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石田三成の評価が低い理由とは!その訳を探ってみました

石田三成の活躍の舞台となった大坂城
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石田三成とは

石田三成は1560年に生まれ、14歳の頃、豊臣秀吉に仕官。

成り上がりで昔からの家臣を持たなかった、豊臣秀吉の子飼いの武将として頭角を現しました。

豊臣秀吉が1598年に亡くなった時は、近江佐和山で約20万石を領するとともに、5奉行の1人に任じられています。

しかし豊臣秀吉亡き後、すぐに行動を起こしたのが徳川家康。

虎視眈々と豊臣の天下を狙う徳川家康に、真っ向から立ち向かったのが石田三成です。

徳川家康と石田三成は、1600年の関ヶ原の戦いで激突。 天下分け目と言われた関ヶ原の戦いは僅か半日で終わり、徳川家康が大勝します。

一方、敗軍の将となった石田三成は捕えられ、京都の六条河原で斬首され41歳の生涯を閉じます。

石田三成は天下分け目の戦いに臨みました。 それだけの武将なのに石田三成自身の評価は思いのほか低い。

そのことが気になり、石田三成の評価が低い理由を探ってみました。
 

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評価が低い理由1 徳川氏が天下をとった

石田三成が戦った徳川家康像
関ヶ原の戦い後の1603年、徳川家康は江戸に幕府を開きました。

初代将軍の徳川家康。 しかし早くも1605年には将軍職を譲り、三男の徳川秀忠が第2代将軍になっています。

将軍職をすぐに譲ったということは、天下を治めるのは徳川家だと宣言したことになり、事実、江戸幕府は約260年間、体制を維持することになります。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」といわれますが、この場合もピッタリと当てはまります。

関ヶ原の戦いに勝ち江戸幕府を開いた徳川家康が官軍なら石田三成は賊軍。 江戸時代に石田三成を褒め称えることは容易ではなかったはずです。

石田三成の評価が低く押しとどめられていた最大の理由は、徳川が天下をとったことにありそうです。

評価が低い理由2 豊臣秀吉子飼いの武将に嫌われていた

石田三成は豊臣秀吉に見いだされた子飼いの武将です。 しかし子飼いの武将は石田三成だけではありません。

豊臣秀吉の身分がまだ低かった頃、豊臣秀吉の活動の中心は尾張でした。 このとき、豊臣秀吉に見いだされた武将の代表としては、加藤清正、福島正則などがいます。

尾張時代に子飼いになった武将を尾張系、あるいは多くの武将がその武勇を誇ったので武断派などとも言われていました。

また、豊臣秀吉の正室北政所も尾張出身。尾張系の武将は、北政所に近かったとも言われています。

一方、豊臣秀吉が少し出世して本拠地にしたのが近江長浜です。この時以降、子飼いになった武将の代表に挙げられるのが石田三成です。

近江時代に子飼いになった武将を近江系、あるいは多くの武将が経理などに明るかったので文治派などとも言われていました。

また、豊臣秀吉の側室ながら後継者の秀頼を産んだ淀殿は近江出身。近江系の武将は、淀殿に近かったとも言われています。

同じ子飼いであっても、出身地も違えば、特性も大きく異なる。

端的に言えば、加藤清正や福島正則は徹底的に石田三成を嫌っていました。さらに、黒田長政や細川忠興など、武功の多い武将も石田三成を嫌っていました。

石田三成の同年代の武将の多くが石田三成を嫌っていた。

当然、これらの諸将が石田三成を高く評価するわけがありません。石田三成の評価が低かった理由はここにもありそうです。
 

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評価が低い理由3 人望がなかった

石田三成は同年代の武将の多くから嫌われていました。そうした中にあって、一人だけ仲の良い武将がいました。それが大谷吉継です。

仲が良いだけあって大谷吉継は石田三成に対して次のように語っています。

「石田三成が挙兵をして武将に呼びかけをしても、日頃の横柄振りから味方につくものなどはいない。徳川家康を討つのであれば毛利輝元か宇喜多秀家を総大将にして、あくまで陰に徹しよ。」

とても仲が良かった大谷吉継でさえも、石田三成を横柄と語っていますし、人望がなかったこともあからさまに語っています。

人望がなければ、当然に評価も低い。こうしたことも石田三成の評価を低くしている理由なのかもしれません。
 

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まとめ

石田三成像
石田三成は能力もあり、その能力は豊臣秀吉に愛されてもいました。

しかし、他の諸将から見たらそれは妬みの対象であり、石田三成自身も臆することなく諸将に対峙していました。

当然、仲が良いはずはなく、他の諸将からも悪い評価、低い評価しか得ることはできませんでした。

その様子をじっと見ていたのは徳川家康。

徳川家康がいかに大大名だったとしても、それだけでは天下は取れません。徳川家康は石田三成と敵対する諸将を懐柔し、石田三成を孤立化させていきました。

そうした両者の緊張が最高潮になり起こったのが関ヶ原の戦い。

当初は、石田三成の西軍が地の利を活かして有利と考えられていました。しかし、石田三成と一緒に戦ったのは、先の大谷吉継をはじめほんの僅か。

西軍に参加した多くの武将は積極的に戦闘に参加しなかったし、最終的には西軍で大きな兵力を有する小早川秀秋の裏切りで壊滅状態。

石田三成に対する人望のなさが、この結果を生んだように思えます。

そして、その後は徳川の天下。徳川から見たら賊将の石田三成の評価が高いわけがありません。

石田三成自身は頭脳明晰で有能な武将。加藤清正や福島正則には及ばないにしても、武者働きもしています。

しかしながら、石田三成の評価はいくつかの理由の結果、まだまだ低い状態が続いています。

最近では、石田三成の事績の再評価も行われているようですが、石田三成については今後の評価の行方に注目をしたいところです。

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