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徳川家康と豊臣秀吉の戦いが2人の関係を決定づけた!

小牧長久手の戦いの舞台となった小牧山
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徳川家康と豊臣秀吉の戦いとは

徳川家康と豊臣秀吉が直接対決をしたのは、1584年の小牧長久手の戦いです。

小牧長久手の戦いが、その後の徳川家康と豊臣秀吉の関係を決定づけたのは間違いありません。

この記事では、小牧長久手の戦いの前、戦いの内容、そして戦いが終わって以降の2人の関係をお伝えしていきます。

なお、徳川家康も豊臣秀吉も生涯で何回か名前を変えていますが、ここでは徳川家康・豊臣秀吉に統一して書き進めていきます。

 
生没年改名の履歴(主なもの)
豊臣秀吉1537年~1598年木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉 → 豊臣秀吉
徳川家康1543年~1616年松平竹千代→ 松平元信 → 松平元康 → 徳川家康

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徳川家康と豊臣秀吉の関係1 小牧長久手の戦いの前

小牧長久手の戦い前の、徳川家康と豊臣秀吉の関係はどのようなものだったのでしょうか。

徳川家康と豊臣秀吉の関係は織田信長を介して生まれています。

徳川家康は1560年の桶狭間の戦いまで、今川氏の人質として駿府に住んでいました。

今川義元が討死した後、本来の居城の岡崎城に戻り独立の機運を高め、1561年には今川氏を離れ清洲同盟で織田信長と和睦をしています。

一方、豊臣秀吉が織田信長に仕えたのは1554年。

織田信長と接点を持ったのは豊臣秀吉が先ですが、織田信長と徳川家康の関係は同盟者であったのに対して、豊臣秀吉の最初の役割は「小物」。

織田信長と豊臣秀吉は主従。しかも、豊臣秀吉は最下層の家来から出発しています。

徳川家康と豊臣秀吉は立場に大きな違いがあったため、この頃の接点はなかったものと考えられます。

徳川家康と豊臣秀吉の関係がうかがい知れるのは、1570年の金ヶ崎の戦いです。

既に、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、足利義昭は室町幕府の第15代将軍になっています。

