうか。

この記事では「徳川家のお墓の場所はどこ」というテーマで、歴代将軍のお墓の場所などをご案内しています。

徳川家の歴代将軍に興味のある方は、ぜひ、お読みになってください。

江戸幕府の歴代将軍とは

最初に15人の将軍の名前をご紹介します。

 
初代徳川家康とくがわいえやす
2代徳川秀忠とくがわひでただ
3代徳川家光とくがわいえみつ
4代徳川家綱とくがわいえつな
5代徳川綱吉とくがわつなよし
6代徳川家宣とくがわいえのぶ
7代徳川家継とくがわいえつぐ
8代徳川吉宗とくがわよしむね
9代徳川家重とくがわいえしげ
10代徳川家治とくがわいえはる
11代徳川家斉とくがわいえなり
12代徳川家慶とくがわいえよし
13代徳川家定とくがわいえさだ
14代徳川家茂とくがわいえもち
15代徳川慶喜とくがわよしのぶ

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徳川家のお墓の場所とは

江戸幕府の歴代将軍が眠る場所は次の4か所です。

 

1 日光東照宮
2 増上寺
3 寛永寺
4 谷中霊園

1 日光東照宮(栃木県日光市)

日光東照宮
日光東照宮は、1617年に創建をされています。

徳川家康が亡くなったのは1616年ですが、江戸幕府の初代将軍である徳川家康を神格化し祀るために創建されたものです。

2 増上寺(東京都港区芝公園)

増上寺
増上寺の創建は1393年。

徳川氏が元々地盤としていたのは三河国ですが、1590年に豊臣秀吉の命により徳川家康は江戸に入府をします。

徳川家と増上寺の縁はこのころより始まり、徳川家康は増上寺を徳川家の菩提寺として整備を図ります。

3 寛永寺(東京都台東区上野桜木)

寛永寺根本中堂
寛永寺の創建は1625年。

徳川家康から徳川家光まで江戸幕府の政策に深く関わったとされる天海による開山です。そのような経緯から、寛永寺には多くの将軍が埋葬されています。

4 谷中霊園(東京都台東区谷中)

谷中霊園
谷中霊園は1874年、明治になり墓所の不足に悩む明治政府の主導で設けられています。

歴代将軍のお墓の場所1 初代から第5代まで

初代 徳川家康

生没年1543年~1616年
将軍在位期間1603年~1605年
祀られている場所日光東照宮
徳川家康は三河国の小領主の子に生まれながらも、江戸幕府を開き初代将軍になった人物です。

1600年の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、政治の実権を豊臣家から徳川家に移すことに成功し、江戸幕府を開府します。

しかし、将軍在位期間は僅かに2年で、その座を徳川秀忠に譲ります。

これは徳川家康が将軍は世襲制であることを周知させ、江戸幕府をより強固なものとするためのものと考えられています。

実際、徳川家康はその後も実権を握り続け、豊臣家が滅ぶのを見届けた後に生涯を閉じています。

徳川家康は、死後、一旦は久能山に葬られますが、一周忌をもって日光東照宮に移り神として祀られるようになります。

第2代 徳川秀忠

生没年1579年~1632年
将軍在位期間1605年~1623年
お墓の場所増上寺
徳川秀忠は徳川家康の三男で、本来は2代将軍になれる存在ではありませんでした。

しかし、長男の信康は既に亡くなり、次男の秀康は一時期豊臣秀吉の養子になっていたという経緯もあり、最終的に2代将軍に就いています。

徳川秀忠は律儀なことで知られていました。徳川秀忠が亡くなる直前、周囲から父の徳川家康と同じように、死後は神になり日光東照宮に祀られることを提案されました。

しかし、徳川秀忠は徳川家に神となるのは父だけでよいと言って、徳川家康が菩提寺として整備した増上寺に葬られています。

第3代 徳川家光

生没年1604年~1651年
将軍在位期間1623年~1651年
祀られている場所日光東照宮
徳川家光は、第2代徳川秀忠と正室江の次男として生まれます。

もっとも長男は早世していたため、徳川家光は問題なく第3代将軍になれるはずでした。

しかし、父と母は徳川家光を愚鈍とみなし、その弟の徳川忠長へ愛情を注ぎます。

一時は徳川家光が第3代将軍になるのは難しいと思われた時期もありましたが、祖父の徳川家康が徳川家光を後継者とみなしたことから、徳川家光は無事に第3代将軍の座におさまることができます。

