>
日本史 PR

今川義元と徳川家康の関係とは!戦国大名の不思議な交わり

徳川家康の幼少期の竹千代像
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

はじめに

この記事では、今川義元と徳川家康の関係についてお伝えします。

今川義元は、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた武将として有名。

徳川家康は、江戸幕府の初代将軍としてあまりにも有名です。

では、今川義元と徳川家康はどのような関係だったのでしょうか。

今川義元はどんな武将だったの

今川義元は最期があまりにもあっけなかった。そのため暗愚な武将という評価もありますが果たしてどうでしょうか。

今川義元は、1519年に生まれ1560年に亡くなります。

最期は桶狭間の戦いで、織田信長の家臣に討ち取られてしまいます。(享年42)

当時は今よりも平均寿命がはるかに短かったとはいえ働き盛り。

歴史に「IF」はありませんが、今川義元が織田信長に敗れていなければ、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

今川義元は、駿河の守護大名今川氏親の子。もっとも今川義元は五男であったため後継者ではなく、幼いころに仏門に入り京都で修業をしてました。

ところが、父の今川氏親が亡くなり、兄たちも亡くなったことで、一族の間に紛争があったものの、最後は還俗して今川義元と名乗るようになります。

今川義元が今川家を継いだころは戦国時代の真っただ中。

そのため、今川義元は近隣の武田氏や北条氏と抗争を繰り広げますが、1554年には武田氏と北条氏と今川氏で三国同盟が締結されます。

また、その前年の1553年には今川氏にとっての法律「今川仮名目録」を定め、守護大名からの脱却を明確にしています。

今川義元が、今川家の当主となったのが1536年頃。

今川義元は今川家を継ぎ20年弱で、守護大名から戦国大名への脱皮を図ることになります。

室町幕府においては、領国統治は守護大名が行っていました。しかし、応仁の乱が起こり戦国時代になると、守護大名に代わり戦国大名が実質的な権力を握ります。

守護大名から戦国大名に脱皮を図った武将もいますがそれは僅か。多くの守護大名は勢力を失っていきます。

そのことを考えると、今川義元は暗愚などではなく、才能豊かな武将であったことがわかります。

今川氏にとって北条氏は東。武田氏は北に当たります。今川義元の最終的な目的は上洛であったと考えられていますが、京は西。

その西にいたのが、織田信秀とその子織田信長。そして、今川氏と織田氏に挟まれていたのが小国三河の徳川氏です。

織田信秀は守護大名の出身ではなく、守護大名の下にいる守護代、さらにその守護代の家臣にすぎない存在でした。

それが頭角を現し、今川氏と争う戦国大名にのし上がってきます。

織田信秀と今川義元は常に敵対関係。武田氏や北条氏のように、同盟関係になれる存在ではなかったようです。

そのため、織田氏と今川氏は常に緊張状態にありましたが、実際の戦場になるのが駿河と尾張の間にある三河。

三河の地は戦場になることも多かった土地ですが、合わせてそこの領主である松平氏(のちの徳川氏)は、常にどちらかへの帰趨を考えなければいけない立場でした。

徳川家康の父は松平広忠です。

松平広忠は今川義元への帰属を図り、その証として嫡男である竹千代(のちの徳川家康)を今川氏に人質に出します。

竹千代は今川氏の元に人質に出されるはずでしたが、松平広忠の家臣の裏切りに会い、織田信秀の人質になってしまいます。

このとき織田信長と徳川家康に、最初の接点が生まれたと考えられていますが、その後、竹千代は改めて今川義元の人質になり駿府で過ごすことになります。

 
■合わせて読みたい

スポンサーリンク


今川義元と徳川家康の関係 人質時代

徳川家康が生まれたのは1542年。徳川家康が織田氏の人質になったのは、4歳の頃と言われています。

そして6歳の頃、織田氏と今川氏の人質交換で、徳川家康は今川氏の人質になります。

また、この頃には父の松平広忠が家臣に殺害され、三河国は主のいない国になり、松平氏の居城の岡崎城には今川氏から城代が派遣されます。

徳川家康の生殺与奪は、今川義元に握られていました。

極端なことをいえば、今川義元は徳川家康を亡きものとして、三河国を直接に支配することも可能でした。

しかし三河国の武士、いわゆる三河武士は屈強で知られていたので、徳川家康を殺してしまうよりも、生かしておいた方が三河武士を有効に活用できる。

今川義元がそのように考えたのかどうかは定かではありませんが、徳川家康は人質でありながらも、今川義元の元で文武両道に励むことができたようです。

1555年、竹千代は今川氏の元で元服し松平元信を名乗ります。元信の「元」の字は、今川義元より一字を賜ったものと言われています。

また、このとき今川義元の命により、関口親永の娘である瀬名(のちの築山殿)を正室に迎えます。

瀬名は今川義元の姪。つまり今川義元と徳川家康は、この時点で縁戚関係となります。

今川義元と徳川家康は「人質」という関係で結ばれています。

その関係に変化はなかったものの、徳川家康は人質でありながらも、今川義元の元でその才能を発揮しつつあったようです。

なお、松平元信はその後松平元康と名を改めています。元康の「康」の字は、祖父の松平清康から一字を受け継いだと考えられています。

 
■合わせて読みたい

スポンサーリンク


今川義元と徳川家康の関係 桶狭間の戦い

1560年、桶狭間の戦いが起こります。

桶狭間の戦いは、今川義元が織田信長に仕掛けた戦いで、徳川家康はこの戦いで今川氏の先鋒を任せられます。

徳川家康は今川氏の一翼として戦功をあげるものの、総大将の今川義元が討死。戦いは織田氏の圧勝に終わるとともに、今川義元と徳川家康の関係もここで途切れます。

桶狭間の戦い後、徳川家康は松平氏の居城である岡崎城に戻ります。

本来、岡崎城には今川氏の城代がいるはずでしたが、今川義元の討死を知った城代は城を退散。

岡崎城には誰もいなかったことから、徳川家康は岡崎城に入城。

1561年には、今川氏の領地に侵攻し今川氏との決別を明確にし、1562年には今川氏の宿敵であった織田信長と清州同盟を結びます。

そして、1563年には松平元康の「元」の字を捨て、今川義元との決別を宣言。

改めて松平家康と名乗るようになります。

なお、松平家康が徳川に改姓したのは1566年。その後は徳川家康として生涯を送ります。

 
■合わせて読みたい

さいごに

徳川家康が居城とした岡崎城岡崎城

徳川家康は、戦国時代を完全な終結に導き江戸幕府を開きます。

徳川家康は豊臣秀吉とは異なり元々が武家の出身です。そのことだけを考えたら、スタートは豊臣秀吉より恵まれていたのかもしれません。

でも実際は、今川義元の人質として幼少期から青年期を過ごしています。

人質としての徳川家康は文武に励むことが出来たようですが、あくまでも人質。

生殺与奪の権は今川義元に握られていたことは間違いのないことで、少なくとも精神的には追い込まれた日を過ごしていたとも考える事もできます。

徳川家康は、今川義元の元で人質生活を送っていた。

そのことが、徳川家康の人格形成に大きな影響を及ぼしていたことは間違いのないでしょうが、徳川家康は今川義元のことをどのように思っていたのか。

そのあたりは永遠の謎なのかもしれないですね。

 
■合わせて読みたい

こちらの記事もお読みください