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西郷隆盛の銅像が上野にあるのはなぜでしょうか

はじめに

日本で一番有名な銅像。

それは上野にある西郷隆盛の銅像ではないでしょうか。

ところで、西郷隆盛の銅像はなぜ上野にあるのでしょうか。

その「なぜ」に応える理由は必ずしも明確ではありません。

そこで、この記事では西郷隆盛の銅像が上野にあるのはなぜなのかについての理由を探り、お伝えをしていきます。

西郷隆盛とは

まず、西郷隆盛のことからお伝えしていきます。

西郷隆盛は、江戸時代末期の1828年に生まれます。

生まれたのは薩摩藩(現在の鹿児島県)。身分は高くありませんでしたが、ときの薩摩藩主である島津斉彬に見いだされ、活躍の場を広げていきます。

そして、倒幕に際しては中心的な役割を担い、大久保利通や木戸孝允とともに明治維新三傑の一人に数えられています。

しかし、明治になり運命は暗転。

大久保利通との意見の相違などから明治政府と距離を置くようになり、さらに1877年には西南戦争の中心人物となっています。

そして、政府軍に敗れ、最期は薩摩の城山でその生涯を閉じています。

西郷隆盛は明治政府を作った立役者の一人でしたが、西南戦争ではその明治政府に敵対をしています。そのため、戦後は賊軍の将として扱われます。

その後、1889年には大日本帝国憲法が発布。憲法の発布を記念して西郷隆盛は大赦の対象となり、名誉を回復しています。

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上野にある西郷隆盛の銅像とは

ところで、1898年に造られた上野の西郷隆盛の銅像は、前述の大赦が大きく影響していると考えられています。

明治新政府の首都は東京。東京に賊軍の将の銅像を建てるのは不可能です。

東京に西郷隆盛の銅像があるのは、1889年の大赦により西郷隆盛の名誉が回復されたから。そして西郷隆盛が多くの人々に愛されていたからと考えられます。

西郷隆盛の銅像が上野にあるのはなぜ

西郷隆盛の銅像が上野にあるのはなぜなのでしょうか。

西郷隆盛の銅像が上野でなければならないという必然性はありません。

たとえば、明治維新三傑の一人である大久保利通の碑は紀尾井町(現在の東京都千代田区)にあります。その理由は、大久保利通がこの地で暗殺をされたからです。

また、戊辰戦争に際して官軍に抵抗をした彰義隊を1日で破った大村益次郎の像は靖国神社にあります。その理由は、大村益次郎は日本陸軍の礎を作った人物だからです。

ところが、西郷隆盛と上野を直接的に結び付けるものはありません。

確かに上野に籠っていた彰義隊の掃討を命じたのは西郷隆盛かもしれませんが、その戦略を練ったのは大村益次郎です。

仮に上野に銅像を造るのであれば、西郷隆盛よりも彰義隊を上野の山に閉じ込めて、たった1日で打ち破った大村益次郎こそ、しかるべき人物と思われます。

西郷隆盛が名誉を回復したことで、銅像を作ろうという機運が盛り上がるのは、おかしくはありません。

でも、その銅像が上野でなければいけないという理由はありません。

では、なぜ西郷隆盛の銅像が上野にあるのでしょうか。

これについては、次のような理由によるものと言われています。

それは上野が東京の「鬼門」に当たるというものです。

※ 鬼門は鬼が出入りする場所ということで忌むべき場所とされるものです。方位では北東に当たります。

元々、上野には寛永寺がありました。

しかし、寛永寺に彰義隊がたてこもり、これを大村益次郎率いる官軍が攻撃したことで、寛永寺は焼失してしまいます。

寛永寺がなくなったことで鬼門には魔よけとすべきものがなくなってしまった。

そこで設けられたのが、西郷隆盛の銅像です。

なぜ、西郷隆盛の銅像が鬼門に設けられたのでしょうか。

過去の歴史を振り返ってみると、日本で代表的な怨霊と言われた人物に菅原道真がいます。

菅原道真は藤原氏の陰謀によって太宰府に左遷。失意のまま、太宰府で亡くなります。亡くなった後の菅原道真は怨霊になって祟りをもたらします。

しかし、菅原道真の祟りを恐れた朝廷は、後に菅原道真の名誉を回復させるとともに、丁重に祀るようになります。

そのため現在の菅原道真は、怨霊ではなく「学問の神様」として親しまれています。

上野にある西郷隆盛の像も、この故事を踏襲したものと考えられています。

西郷隆盛は一時期逆賊になりましたが、後には名誉を回復。

名誉を回復されなければ西郷隆盛は怨霊となる可能性もありましたが、名誉が回復されることで東京の守護をしてくれる御霊となった。

そのため、東京にとっては鬼門にあたる上野に西郷隆盛の銅像を作ったというものです。

この説に従えば、江戸時代に江戸の鬼門にあった寛永寺が、明治になり西郷隆盛の銅像に代わったということになります。

もっとも、近代国家を目指す明治政府が公式に鬼門のことを言うわけにはいきません。

上野の西郷隆盛の銅像については国からも資金がでていますが、基本的には全国から集めた寄付金によりつくられています。

その資金を提供した人々の意志により、西郷隆盛の銅像が鬼門にあたる上野に置かれたということになっています。

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さいごに


 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、西郷隆盛の銅像が上野にあるのはなぜなのかについて、ご案内をしてきました。

なかには西郷隆盛の銅像が上野にあるのは、官軍が旧幕府軍である彰義隊を上野の山に押し込んで1日で殲滅させた。

つまり、官軍が戦勝を記念すべき土地に、当時の官軍の代表的人物である西郷隆盛の銅像を作った。

このような意見もあるようです。

もっとも、この意見を採用するならば、前述のとおり西郷隆盛よりも大村益次郎の方がふさわしいと思われます。

また、西郷隆盛の銅像が上野にあるのが官軍の戦勝記念であるならば、西郷隆盛は軍装であるべきです。

しかし、上野の西郷隆盛の銅像は、着物を着て犬を連れたのんびりとした姿です。

西郷隆盛の銅像が上野にあるのはなぜなのかについては明治政府の戦勝記念。

あるいは、上野の山という限られた場所だけで戦闘を行い、江戸を戦火から救った西郷隆盛は東京にとっての恩人。

だから西郷隆盛の銅像を上野に設置した。こうした意見のすべてを否定することはできません。

ただ、それでは着物を着て犬を連れたのんびりとした姿の理由を説明するのは困難な気がします。

戦勝記念などのすべてを否定することはできないとしても、やはり古来からの人々の信仰の方が、理由としてはわかりやすいようにも思われます。

「上野の西郷さん」は今でも多くの人に親しまれています。その最大の理由は、着物を着て犬を連れたのんびりとした姿にあるのではないでしょうか。

着物姿の西郷隆盛の銅像が、いつまでも上野にあることを願っています。


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