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豊臣政権の五大老と五大老を定めた理由
豊臣秀吉は1598年に亡くなりますが、死の直前に作ったのが五大老と五奉行の制度です。この記事では、その中で五大老について、ご紹介をしていきます。
まず、五大老とは誰だったのでしょうか。
五大老は、一般的には徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元の5人の大名とされています。
では、豊臣秀吉が五大老を定めたのには、どのような理由があったのでしょうか。
第一の理由は、豊臣政権の維持であったことは間違いのないところです。
豊臣秀吉は天下を統一しました。しかし、豊臣秀吉が亡くなった時の豊臣政権は不安定なものでした。
それは、1595年の豊臣秀次事件。2度にわたる無謀な朝鮮出兵。豊臣秀吉は天下を統一しましたが、天下統一後の豊臣秀吉は失政続き。
豊臣秀吉が亡くなるころの豊臣政権は決して万全とは言えませんでした。そして後継者である豊臣秀頼も、幼児で天下を治める力量はありませんでした。
また、豊臣秀吉は天下統一に際して、そのスピードアップを図るため、敵対する大名を滅ぼすのではなく懐柔を主としてきました。
後北条氏のように滅亡に追い込まれた大名もいましたが、豊臣政権に入り生き延びる大名もたくさんいました。
その代表が徳川家康です。
徳川家康は豊臣秀吉の家臣として生き残りを図りましたが、心から服従をしていたわけではありませんし、豊臣秀吉自身もそれは危惧していたはずです。
五大老の制度は、仮想敵である徳川家康を五大老の他の4人が抑え込む。徳川家康を抑え込むことで豊臣政権を安定させる。
五大老の制度は、豊臣秀吉が死の間際になって考えついた、豊臣政権の延命策。そうした性格が強かったようです。
では、次に五大老のその後について簡単にご案内をしていきます。
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前田利家
前田利家は、豊臣秀吉が織田信長に仕えたころからの同僚。わかりやすくいえば、そのようなところでしょうか。もっとも豊臣秀吉が織田信長に仕えた当時の立場は前田利家の方がはるかに上。立場はいつしか逆転しましたが、それでも豊臣秀吉と前田利家は終生の結びつきがあったようです。
豊臣秀吉が亡くなるとき、前田利家は加賀と越中で約100万石を領していました。
前田利家は1539年の生まれと言われています。対して豊臣秀吉は1537年の生まれ、徳川家康は1543年の生まれとされています。
豊臣秀吉との付き合いの深さ、年齢、そして石高と、豊臣秀吉が豊臣政権を維持するため、最も期待していたのが前田利家です。
豊臣秀吉亡き後、徳川家康はすぐさま豊臣秀吉在世中の決まり事を、確信犯的に破っていきます。
そして、それを非難したのが前田利家。
前田利家は豊臣秀吉の期待に応え、徳川家康をある程度は抑え込むことに成功します。
しかし、残念なことに前田利家は病死します。前田利家が病死をしたのは、豊臣秀吉が亡くなってわずか8か月後。
前田利家が亡くなったことで、その後の徳川家康はますます天下取りの野望を露わにします。
前田利家が存命だからこそ徳川家康も遠慮していました。
しかし、前田利家亡き後の前田家は単に100万石の大大名。徳川家康にとって前田家は敵ではありませんでした。
前田利家亡き後、正室の芳春院は徳川家の人質となり、後継者の前田利長は徳川家康に臣従します。
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宇喜多秀家
五大老の中で、もっとも数奇な運命を辿ったのが宇喜多秀家なのかもしれません。宇喜多秀家は1572年、策略家として有名な宇喜多直家の子として生まれます。
宇喜多直家は知謀あふれる武将として有名でしたが、治めていたのは織田氏と毛利氏の中間にあたる場所。
そのため、宇喜多氏は選択を余儀なくされ、最終的には織田氏につくことになります。
宇喜多秀家が家督を継いだのは1582年。
父である宇喜多直家の死によって、それは突然訪れましたが、当時の宇喜多秀家は少年。また、同じころに織田信長が本能寺の変で倒れたため、宇喜多秀家は豊臣秀吉に臣従します。
宇喜多秀家は豊臣秀吉から見れば外様大名の一人に過ぎませんでしたが、少年の頃から豊臣秀吉に臣従をしていたため、豊臣氏の譜代のような扱いを受けていました。
また、知行も約47万石で破格の扱いを受けていたことが分かります。
五大老の一人に任じられていた宇喜多秀家ですが、豊臣秀吉が亡くなったころは25歳の頃。
大国を与えられ、五大老の一人に任じられていたものの、実力は徳川家康や前田利家には遠く及びませんでした。
関ヶ原の戦いでは西軍の副大将に祭り上げられるも敗退。戦後は薩摩の島津氏にかくまわれるものの、1606年には捕縛されます。
既に宇喜多家は改易、宇喜多秀家も死罪になるはずでしたが、死罪ではなく八丈島に流罪。その後の長い人生を八丈島で流人として過ごすことになります。
宇喜多秀家が亡くなったのは1655年、享年84。
五大老の一人として歴史の表舞台に立った宇喜多秀家ですが、実際は流人としての生活の方がずっと長かったようです。
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上杉景勝
上杉景勝は1566年に生まれます。上杉景勝は上杉謙信の甥。また、上杉謙信の養子にもなっています。ただ、順調に上杉謙信の後継者になったわけではありません。上杉謙信が急死をしたとき、上杉謙信には2人の養子がいました。
