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前田利家とまつの年の差夫婦が加賀100万石を作った!

前田家の居城となった金沢城
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はじめに

前田利家は加賀100万石の祖として知られています。

しかし、前田利家だけで加賀100万石の領主になることはできなかったとも言われています。

そこで大切な役割を果たしたのが、前田利家とは9つの年の差があったまつです。

まつは前田利家の正室として常に寄り添い内助の功を発揮しました。その結果が、加賀100万石。

また前田利家が亡くなった後も、まつは前田家を守り、江戸時代を通じて最大の石高を持つ大名として続くことになります。

まずは、前田利家とまつの略歴を簡単に振り返ってみたいと思います。

前田利家とまつの歴史

1538年前田利家が生まれる
1547年まつが生まれる
1559年前田利家がまつを正室に迎える
1575年柴田勝家の与力として10万石の大名となる
1581年23万石の大名となる
1582年本能寺の変で織田信長が倒れる
1583年賤ヶ岳の戦いで柴田勝家ではなく豊臣秀吉につく
1585年飛び地を合わせて約100万石の大名となる
1598年五大老になる、豊臣秀吉死す
1599年前田利家死す
1600年まつが人質として江戸に入る
1617年まつが金沢で死す
前田利家とまつには9つの年の差がありました。

前田利家が21歳であったのはともかくとして、9歳の年の差があるまつが前田利家に嫁いだのはなんと12歳の頃になります。

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前田利家とは

前田利家は織田信長の小姓として仕えたことが武将生活の出発点となります。

前田利家は織田信長の衆道(男色)の相手として知られていますが、これは当時としてはむしろ名誉なこと。

織田信長にかわいがられていたことを意味しています。

長じてからの前田利家は身長約180㎝。当時としては大柄でしかも容姿端麗。いまでいうイケメンでした。

また武術も優れ、特に「槍の又左」として恐れられていました。

さらに、普段は荒ぶることもなく、正直でもあったので「律義者」と評価もされていました。

非の打ち所のないような人物でしたが、出世は必ずしも早い方ではありませんでした。

たとえば、後から織田家に入ってきた豊臣秀吉などが軍団長になっても、前田利家は同じ軍団長である柴田勝家の配下にすぎませんでした。

比べる相手が間違っているのかもしれませんが、戦国武将としての輝きは少しばかり劣っていたようです。

でも、最終的に加賀100万石の祖となれたのは、律義者という性格のおかげ。

前田利家は賤ヶ岳の戦いで上司である柴田勝家を裏切ります。そして、昔からの旧友ではあっても、その当時は敵であった豊臣秀吉につきます。

普通であれば柴田勝家は激怒するはずですが、柴田勝家はこれまで一所懸命に働いてきた前田利家に感謝しています。

日頃の行いが、裏切りをも許したようです。

前田利家は豊臣秀吉に臣従し、豊臣秀吉の天下取りに協力をします。その成果が加賀100万石。

加賀100万石の太守になっても奢ることなく豊臣秀吉に従い、豊臣秀吉が亡くなる直前には五大老に就任をします。

豊臣秀吉が亡くなった後は豊臣家を守ることに腐心しますが、残念なことに豊臣秀吉がなくなった翌年に病死をします。

まつとは

まつは戦火で孤児になったため前田家に引き取られています。それはまつが前田利家の従妹だったから。

親せきだったからこそ、困窮したまつを前田家は引き取り育てたことになります。

まつが前田利家と結婚をしたのは、前田利家21歳、まつ12歳の頃で、翌年には夫婦の間に長女が誕生しています。

そして、最終的に前田利家とまつには11人の子供が生まれています。

当時は側室を置くのが当たり前で、武将にはたくさんの子供がいたのが常ですが、それにしても一人の女性が11人の子供を産む。

やはりこの人数は多く、2人の仲がよかったことを証明しています。

また、まつは豊臣秀吉(羽柴秀吉)と近所づきあいをしていたことも知られています。

織田家の武将としては、前田利家が先輩、豊臣秀吉が後輩。当初の立場も前田利家が上で豊臣秀吉が下という関係です。

しかし、前田利家と豊臣秀吉、まつと豊臣秀吉の妻寧々とは、とても仲が良い近所づきあいをしていたと伝えられています。

これが、加賀100万石を手に入れた最大の要因だったのかもしれません。

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まつがいたから加賀100万石が生まれた

まつと前田利家は年の差があっても仲が良いことで有名でした。ただし、単に仲が良いだけの夫婦ではなかったようです。

前田利家は武術に優れた武将でしたが、もう一つ大きな特徴がありました。それが算術好きです。

前田利家は算術好きが高じて蓄財に熱心になります。

お金を貯めるのは悪いことではありませんが、お金を貯めることに熱心なあまり、有能な家臣を雇い入れることや武器を仕入れることを怠っていました。

ある戦で、そうした要因が重なり、戦いに出ようとしない前田利家にまつが激怒。

前田利家の尻を叩き、戦場に送り出したと伝えられています。

前田利家とまつには年の差があっても、夫婦間での発言力はまつの方が強かったのかもしれません。

また、前田利家亡き後、前田家を救ったのもまつです。

豊臣秀吉が亡くなり、天下を狙ったのは徳川家康。その徳川家康との抑えとなっていたのが前田利家です。

しかし、前田利家が亡くなるとパワーバランスが崩れます。

ここで、まつが100万石があれば徳川家康に対抗できると考えていたら、その後の前田家はなかったかもしれません。

徳川家康が恐れていたのは加賀100万石ではなく前田利家の人望でした。

前田利家が亡くなっても前田家の武力はそのままです。でも、まつは徳川家康に忠誠を誓うため江戸に入りして人質になりました。

徳川家康は豊臣の天下を狙っていました。と同時に前田家の加賀や上杉家の越後も狙っていました。

徳川家康の策略にかかり、上杉家は関ヶ原の戦い後に石高を大きく減らし転封という憂き目にあいましたが、前田家はこの困難をほぼ無傷で乗り切ることができています。

まつの江戸での人質生活は14年。亡くなる直前にようやく加賀に帰ることができたようです。

まつが払った代償も大きかったようですが、まつの賢さのおかげで江戸時代を通して前田家は生き残ったとも言えるようです。

まとめ

前田家の居城となった金沢城金沢城

前田家が加賀100万石を得たのは、何よりも前田利家の武将としての資質と律義という性格のおかげです。

でも、前田利家が加賀100万石の太守となったのは正室であるまつの内助の功があったから。

そして、加賀100万石がずっと続いたのは、何よりもまつの賢い選択があったから。

そう考えると、加賀100万石は前田利家とまつの年の差夫婦が作ったと言っても過言ではないように思われます。
 
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