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戦国のイケメン武将をいくつかに分類してご紹介します!

戦国のイケメン武将のシルエット
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はじめに

今から約500年前、日本では100年間続いた戦国時代がありました。

この記事では、戦国時代にイケメンと言われた武将たちをご紹介します。

当時、写真はありません。肖像画はありますが、似顔絵ではなく政治的な意図をもって描かれたものもあります。

また「伝〇〇」と真偽が確認できないものもあれば、はるか後世になって描かれたものもあります。

さらにいえば、当時のイケメンは現代の感覚とは異なっていたかもしれません。

それでも戦国時代、現在の言葉で表現するとイケメンと言われた武将は確実にいました。
それでは、いくつかに分類して戦国のイケメン武将をご紹介します。

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戦国のイケメン武将 織田氏一族

織田信長

戦国のイケメン武将でもっとも有名なのは、織田信長とその一族ではないでしょうか。

織田信長(1534年~1582年)は、50歳を前にして本能寺の変で非業の最期を遂げた人物です。

織田信長で言われているのは若い頃。若い頃の織田信長は細面で、女性と見間違うほどのイケメンだったと言われています。

織田信長の妹お市の方は、戦国時代一の美女と称されることもありますが、織田氏一族にはイケメン武将が多かったようです。

織田信長の弟

織田信長の父は織田信秀で、織田信秀は織田信長を含め12人の男子を残しています。織田信長の弟で、織田信秀の8男に織田秀孝(不詳~1555年)という武将がいます。

織田秀孝は15歳~16歳で不慮の死を遂げますが、色が白く容姿端麗であったと記録に残されています。

織田秀孝は織田信長の兄弟の仲でもとりわけイケメンで知られていたようです。

 
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織田信長の子

織田信長には11人の男子がいました。

織田信長亡き後の織田氏は凋落してしまったのであまり記録も残っていませんが、織田信長次男織田信雄(1558年~1630年)は父織田信長に容貌が似ていたと伝えられています。

 
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織田信長の親戚

浅井長政

織田信長の妹お市の方が嫁いだ浅井長政(1545年~1573年)は、今も残る肖像画を見ると微妙な感もありますが、当時は美男美女の夫婦と言われていたようです。

名古屋山三郎

織田信長の親戚に名古屋山三郎(1572年又は1576年~1603年)という武将がいます。

名古屋山三郎の母が織田信長の親戚ということですが(関係については諸説あり)、若いころの名古屋山三郎は少女と間違えてしまうほど容姿端麗なイケメンで知られていました。

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戦国のイケメン武将 織田信長の家臣

前田利家

前田利家(1539年頃~1599)は、織田信長の小姓から出発し、最後は加賀100万石の祖となった武将です。

戦国時代、他家との戦いは日常茶飯事でしたが、戦場に女性を連れていくことはできません。

そのため武将が衆道(男色)に走ることは決して不思議ではなく、織田信長にはこの傾向が強くみられます。

前田利家は容姿端麗なイケメンで、さらに約180cmと当時としては相当の長身であったと伝えられています。

森蘭丸

森蘭丸(1565年~1582年)も、織田信長に小姓として仕えています。

1582年の本能寺の変で織田信長とともに生涯を終えていますが、森蘭丸も容姿端麗なイケメンとして知られています。

また、森蘭丸の父森可成、兄森長可もイケメンであったと伝えられています。

明智光秀

明智光秀(1516年又は1528年~1582年)は、壮年になってから織田信長に仕え、本能寺の変で織田信長を倒した武将です。

主君の織田信長には頭髪の少ないことを揶揄されていましたが、娘の細川ガラシャが美女と称され、その他の子供も美しさと優雅な振る舞いが讃えられていました。

そのため、父である明智光秀もイケメンではないかと言われています。

戦国のイケメン武将 戦国大名

斉藤道三

斉藤道三(1494年~1556年)は戦国三大梟雄の一人で蝮(まむし)の異名を持っていました。

斎藤道三は美濃国に狙いを定め、最後は主家を追い出し美濃国を支配した戦国大名です。

斎藤道三は知略と武略に優れていましたが、同時に若いころはイケメンを武器に主家に取り入ったとも言われています。

 
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松永久秀

松永久秀(1508年~1577年)も戦国三大梟雄の一人に数えられる戦国大名です。

権謀術数を駆使して主家の三好家の勢力をしのぐほどの力を持ちましたが、地盤が京都に近いことから、教養があり身のこなしも典雅で京都ではイケメンとして知られていました。

