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加藤清正・福島正則と石田三成との関係はどうだったの

関ケ原の戦い古戦場
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はじめに

この記事では、加藤清正と福島正則を中心にお伝えをします。

加藤清正も福島正則も、豊臣秀吉子飼いの武将。

一代で天下人に上り詰めた豊臣秀吉には、そもそも譜代の家臣はいませんでした。

そのため豊臣秀吉が出世の階段を上るとともに、常に新しい家臣を必要とするようになりました。

豊臣秀吉の家臣として有名なのは、竹中半兵衛や黒田官兵衛。どちらも豊臣秀吉にとっては軍師、参謀の立場にありましたがそれだけでは足りません。

そこで豊臣秀吉が集めようとしたのが自分に近い者。血縁関係にあり、かつ、年少の者を積極的に家臣に取り立てていきました。

加藤清正も福島正則も、そうしたいきさつで豊臣秀吉に見いだされた「子飼いの武将」です。

そこで、この記事では加藤清正も福島正則はどのような武将だったのか。あわせて石田三成との関係についてもお伝えをしていきます。

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加藤清正とは

加藤清正が築城した熊本城熊本城

加藤清正は1562年に生まれ、1611年に亡くなります。

加藤清正が生まれた場所は尾張国中村。1537年生まれの豊臣秀吉も尾張国中村出身なので同郷ということになります。

また、加藤清正の母は豊臣秀吉の母である大政所とは従兄弟とも伝えられています。豊臣秀吉は、加藤清正と同郷出身の親せきということになります。

加藤清正が豊臣秀吉に仕えたのは1573年の頃。時期は豊臣秀吉が初めて近江長浜城主となった時期に重なります。

城主となればさらに家臣が必要。加藤清正は小姓として豊臣秀吉に仕えます。

加藤清正は福島正則と同様、勇猛な武将として知られています。

加藤清正を武将として有名にしたのは、1583年の賤ヶ岳の戦い。織田信長亡き後、織田家の後継争いで豊臣秀吉と柴田勝家が反目。

両者がぶつかったのが賤ヶ岳の戦いで、結果は豊臣秀吉の大勝利。この賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉の家臣として特に活躍の目立った7人が、賤ヶ岳七本槍として後世に名を残します。

加藤清正は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられています。

また、加藤清正の武将としての評価は朝鮮の役でも高まります。天下統一後、豊臣秀吉は明の国に目をつけ朝鮮半島への出兵を行います。

加藤清正も朝鮮に出兵、朝鮮の民衆に恐れられたと言われています。特に有名なのが虎退治ですが、どうやら加藤清正の虎退治はフィクションのようです。

実際の戦歴を見ると、加藤清正は先陣をきるような武将ではなく、むしろ兵站などに能力を発揮したと思われます。

加藤清正は、戦に弱かったわけではありませんが、それ以上の才能があった。

そのため戦い時は先陣よりも後方にいることが多く、また平時にあっては豊臣家の財務や民政に力を発揮したと考えられています。

また、加藤清正は築城の名人としても知られていました。有名なところでは、加藤清正の領地である熊本城、名古屋城など数々の築城を手掛けています。

1598年に豊臣秀吉が亡くなった後、1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に属します。

もっともこの時期、加藤清正は徳川家康の不興をかい謹慎中。

そのため、関ヶ原の戦いに参陣することなく、九州において小寺如水とともに九州にいた西軍の諸将と戦っていました。

関ヶ原の戦い後は、肥後国半国から肥後国全土の領有を認められ、52万石の大大名になります。

その後も、加藤清正は徳川家と豊臣家の融和に尽力をしますが、1611年に50歳の生涯を閉じます。

加藤清正についてはその死があまりにも急であったことから、病死ではなく徳川家による毒殺という噂もありますが真実は定かではありません。

ただ、加藤清正が亡くなって、僅か4年後に豊臣家が滅亡していることを考えると、死因はどうであれ、加藤清正の死が豊臣家滅亡を早めたという可能性は否定できないようです。

なお、加藤清正亡き後、三男の加藤忠広が後継となりましたが、理由ははっきりとしていないものの1632年には改易となっています。

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福島正則とは

福島正則が居城とした広島城広島城

福島正則は1561年に生まれ、1624年に亡くなります。

福島正則が生まれた場所は尾張国。福島正則の母は豊臣秀吉の母である大政所とは姉妹。

したがって、豊臣秀吉と従兄弟ということになります。血縁では、加藤清正よりも福島正則の方が豊臣秀吉に近かったようです。

福島正則が豊臣秀吉に仕えた時期は明確ではありませんが、加藤清正と同様に幼少時から豊臣秀吉の小姓となっています。

福島正則が有名になるのも加藤清正と同様に賤ヶ岳の戦い。

福島正則も他の6人とともに賤ヶ岳七本槍の一人に数えられますが、戦後、他の6人が3000石だったのに対して福島正則は5000石。

活躍が抜きんでていたことがわかります。

福島正則が加藤清正と異なるのは勇猛さ。

加藤清正の場合、賤ヶ岳の戦いはむしろ例外と言われていますが、福島正則は勇猛果敢な武将として知られていました。

福島正則の初陣は1578年。その後、豊臣秀吉が亡くなるまで、豊臣秀吉の有力武将として活躍しています。

豊臣秀吉亡き後の福島正則は徳川家との結びつきを深めていきます。

1600年の関ヶ原の戦いでは、いち早く徳川家康につくことを表明。この表明により、帰趨を決めかねていた諸将の多くが徳川家康の東軍につくことを決めたと言われています。