当初は織田信長に感謝していた足利義昭ですが、自らが傀儡に過ぎないことを悟り、織田信長討伐を画策します。

それに呼応した武将の一人が越前国の朝倉義景で、織田信長は朝倉義景討伐に向かいます。

戦力的には織田軍が圧倒的に有利でしたが、織田信長の妹お市の方を正室に迎えていた浅井長政が裏切り、朝倉氏と浅井氏が織田軍を挟み撃ち。

織田信長は戦場を離脱することを考えますが、それを支援するしんがりが必要。この時、しんがりの役を果たしたのが、徳川家康と豊臣秀吉であったと言われています。

この金ヶ崎の戦いで、徳川家康と豊臣秀吉の関係が生まれたとも考えられますが、しんがりを務めたのは他の武将という意見もあるようです。

徳川家康は織田信長の同盟者。

豊臣秀吉は織田信長の家臣という立場でしたが、豊臣秀吉はどんどんと出世を果たし、織田家の中でも重要な地位を担うようになります。

お互いの立場が近づいてきたので、二人の関係も深くなっていった可能性もありますが、実際に二人の接点はほとんどなかったのではないでしょうか。

徳川家康が治めていたのは三河国ですが、今川氏衰退に伴い遠江国に進出していきます。

豊臣秀吉は織田家の軍団長の一人として、中国地方に進出します。

京の地から見たら、徳川家康が主に活躍したのは東、豊臣秀吉は西です。

そのようなことを考えると、徳川家康と豊臣秀吉の直接的な関係はほとんどなかったものと考えられます。

さて、1582年に明智光秀が織田信長を討ち果たした本能寺の変が起こります。

この時、豊臣秀吉は中国地方で毛利氏との戦いをしていましたが、和睦の上、山崎の戦いで明智光秀を撃破。

その後、行われた織田信長の後継者を決める清須会議では主導権を握ります。

織田家でもっとも力を持っていた宿老は柴田勝家ですが、柴田勝家と豊臣秀吉は深刻な対立関係に陥り、1581年の賤ヶ岳の戦いで直接対決。

豊臣秀吉は柴田勝家を破り、さらに織田信長の三男織田信孝を自害に追い込みます。

宿敵の柴田勝家や、豊臣秀吉に敵意を抱いていた織田信孝を葬った豊臣秀吉が次に標的にしたのが織田信長次男の織田信雄。

もっとも織田信雄だけでは豊臣秀吉に対抗することはできず、そこで頼ったのが徳川家康です。

本能寺の変後の徳川家康は、織田家の内紛を避け、本能寺の変直前に滅亡した武田家が治めていた甲斐国に進出して勢力を拡大していました。

織田信雄の願いを受けた徳川家康は、織田信長の同盟者として、織田信長の遺児に刃を向ける豊臣秀吉を討つという大義名分を掲げて、対決を決心します。

その結果、起こったのが1584年の小牧長久手の戦いです。

 
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徳川家康と豊臣秀吉の関係2 小牧長久手の戦い

小牧長久手の戦いは、徳川家康と豊臣秀吉が直接にぶつかり合った唯一の戦いと言われています。

小牧長久手の戦いの期間は約8か月。豊臣秀吉は10万人、徳川家康と織田信雄の連合軍は3万人と言われています。

期間も長く、両軍の軍勢が多かったのにもかかわらず、小牧長久手の戦いで行われたのは局地戦が中心で、大軍同士が直接にぶつかりう戦闘はありませんでした。

その後、豊臣秀吉は織田信雄の懐柔に乗り出し、誘いに乗った織田信雄は徳川家康に相談することもなく豊臣秀吉と和睦。

徳川家康も大義名分を失い、小牧長久手の戦いは終わります。

小牧長久手の戦いで行われた局地戦では、織田・徳川連合軍がむしろ有利と言われていました。

しかし、豊臣秀吉は織田信雄の懐柔に成功し、小牧長久手の戦いを終結。その後の豊臣秀吉は急速な勢いで天下取りにまい進していきます。

小牧長久手の戦いは、戦術面では徳川家康の勝利、戦略面では豊臣秀吉の勝利とも言われています。

そして戦略面での勝利で、徳川家康と豊臣秀吉の関係は、主従への関係へと変わっていきます。

徳川家康と豊臣秀吉の関係3 小牧長久手の戦い後

小牧長久手の戦いは不思議な形で終結したものの、豊臣秀吉が和睦したのは織田信雄で、徳川家康とは引き続き対立関係にありました。

豊臣秀吉は、織田信長でさえ成しえなかった天下統一を進め、その途上の1586年には関白に任じられ豊臣政権を樹立します。

そこで豊臣秀吉が考えたのは徳川家の分断です。

徳川家康と豊臣秀吉は敵対という状況に変化はなかったものの、直接戦うわけではなく、外交交渉が行われていました。

徳川家で窓口になったのは、徳川家重臣で主に対外交渉を担っていた石川数正です。