こうした経緯から、徳川家光は祖父の徳川家康を敬愛すること甚だしく、父の徳川秀忠とはむしろ疎遠の関係になっていました。

徳川家康が神として祀られた時の神号は「権現」ですが、徳川家光は「二世権現」になることを望み、死後は天海の寛永寺で葬儀の後、徳川家康とともに日光東照宮に祀られています。

第4代 徳川家綱

生没年1641年~1680年
将軍在位期間1651年~1680年
お墓の場所寛永寺
徳川家綱は、徳川家光の長男です。

父の徳川家光は将軍就任に際して、弟である徳川忠長と争います。そうした経験から、徳川家光は徳川家綱をすぐに将軍後継に指名しています。

徳川家綱には将軍の後継になる男子がいなかったため、亡くなる直前に徳川家光の第4男である徳川綱吉を養子に迎えます。

徳川家綱の葬儀は父の徳川家光と同じく寛永寺で執り行われ、お墓も寛永寺に設けられています。

第5代 徳川綱吉

生没年1646年~1709年
将軍在位期間1680年~1709年
お墓の場所寛永寺
第4代徳川家綱は徳川家光の長男、第5代徳川綱吉は徳川家光の四男。第4代将軍と第5代将軍は兄弟です。

徳川綱吉の将軍在位前半は善政を行ったといわれていますが、後半は「生類憐みの令」など行ったことで悪政を行った将軍ともいわれています。

徳川綱吉には嫡男はいましたが早世。そこで選ばれたのが徳川家宣です。

徳川家宣は徳川家光の三男である徳川綱重の長男です。

第4代将軍徳川家綱が養子を選ぶ時、本来であれば徳川家光の三男である徳川綱重を選び、四男の徳川綱吉は選ばれなかったはずです。

しかし、徳川綱重は既に亡くなっていたため、血縁が近い徳川綱吉が選ばれています。

第5代将軍徳川綱吉が養子を選ぶ時、最も血縁関係が近いのは兄の子である徳川家宣であったため、甥である徳川家宣が徳川綱吉の後継として迎えられています。

徳川綱吉の葬儀は祖父の徳川家光、義父の徳川綱吉と同じく寛永寺で執り行われ、お墓も寛永寺に設けられています。

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歴代将軍のお墓の場所2 第6代から第10代まで

第6代 徳川家宣

生没年1662年~1712年
将軍在位期間1709年~1712年
お墓の場所増上寺
前述のような経緯で徳川家宣は将軍の座についています。

しかし、徳川家宣が将軍になったのは既に壮年を迎えるころ。

早くに亡くなっているので将軍在位期間は短いものの、生類憐みの令廃止や人材登用など功績が知られています。

なお、徳川家宣の葬儀は増上寺で行われ、お墓も増上寺にあります。

これは増上寺が徳川家の菩提寺になっているにも関わらず、お墓があるのは第2代将軍だけであることを増上寺が徳川家に度々申し立てを行ったことにあります。

徳川家宣のお墓が増上寺に設けられたことで、以降は原則として将軍家のお墓は増上寺と寛永寺で交互に設けられることになりました。

第7代 徳川家継

生没年1709年~1716年
将軍在位期間1713年~1716年
お墓の場所増上寺
徳川家継は徳川家宣の四男ですが、兄たちが早世したため第7代将軍になります。

もっとも、将軍になったのは僅かに3歳。そして、徳川家継自身も病弱であったことから6歳で亡くなっています。

政治を執り行っていたのは徳川家宣が登用した新井白石や間部詮房など。第6代将軍・第7代将軍の時代の政治は「正徳の治」と言われています。

なお、徳川家継のお墓は順番では寛永寺に設けられるはずでしたが、子どものうちに亡くなったということもあり父の徳川家宣と同じく増上寺にお墓が設けられています。

第8代 徳川吉宗

生没年1684年~1751年
将軍在位期間1716年~1745年
お墓の場所寛永寺
第7代将軍徳川家継が6歳で亡くなったため、幕府はすぐに後継者選びをする必要がありました。

