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はじめに
この記事では、豊臣秀長の評価と逸話についてお伝えします。ところで、歴史には「たられば」はないと言われています。確かにそのとおりで、過去の事実は変えることはできません。
それでも「たられば」で語られる人物は確実に存在します。その一人が豊臣秀長です。
「豊臣秀長がもっと長生きをしていれば、豊臣家が滅亡することも、徳川幕府ができることもなかった。」こうしたことを語る人は多いようです。
この記事では、そんな豊臣秀長の評価と逸話についてお伝えしていきます。
豊臣秀長とは
豊臣秀長は1540年に生まれ、1591年に亡くなります。当時としては決して短命とも言えませんが、それでも豊臣秀長の世間での評価や置かれた立場を考えると、あまりにも早すぎた死と言えそうです。
豊臣秀長は豊臣秀吉の弟で、1537年生まれと言われる豊臣秀吉より3歳年下になります。
もっとも、豊臣秀吉は早いうちから実家を飛び出し武士になるために流浪。幼いころの面識はそれほどないと考えられています。
豊臣秀吉が織田信長に仕え立身出世を始めるとともに豊臣秀吉と豊臣秀長は接近。徒手空拳で出世をする豊臣秀吉には生まれながらの家臣は存在しません。
そのため、どうしても家臣が欲しかった豊臣秀吉は、まず弟の豊臣秀長を自らの家来にしようとします。
豊臣秀長は元々は百姓として身を立てていました。豊臣秀吉は貧乏な生活を嫌い武士になろうとしたのに対して、豊臣秀長にそうした野心はなかったと考えられています。
豊臣秀長は当初武士になることを嫌ったとも言われていますが、結果的には豊臣秀吉の家臣として仕えるようになります。
しかし、豊臣秀吉の家臣となった豊臣秀長は思いの他、武士としての才能を発揮するようになります。
そもそも豊臣秀長には、温厚篤実、真面目、寛容などという評価が定着していました。
これは異能ぶりを発揮する兄の豊臣秀吉と対比する形で語られる評価なのかもしれませんが、豊臣秀長は多くの人に好かれる素質を持っていたようです。
ただ、豊臣秀長についてはそうした人格面の評価だけが高かったわけではありませんでした。
来歴を考えたら、豊臣秀長に武将として何かを学んできたというのは考えづらいところです。でも実際のところ豊臣秀長は武将としての能力を早くから発揮しているようです。
豊臣秀吉は織田信長の元で順調に出世を果たしていきます。
それは、織田信長の豊臣秀吉に対する評価が高かったから。その豊臣秀吉の評価の高まりに大きく貢献をしていたのが豊臣秀長と言われています。
豊臣秀吉が初めて城持ちとなったのは近江長浜時代。
この時代から豊臣秀長は城代を務めることもあったようですし、出陣する際は一つの方面を任されることも多かったようです。
豊臣秀吉の参謀といえば黒田官兵衛が有名ですが、黒田官兵衛と共に豊臣秀吉の右腕として語られることも多かった。それが豊臣秀長です。
そうした軍功の数々で豊臣秀長は豊臣秀吉が天下人になるのに伴い出世。最終的には大納言となり、その領地は110万石に及びます。
これだけでも豊臣秀吉の信任がとりわけ厚かったことがわかりますが、与えられた領地は大和、紀伊、河内。
豊臣家の本拠地は大坂ですが、豊臣秀長は大坂に近接する地の大大名となった。
豊臣秀吉は豊臣秀長を特に高く評価し、信任もしていた。それが豊臣秀長の領地や石高、そして官位に表れています。
しかし、そんな豊臣秀長も病魔には勝てませんでした。豊臣秀長が体調を崩したのは1589年の小田原征伐の頃。
豊臣秀長は小田原征伐に参加をしていませんが、この頃から病魔に侵されたと考えられており、その2年後には惜しまれつつ50年の生涯を閉じています。
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豊臣秀長の逸話
これだけ有名な武将でありながら、豊臣秀長にはそれほど多くの逸話は残されていないようです。
それは有能でありながら、常に豊臣秀吉の陰に隠れようとしていたためでしょうか。
有名なところでは、豊臣秀長が豊臣秀吉に仕えて間もないころ、同じく豊臣秀吉の家臣となっていた蜂須賀小六に語った言葉が知られています。
「私(豊臣秀長)は、兄(豊臣秀吉)に言われ、鍬を槍に持ち替えた者。本来であれば田畑を耕し一生を終えたはずの者である。」そんなことを語ったと言われています。
このことは、武士になったのは本意ではないと語ったと考えられますし、武士にはなったけれど蜂須賀小六ほど自分は有能ではないとへりくだった言い方とも考えられます。
何れにしても豊臣秀長の謙虚さや篤実さが、この逸話からも感じることが出来るのではないでしょうか。
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さいごに
豊臣秀長は、兄の豊臣秀吉とは異なる意味で評価の高い人物として知られています。
冒頭に記したように「豊臣秀長がもっと長生きをしていれば、豊臣家が滅亡することも、徳川幕府ができることはなかった。」と考える人は多いようです。
それはまったく根拠のない話ではなく、豊臣秀長亡き後に豊臣家に起こった出来事を考えれば、肯ける話とも言えそうです。
豊臣秀吉は天下取りを果たした人物。一時は絶頂の極みにありました。
しかし、その絶頂は決して長続きをしませんでした。そして、その端緒は豊臣秀長の死にあったとも考えられています。
では、豊臣秀長が亡くなった後の豊臣家の出来事を時系列で簡単に記してみたいと思います。
1591年2月 | 豊臣秀長死去 |
1591年4月 | 豊臣秀吉が千利休に切腹を命じる |
1591年9月 | 豊臣秀吉の後継者である鶴松が病死 |
1592年8月 | 豊臣秀吉の母の大政所死去 |
また、天下を取った後の豊臣秀吉は、鶴松亡き後は甥の豊臣秀次を後継者と定めるものの、豊臣秀頼が誕生するとともにこれを放逐。
豊臣秀次を切腹に追い込むだけでなく、その妻や子などを虐殺します。
さらには、無謀な朝鮮出兵を重ね、多くの人の恨みを買った上に死去。
1598年に豊臣秀吉が亡くなった後は、1600年の関ヶ原の戦いを経て、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡してしまいます。
豊臣秀長は武将としての評価が高かったばかりでなく、人としての評価も高く人望も厚かった。
豊臣家滅亡の遠因となったのは1600年の関ヶ原の戦いですが、関ヶ原の戦いは石田三成と石田三成の専横を嫌った福島正則、加藤清正、細川忠興、黒田長政との対立と考える事もできます。
仮に豊臣秀長が健在であったなら。
豊臣秀長は石田三成の専横を許すことはなかったでしょうし、石田三成と諸将の対立も際立って表面化することもなかった。
さらに言えば、豊臣秀長が健在であったなら、関ヶ原の戦いはなかったし、徳川家康も天下取りの野望を示すこともできなかった。このように考える人も多いようです。
豊臣秀長が、豊臣秀吉よりも年長であったなら仕方がなかったかもしれません。しかし、豊臣秀長は豊臣秀吉の弟。それだけに豊臣秀長の死を悼む声は当時も今でもある。
やはり豊臣秀長は豊臣秀吉とは異なる意味で評価の高い人物であったようです。
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