しかし、この交渉の過程で石川数正は懐柔され、1585年になると徳川家を離れ豊臣秀吉の元に出奔します。

石川数正は徳川家の機密情報を握る人物だったため、徳川家康は軍制を始め多くの変更を余儀なくされたと言われています。

石川数正出奔は、徳川家康と豊臣秀吉の関係を一層悪化させた可能性もありますが、豊臣秀吉にとって徳川家康は最大の敵。

そのため戦いで決着をつけるのではなく、織田信雄を使って懐柔に乗り出します。

具体的に行ったのが1586年の朝日姫の婚姻。朝日姫は豊臣秀吉の実妹で既に他家に嫁いでいましたが、離縁させ徳川家康に再嫁させます。

築山殿を亡くして以降、正室を置いていなかった徳川家康も、これは受け入れざるを得ませんでした。

それでも、徳川家康が靡いてこないのを悟った豊臣秀吉は、次に実母の大政所を朝日姫の見舞いと称して徳川家康の元に送り込みます。

ここに至って覚悟を決めた徳川家康は上洛。

大坂に到着した徳川家康の元に突如訪れたのが豊臣秀吉です。

徳川家康と豊臣秀吉はまだ正式な面会は行っていませんが、正式な面会で主従関係を確立させたい豊臣秀吉は、その前に徳川家康と会い、会談で主従関係が周囲にも分かるような対応をとることを求めます。

大阪に向かう時点で覚悟を決めていた徳川家康に否応はありません。翌日の正式な面会で、豊臣秀吉が主、徳川家康が従であることを態度で示しています。

その後の、徳川家康は豊臣秀吉の家臣というような立場での活動を行います。

1590年の小田原征伐では、徳川家康も戦いに加わっています。

1592年の朝鮮出兵では渡海はしなかったものの、九州の名護屋城まで出兵しています。

1595年の豊臣秀次事件では、当然のことながら豊臣秀吉に従っています。

徳川家康は1590年の小田原征伐後、それまでの三河・遠江・駿河を中心とした約120万石の大名から、小田原征伐で滅亡した北条氏の旧領約250万石への移封を命じられています。

そのため新しい領地の経営に忙殺される状況で、常に豊臣秀吉の元にいたわけではありません。

しかし「律義者」とも言われた徳川家康は、基本的には豊臣秀吉の意に沿った行動を取り続けています。

一方の豊臣秀吉も、自分の家臣という立場で従ってくる徳川家康を無碍にすることもできません。

関東への移封は、最も強大な敵と成り得る徳川家康を遠くに追いやったと考えることもできますが、大幅な加増であることは間違いありません。

また、臣従後は徳川家康の官位をどんどんあげています。

徳川家康と豊臣秀吉の関係は、緊張感がありながらも良好であったと考えられます。

1598年、豊臣秀吉は病床に臥します。

豊臣秀吉が考えていたのは、この時点でまだ4歳に過ぎなかった豊臣秀頼を後継者とし、豊臣家を従来のままに存続させることでした。

そこで豊臣秀吉が行ったのが、五大老・五奉行の設置で、徳川家康は五代老の筆頭に目されています。

豊臣秀吉にとって、最も信頼できるたのは同じく五大老に任じられた前田利家かもしれません。

しかし、それまでの実績は徳川家康の方がはるかに大きく、石高も徳川家康が豊臣家家臣の中では最大を誇っています。

豊臣秀吉が徳川家康を律義者と見込んで後を託したのか、それとも油断はできないながらも他に頼むに足る人物がいなかったので、やむを得ず後を託したのかは分かりませんが、その後すぐに豊臣秀吉は生涯を閉じています。

 
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さいごに

この記事では、「徳川家康と豊臣秀吉の戦いがその後の2人の関係を決定づけた」をテーマに時系列で2人の関係をお伝えしてきました。

徳川家康と豊臣秀吉の2人に、直接的に深い関係が生まれたのは1584年の小牧長久手の戦いです。

徳川家康と豊臣秀吉の関係は、小牧長久手の戦い終結後もしばらくは敵対関係にありました。

その敵対関係が劇的に変わったのが1586年の正式な対面で、この時から1598年に豊臣秀吉が亡くなるまで主従の関係が壊れることなく続いています。

しかし豊臣秀吉が亡くなった2年後、1600年の関ケ原の戦いで徳川家と豊臣家の立場は大きく変質。

主従関係は約12年も続いていますが、もしかしたら相当の緊張関係の上に築かれた関係だったのかもしれないですね。

 
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