候補になったのは2人、徳川御三家のうち紀州藩主の徳川吉宗と、尾張藩主の徳川継友の2人です。

徳川吉宗は徳川家康のひ孫、徳川継友は徳川家康の玄孫(やしゃご・ひ孫の子)になります。

徳川家康から見て血縁関係の近いのは徳川吉宗ですが、徳川継友は第3代将軍の徳川家光とも血縁関係にあり、将軍家との血縁関係という点では徳川継友に分がありました。

最終的には徳川吉宗が第8代将軍になります。

徳川吉宗は後継を長男の徳川家重とします。しかし、徳川家重は言語不明瞭できちんとした指示が出せない人物でした。

徳川吉宗には聡明で知られた二男や四男がいて、こうした人物を将軍にという意見もあったようですが、長幼の序を崩すということで徳川吉宗は徳川家重を第9代将軍にします。

もっとも、こうした状況から徳川吉宗は早くに将軍職を徳川家重に譲るものの、自らは大御所となって実際の政務を執り行っています。

また、徳川家康が創設した御三家も代替わりが続くうちに血縁関係が薄くなっているということで、次男の徳川宗武に田安家、四男の徳川宗尹に一橋家を創設させ、後に創った清水家とともに御三卿として、将軍の後継者を出せるような仕組みを作り上げます。

第9代 徳川家重

生没年1712年~1761年
将軍在位期間1745年~1760年
お墓の場所増上寺
徳川吉宗の長男ということで将軍の座に就いた徳川家重ですが、在位期間の前半は父の徳川吉宗が大御所として政治を執り行っていました。

しかし徳川吉宗の死後は、徳川家重の言葉を聞き取れるのは側近の大岡忠光のみ。

また、徳川家重自身も政務にあまり興味はなく、長男の徳川家治が聡明であったため、1760年には徳川家治を新たな将軍とし隠居をします。

第10代 徳川家治

生没年1737年~1786年
将軍在位期間1760年~1786年
お墓の場所寛永寺
聡明さで知られた徳川家治ですが、徳川家重の遺言により田沼意次を重用したことで、その聡明さが失われていきます。

田沼意次は有能でしたが、次第に徳川家治を政治の場から遠ざけていきます。

そして、徳川家治自身も次第に政治に興味を失い、趣味に没頭する生活を送るようになったといわれています。

歴代将軍のお墓の場所3 第11代から第15代まで

第11代 徳川家斉

生没年1773年~1841年
将軍在位期間1787年~1837年
お墓の場所寛永寺
徳川家治には徳川家基という後継者がいましたが16歳で亡くなり、その後、後継者に恵まれることはありませんでした。

そこで養子として迎えられたのが徳川家斉です。徳川家斉は徳川吉宗が創設した一橋家の出で、徳川吉宗のひ孫にあたる人物です。

徳川家斉で有名なのは子どもの多さ。

徳川家斉は少なくとも16人の側室を持ち、子供の数は53人。

また、徳川家斉の将軍在位期間は50年で、これは15人いる江戸幕府の将軍の中でも最長の記録となっています。

徳川家斉は1837年に将軍職を徳川家慶に譲りますが、亡くなるまで大御所として政治の実権を握ります。

なお、順番でいえば徳川家斉は増上寺にお墓を設けるところですが、実際は寛永寺に葬られています。このあたりの経緯は分かりませんでした。

第12代 徳川家慶

生没年1793年~1853年
将軍在位期間1837年~1853年
お墓の場所増上寺
徳川家慶は徳川家斉の次男ですが長男が早世したため第12代将軍になります。

将軍になったときは既に45歳。それでも、最初の頃は父の徳川家斉が大御所として実権を握っていました。

徳川家慶も父と同じように子沢山。男女合わせて27人の子を授かりますが、実際に成人したのは後に第13代将軍となる徳川家定のみ。

その徳川家定も奇矯な行動が多く、さらには病弱であったため、一時は後に第15代将軍になる徳川慶喜を後継にしようと考えますが、結果的には徳川家定が後継の将軍になっています。