一人が上杉景勝で、もう一人が関東の後北条氏から養子に入った上杉景虎です。
上杉謙信が亡くなり、上杉景勝と上杉景虎の間で後継者争いが始まります。
本来であれば、後北条氏を後ろ盾にしていた上杉景虎が有利なはずでしたが、上杉景勝は武田勝頼を味方に引き入れることに成功し、上杉景虎は自害に追い込まれます。
ようやく上杉謙信の後継者となった上杉景勝ですが、後継者になったとたんに織田信長の猛攻を受け、一時は上杉家の存続が危惧される状況でした。
この状況が変わったのが本能寺の変。本能寺の変で織田信長が倒れた後、台頭してきた豊臣秀吉に臣従をします。
上杉景勝は生き延びただけでなく、生まれ故郷の越後を離れることになったとはいえ、会津で120万石を領有する大大名になります。
豊臣秀吉が亡くなった後、天下をうかがう徳川家康に標的にされたのが上杉景勝。
1600年、徳川家康は会津征伐に乗り出します。上杉景勝と連絡を取り合っていた石田三成が大坂で挙兵。徳川家康は即座に西に向かい関ヶ原の戦いが起こります。
関ヶ原の戦いに直接は参加していなかった上杉景勝ですが、戦後は30万石に減じられたうえ米沢への転封を命じられます。
亡くなったのは1623年、享年69です。
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毛利輝元
毛利輝元は1553年に生まれます。毛利輝元はあの有名な毛利元就の孫。毛利輝元の父、毛利隆元が早くに亡くなったため、毛利輝元は僅か11歳で毛利家の後継者となります。
毛利輝元が当主となったころ、毛利氏は織田信長の猛攻を受けます。少しずつ領地を削り取られていった毛利氏ですが、やはり本能寺の変で状況は一変。
毛利氏は台頭してきた豊臣秀吉に臣従。最終的には中国地方で112万石を領有する大大名になります。
豊臣秀吉により豊臣政権で五大老の一人となった毛利輝元ですが、関ヶ原の戦いでは西軍につきます。
毛利輝元の役割は西軍の総大将。実質的に西軍を率いたのは石田三成ですが、石田三成が総大将ではまとまりがつかない。
そんなことから、毛利輝元は西軍の総大将に任じられ大坂城に入城します。
関ヶ原の戦いでも毛利輝元は大坂城にいて戦場には臨んでいません。そのため一時は徳川家康により本領安堵を申し渡されますが、最終的には減封。
約120万石から、周防と長門の2か国37万石に大減封となります。毛利輝元が亡くなったのは1625年、享年73と言われています。
徳川家康と他の4人の大老との関係とは
この記事では、豊臣政権の五大老のうち徳川家康以外の四人について簡単にご紹介してきました。
では、徳川家康と他の4人の大老との関係はどうだったのでしょうか。
豊臣政権で作られた五大老の制度。5人の大老は大大名であったという共通項目はあったものの、その来歴は千差万別でした。
徳川家康がもっとも恐れたのは前田利家です。
前田利家は徳川家康よりも年長で戦場での武功も輝かしいものがあります。また、豊臣秀吉とは若いころからの知己で人望もありました。
仮に前田利家に天下取りの野望があったとしたら、徳川家康にとっても大きなライバルになったものと思われます。
しかし、前田利家は豊臣秀吉の後を追うように亡くなり、天下取りをうかがっていた徳川家康に大きなチャンスが転がり込みます。
実際にこの後の徳川家康はさまざまな策略を用いて関ヶ原の戦いを引き起こそうとします。前田利家がもう少し長生きをしていれば、天下の様相も変わっていたのかもしれません。
宇喜多秀家は豊臣家から譜代のような扱いを受けていました。もしかしたら徳川家康にとって、とても目障りな存在になり得たのかもしれません。
しかし、宇喜多家は他の大老と比較したら石高が少なく、当主の宇喜多秀家も若年。五大老の中でも関ヶ原の戦いで実際に活躍したのは宇喜多秀家ですが、ただそれだけのこと。
徳川家康と比較したら、存在感は圧倒的に違っていたとしか言いようがないのかもしれません。
上杉景勝は会津の大大名です。
もっとも、徳川家康とは比べようもないですし、その力量も叔父である上杉謙信とは大違い。また、上杉家の周囲は親徳川で固められてもいました。
ただ、徳川家康からみて上杉景勝には大きな利用価値がありました。それは上杉景勝を仮想敵とみなすことで、大坂の石田三成に戦いを引き起こさせるというものです。
上杉景勝は、徳川家康の天下取りの道具にされてしまっていたのかもしれません。
毛利輝元は凡庸で知られていました。そのため、深く考える事もなく石田三成の誘いに応じて、西軍の総大将になってしまいました。
毛利家の総意は必ずしも西軍に味方するということではなかったようですが、実際に毛利輝元は大坂城に入城。
しかも総大将でありながら戦場とは遠く離れた大坂城で戦況を眺めていただけに過ぎませんでした。
さらには徳川家康に本領安堵と言い渡されていながら、実際には大減封。毛利輝元は徳川家康にいいように操られていた。そんな感があります。
豊臣政権の五大老とはいっても、五大老の制度が出来たのは豊臣秀吉が亡くなる直前のことです。
また豊臣秀吉が亡くなったころから、徳川家康は専横を極め、実際に五大老の制度はほとんど効力を示すことができませんでした。
徳川家康が唯一恐れていたのが前田利家。その前田利家もすぐに亡くなくったことで、徳川家康以外の三大老は徳川家康にいいように操られていきます。
徳川家康にとって前田利家以外の三人の大老は、まさに徳川家康の天下取りの手伝いをしてしまった。
言いすぎかもしれませんが、そんな風にも思われます。
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