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寺田屋事件とは何かをわかりやすくご案内します【薩摩藩】

はじめに

この記事では、寺田屋事件とは何かをわかりやすくご案内します。

ところで、寺田屋事件は2つあります。

一つは、1862年に起こった寺田屋事件。もう一つは、1866年の寺田屋事件です。

寺田屋は現在の京都府伏見区に存在していた旅館です。

2つの寺田屋事件は、この寺田屋を舞台にした事件で、時代も幕末という共通項もあります。

ただし、1862年に起こった寺田屋事件は、いわゆる薩摩藩の内部抗争。

1866年の寺田屋事件は、坂本龍馬が襲撃をされた事件で、2つの寺田屋事件はまったく別の事件になります。

この記事では、前者の寺田屋事件。

1862年に起こった薩摩藩の内部抗争について、わかりやすくお伝えをしていきます。

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寺田屋事件が起こった背景とは

1862年の寺田屋事件は薩摩藩の内部抗争です。この内部抗争の背景が分かれば、寺田屋事件もわかりやすくなります。

当時、薩摩藩の実権は前藩主島津斉彬の弟である島津久光が握っていました。(実際の薩摩藩主は、島津斉彬の養子であり、島津久光の実子である島津忠義です。)

島津久光は、兄の島津斉彬を尊敬していて、その遺志を継ごうとします。

島津斉彬の考えは、尊皇の思想であり、かつ、公武合体という考えを持っていました。島津久光もこの遺志を継ぎ、公武合体の考えを強く持っていたと言われています。

ところが、島津斉彬が公武合体を推進しようと考えていた時期から、既に10年近い歳月がたっていました。尊皇という思想はあっても、具体的手段は公武合体ではなく倒幕という考えも多くなってきていました。

特に尊皇の志士と言われる人々に倒幕という考えは普及しつつあり、薩摩藩で対外的に活動をしている過激派といわれる武士たちの間には倒幕の考えが浸透しつつありました。

1862年の寺田屋事件は薩摩藩の内部抗争と書きましたが、薩摩藩の上層部は公武合体、薩摩藩の過激派志士と言われる人たちは倒幕。

公武合体は、朝廷と幕府を融和させる策。討幕は、その文字のとおり幕府を倒して、朝廷中心に政治を行おうという策。幕府を残すか、倒すかでは、具体的手段は正反対。

薩摩藩では上と下で全く異なる2つの考え方があり、その行き違いが表面化したのが寺田屋事件になります。

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寺田屋事件の経緯とは

1862年4月、島津久光は薩摩藩兵2000人を率いて、京都に入ります。島津久光の目的は、兄である島津斉彬の遺志を継ぎ、公武合体を推進することにありました。

しかし過激思想を持つ薩摩藩の下級武士たちは、まったく異なる解釈をします。その解釈とは、島津久光が京都に入ったのは「薩摩藩が武力をもって幕府に圧力をかけるため」というものでした。

もっとも、過激派武士たちの夢はすぐに打ち砕かれます。それは、京都に入った島津久光が朝廷から受けた命令は、過激思想を持つ志士の取り締まりであったからです。

自分たちの味方であったと思っていた島津久光が実際にとった行動は、過激派武士にとっては青天の霹靂。

そこで、薩摩藩を中心とした過激派武士たちは、当時の薩摩藩の定宿とされた寺田屋事件に集結。関白や所司代を襲撃して、政治を混乱させることを画策します。

この謀議が漏れて島津久光の耳にも入り、島津久光は自らの家臣を寺田屋に急行させ、翻意をさせようと説得を試みます。

ここで、寺田屋にいた人物、説得に赴いた人物を整理すると、

寺田屋にいた薩摩藩の人物としては、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介など。

一方、島津久光の命を受け説得に赴いた薩摩藩士としては、大久保一蔵、海江田武次、奈良原喜左衛門がいます。

しかし、この説得は不調に終わり、過激派武士が暗殺の実行を進めていたことから、島津久光は改めて説得に乗り出します。

この年月日が、1862年6月23日です。島津久光は説得を第一としましたが、聞き入れない場合は上意討ちを認めます。

そこで選ばれたのが薩摩藩でも武術に優れたもの。奈良原喜八郎、大山格之助など8名で、後に上床源助も加わり合計9名が寺田屋に赴きます。

当初は話し合いをしますが、内容は平行線。とうとう武力での解決という手段に出ます。

結果的に島津久光が派遣した9名のうち、道島五郎兵衛が死亡。

寺田屋にいた武士のうち、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介など6人が死亡、後に田中謙助など2人が切腹、さらに西郷信吾、大山弥助など21人が謹慎を命じられています。

結果的に、寺田屋事件は薩摩藩の権力を握っていた島津久光の勝利に終わっています。

さいごに


 

 

 

 

 

 

この記事では、寺田屋事件とは何かをわかりやすくご案内してきました。

ところで、明治維新の立役者となったのは、主に薩摩藩と長州藩です。長州藩は幕末から明治維新に至るまでの過程で、数々の内部抗争がありました。

それに対して、薩摩藩の内部抗争はそれほど聞こえてはきません。そうした薩摩藩にあって最大の内部抗争が、寺田屋事件であったようにも思われます。

では、寺田屋事件後の薩摩藩はどうなったのでしょうか。

島津久光は、過激思想を持つ志士の取り締まりを実践したことで朝廷から評価をされます。その後、島津久光は江戸に入り、公武合体についても一定の成果をおさめます。

この時点で、島津久光は得意の絶頂期にあったのではないでしょうか。

もっとも江戸から京都へ戻る途中、現在の神奈川県横浜市で生麦事件を引き起こし、それが1863年の薩英戦争に結び付きます。

寺田屋事件の時点で、公武合体は時代遅れと言われていましたが、薩摩藩は生麦事件や薩英戦争などを経験して、最終的には公武合体から倒幕に舵を切ることになります。

寺田屋事件以後の世の中の動きを考えたとき、1862年の寺田屋事件は歴史的にどのような役割を果たしたのでしょうか。

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