第13代 徳川家定

生没年1824年~1858年
将軍在位期間1853年~1858年
お墓の場所寛永寺
徳川家定は徳川家慶の四男ですが、兄弟のすべてが早世したため、健康や能力に疑問を持たれながらも将軍の座に就いています。

もっとも、徳川家定の周辺では将軍在位中から将軍継嗣問題が白熱していました。

そして、紀州藩の徳川家茂を推す南紀派と、一橋家の徳川慶喜を推す一橋派は激しい対立をします。

結果的に南紀派が勝利をして徳川家定の後継は徳川家茂になりますが、徳川家定が後継を徳川家茂にすると宣言した直後に、徳川家定は生涯を閉じています。

病弱とはいえ急な死を迎えたことで、当時は徳川家定毒殺説がささやかれていたようです。

ところで、徳川家定の正室は薩摩藩主島津斉彬の養女篤姫です。

篤姫は徳川家定死後も薩摩藩に戻ることなく江戸城内で過ごし、江戸無血開城にも尽力をします。

篤姫が亡くなったのは1883年(明治16年)。篤姫のお墓は、徳川家定が眠る寛永寺のお墓の横に設けられています。

第14代 徳川家茂

生没年1846年~1866年
将軍在位期間1858年~1866年
お墓の場所増上寺
徳川家茂は、第12代徳川家慶の異母弟の子。

徳川家慶の甥であり、徳川家定とは従弟の関係です。

南紀派と一橋派の争いは、南紀派の勝利に終わりますが、これは第一に将軍家との血縁関係が強かったからと考えられます。

もっとも、徳川家茂が将軍になったのは13歳の時。

実際は幕閣で政治が執り行われていますが、時は幕末の動乱期。徳川家茂は第2次長州征伐のため大坂城に赴き、そこで病に倒れ20歳の生涯を閉じています。

第15代 徳川慶喜

生没年1837年~1913年
将軍在位期間1867年~1868年
お墓の場所谷中霊園
徳川家茂は血縁関係の濃さから第14代将軍になりましたが若くして亡くなります。

徳川家茂に後継者となる子はいませんでしたし、当時は長州藩だけでなく薩摩藩も討幕に動いていた時代です。

そこで聡明さを知られた徳川慶喜が第15代将軍の座に就きます。

もっとも時代は幕府に不利。

1867年の王政復古、1868年の鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争で幕府は倒れ、明治新政府ができます。

徳川慶喜の将軍在位期間は僅かに1年。15人の将軍の中で最も在位期間の短い将軍としても知られています。

なお、徳川慶喜が亡くなったのは1913年(大正2年)。

江戸幕府がなくなって久しいこと、徳川慶喜は既に徳川家の当主ではなかったこと、さらには徳川慶喜自身が神式での埋葬を希望していたことから、寛永寺ではなく隣接する谷中霊園にお墓が設けられています。

まとめ

この記事では、徳川家のお墓の場所はどこということで、15人の歴代将軍が眠る場所をご案内していました。

15人の中には神として祀られたり、神式で埋葬されている人物がいます。

また寺院に眠る人もいますが、徳川家康が菩提寺として整備した増上寺に6人、天海が創設した寛永寺に6人と、バランスよく2つの寺院にお墓があります。

それでは、最後に15人の将軍が眠る場所をまとめとして表形式でご案内しておきたいと思います。

 
初代徳川家康日光東照宮
2代徳川秀忠増上寺
3代徳川家光日光東照宮
4代徳川家綱寛永寺
5代徳川綱吉寛永寺
6代徳川家宣増上寺
7代徳川家継増上寺
8代徳川吉宗寛永寺
9代徳川家重増上寺
10代徳川家治寛永寺
11代徳川家斉寛永寺
12代徳川家慶増上寺
13代徳川家定寛永寺
14代徳川家茂増上寺
15代徳川慶喜谷中霊園
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