長宗我部元親

長宗我部元親(1539年~1599年)は最後は土佐一国の大名に落ち着きますが、一時は四国全体を支配した戦国大名です。

長宗我部元親の若いころのニックネームは「姫若子」。身長こそ高いものの、色白で柔和なイケメンぶりから、陰口として言われていました。

しかし、初陣で大活躍したことから姫若子から鬼若子に変わったと言われています。

最上義光

最上義光(もがみよしあき、1546年~1614年)は、隣国の伊達家などと争いながらも出羽国を治めた戦国大名です。

記録によれば、最上義光は色が白く冷静な眼をしているとあり、身長も180cmを超えるイケメンであったと伝えられています。

また、娘の駒姫も美少女であったと言われてます。

小早川隆景

小早川隆景(1533年~1597年)は、毛利元就の三男で兄には毛利隆元・吉川元春がいて、後に小早川家に入り毛利家を支えます。

小早川隆景は少年の頃からイケメンぶりが有名で、一説には当時勢力があった戦国大名大内義隆と衆道関係にあったとも言われています。

宇喜多秀家

宇喜多秀家(1572年~1655年)は戦国三大梟雄の一人に数えられる宇喜多直家の子で、宇喜多直家没後は豊臣秀吉の庇護を受けます。

後に五大老に選ばれますが、関ケ原の戦いで西軍に加担、戦後は八丈島へ配流され長い流人生活を送ります。

母の円融院は絶世の美女と言われ、現在も残っている宇喜多秀家の肖像画からもイケメンぶりが伝わってきます。

戦国のイケメン武将 戦国大名の家臣

井伊直政

井伊直政(1561年~1602年)は徳川家康の家臣で、徳川家康の草創期を支えた徳川四天王の一人に数えられています。

徳川家康は織田信長とは異なり衆道には興味を示しませんでしたが、唯一の例外が井伊直政だったとも言われています。

井伊直政は他の家臣に言い寄られるほどのイケメンということで、イケメンぶりについては他にもいくつかの逸話がも残されています。

 
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高坂昌信

高坂昌信(1527年~1578年)は武田信玄を支えた武将で、武田四名臣(武田四天王)の一人に数えられています。

高坂昌信も武田信玄の衆道の相手で、武田信玄が恋文を出したと言われるほどのイケメンで知られています。

 
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直江兼続

直江兼続(1560年~1620年)は上杉謙信の後継となった上杉景勝の家臣です。

直江兼続は長身のイケメンであったと伝えられています。

山中幸盛(山中鹿之助)

山中幸盛(1545年~1578年)は、毛利氏によって滅ぼされた尼子氏の家臣で、尼子氏再興に生涯を送った武将です。

「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」という名言で知られる山中幸盛は、勇猛なイケメンであったと言われています。

戦国のイケメン その他の武将

上杉景虎

上杉景虎(1554年~1579年)は北条氏康の七男で、後に上杉謙信の養子になった人物です。

上杉謙信が亡くなった後の後継者争い「御館の乱」で同じく養子の上杉景勝に敗れ亡くなります。

上杉謙信は北条家から来た養子の上杉景虎の聡明さとイケメンぶりを愛したと言われています。

不破万作と浅香庄次郎

不破万作(ふわ ばんさく、1578年~1595年)は豊臣秀次の小姓で、豊臣秀次が切腹したときに殉死したと伝えられています。

浅香庄次郎(あさかしょうじろう、生没年不詳)は、織田信雄の家臣として出発。その後は主家を変えながら最後は前田家に仕えたとされる武将です。

不破万作も浅香庄次郎も歴史上知られた存在ではなく、武将としての功績も定かではありません。

それでも名前が残っているのは、不破万作と浅香庄次郎、そして前述の名古屋山三郎の三人がイケメンの「戦国三大美少年」として今に伝えられているためです。

さいごに

この記事では、戦国時代にイケメンと言われた武将をいくつかに分類してご紹介しました。

イケメンが伝えられる武将で目立つのは、歴史上、何かを成し遂げた人物。そして、その家臣として仕えてきた武将たちです。

果たして、彼らは現代でもイケメンに成り得るのでしょうか。確認はできませんが気になるところです。

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