関ヶ原の戦いで、福島正則は西軍の有力武将宇喜多秀家と戦い撃破。戦後は広島藩として約50万石を与えられ大大名となります。

1614年から1615年にかけての大坂の陣では、豊臣秀頼に声をかけられるもこれを拒絶。福島正則と豊臣家の縁は完全に切れてしまいます。

ただ、徳川家康は福島正則の動きを警戒。福島正則は江戸留守居役を命じられ、大坂の陣に参加することはありませんでした。

福島正則はいち早く徳川方について大領を与えられましたが、基本的には豊臣恩顧の大名。そのため、福島正則の広島藩は2代将軍徳川秀忠により改易の憂き目にあいます。

このときは広島藩50万石を取り上げられるとともに、信州川中島に約5万石を与えられます。

しかし、その領地も福島正則の死とともに取り上げられ、その後、福島正則の子孫は3000石の旗本になります。

加藤清正・福島正則と石田三成の関係とは

関ヶ原古戦場関ヶ原

加藤清正と福島正則は同年代。

また、豊臣秀吉と縁戚関係にあり、豊臣秀吉に仕えたのも概ね同時期。加藤清正と福島正則はこうした経緯からとても仲が良かったと伝えられています。

ところで石田三成です。

石田三成は1560年の生まれ。加藤清正や福島正則とは年齢的に近い存在です。また、豊臣秀吉に仕えたのも近江長浜時代。仕えた時期も概ね同じころです。

石田三成は年齢的にも、豊臣秀吉に仕えた時期も近い。

加藤清正や福島正則と異なり豊臣秀吉と血縁関係にこそありませんが、豊臣秀吉子飼いの武将としての共通項はあります。

しかし、加藤清正や福島正則と、石田三成の仲は決してよくはなかった。むしろ犬猿の仲といっても過言ではなかったようです。

豊臣秀吉の子飼いとはいっても福島正則や加藤清正は尾張の出身。

一方、石田三成は近江の出身。

また、尾張出身の武将は武勇に優れていたが、一方近江出身の武将は経理に明るかった。

交通網の発達していなかった当時、同郷意識は今よりもはるかに強かったでしょうし、尾張派と近江派では武将としての肌合いも異なっていました。

そのため、尾張派と近江派は反目することが多かったと言われています。

また、石田三成の個性も大きく影響しています。

石田三成は原理原則を重んじる人物。しかも豊臣秀吉に対する忠誠心はことの他強いときてますから、各武将に瑕疵があれば遠慮なくそのことを豊臣秀吉に報告。

豊臣秀吉も石田三成を信用していてこの意見を重用。

加藤清正も福島正則も、石田三成の讒言で豊臣秀吉の怒りを買ってしまったことがあります。

こうした経緯から、加藤清正、福島正則と石田三成は犬猿の仲。

豊臣秀吉が在世中は問題も表面化しませんでしたが、死後、加藤清正、福島正則、黒田長政など、石田三成を憎く思っていた武将は石田三成を暗殺しようとします。

このときは徳川家康の仲介もあって、石田三成は近江佐和山に隠居することで一件落着しましたが、これが遠因となり関ヶ原の戦いが起こります。

加藤清正も福島正則も豊臣秀吉子飼いの武将。したがって豊臣家への忠誠心は決して弱かったわけではありません。

仮に関ヶ原の戦いの構図が、豊臣秀頼対徳川家康とはっきりとしていたら、加藤清正や福島正則が徳川家康につくことはなかったかもしれません。

ところが、当時の豊臣秀頼は僅か7歳。到底、一方の大将になり采配が振るえるような年齢ではありません。

加藤清正や福島正則から見たら、石田三成が豊臣家をいいように操っている。そう考えても不思議ではありません。

仮にそうでないとしても、石田三成を憎悪していた加藤清正や福島正則が、石田三成の味方をするはずもありません。

石田三成も加藤清正も福島正則も一廉の武将であることに違いはありませんが、結局は徳川家康が漁夫の利を得た。そのようにも思われます。

さいごに

加藤清正と福島正則には多くの共通点が見受けられますし、2人とも武将としてそれなりの実績も残しています。

しかし、豊臣秀吉や徳川家康とは比較のしようがないのも確かです。

加藤清正は、武勇だけでなくさまざまな方面で能力を発揮した人物ですが、関ヶ原の戦いでは遠くに追いやられていました。

一方、福島正則は武勇は優れてはいましたが、それ以外では思慮の浅さが目立つ武将であったことから、関ヶ原の戦いでは徳川家康に都合よく使われてしまった。

このあたりは当然異論もあるでしょうが個人的にはそのように感じています。

 

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