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勝小吉の夢酔独言から見た生涯!勝海舟の父は破天荒だった

はじめに

この記事では勝小吉の生涯についてご紹介をしていきます。

勝小吉は幕末の江戸無血開城で有名な勝海舟の実父で、勝小吉自身も江戸幕府の旗本でした。もっとも、旗本とは言いながらも勝小吉は生涯無役で破天荒な性格から暴力旗本として恐れられていました。

その勝小吉が著したのが夢酔独言(むすいどくげん)です。夢酔独言には、勝小吉自身の様々なエピソードが盛り込まれていて、勝小吉の生涯の一端を知ることができます。

夢酔独言の中にはあまりにも突飛な行動が盛り込まれているので、誇張という意見がないわけではありませんが、勝小吉の生涯を知るには欠くことのできない資料ですし、ここから勝小吉の子供である勝海舟の生きざまも見えてくるようです。

それでは、勝小吉の生涯をご案内するとともに、夢酔独言などから読み取れるエピソードをご紹介していきたいと思います。

勝小吉とは

まずは勝小吉の略歴をご紹介します。

 
1802年(享和2年) 旗本男谷平蔵の三男として生まれる
1808年(文化5年) 旗本勝甚三郎[の養子となる
1823年(文政6年) 勝海舟が生まれる
1838年(天保9年) 家督を勝海舟に譲り隠居する
1843年(天保14年) 夢酔独言を著す
1850年(嘉永3年) 死去
勝小吉の祖父は越後国に生まれます。この祖父は重度の視覚障害があったとされますが、鍼を学び江戸に出て財を為し、米山検校(よねやまけんぎょう)と言われるようになります。

※ 検校とは、視覚障害者の中での最高の官職と言われています。

当時の江戸幕府では御家人株の売買が可能でした。そこで米山検校は、三男の平蔵に男谷家の株を買い与え、後に男谷平蔵は旗本の列に加わります。もっとも、勝小吉は男谷平蔵の三男であるため、幼少時に同じく旗本の勝家に養子に出されています。

一方の勝家は徳川家康の時代から徳川家の家臣で由緒ある家柄ですが、元は将軍にお目見えの資格のない御家人。勝家が御家人から旗本になったのは勝小吉の曾祖父の代。旗本としては新参で、しかも小身でした。

勝小吉が家督を継いだ時も石高は僅かで、現在の価値で考えるとせいぜい150万円程度の年収と言われています。さらに役職がつけば実入りが増えるものの、勝小吉は生涯無役。旗本とは言いながらも、その生活は困窮していたようです。

それでは、夢酔独言などから読み取れる勝小吉のエピソードをいくつかご紹介していきます。

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1 仕事と浪費癖

勝海舟像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝小吉は幕府の直属の家来という立場ですが、役職があるわけでもなく、当然のことながら貧乏でした。では、勝小吉はどのようにして収入を得ていたのでしょうか。

勝小吉は刀のブローカーのような真似をして収入を得ていたといわれています。当時、江戸では夜店で道具市が開かれていました。勝小吉は道具市に出かけて、そこに出ている刀の目利きをして、売買で利ザヤを稼いでいました。

また、それ以外の収入源としては、道場破りをして小銭を稼ぐ、幕府より拝領していた屋敷を他人に貸し出して自らは安い借家に住み利ザヤを稼ぐなどがあったようです。

いずれにしても勝小吉が正業でお金を稼ぎ、そのお金で生活をしていたという話は聞こえてきませんし、勝小吉がお金を稼ぐ目的は吉原に通うためのもの。

勝小吉はお酒をたくさん飲むわけでもなく、博打をするわけでもありませんでしたが、吉原では散財を繰り返していました。折角、稼いだお金もその多くは遊興で消えていったようです。

2 文字と剣術

勝小吉は生涯自由人でした。剣術には精通しているものの文字の読み書きなどは大嫌い。

夢酔独言に際しても本人が断りを入れているように、文章は口語体で字は当て字。内容は難しくなくても、夢酔独言の原文は相当に読みにくいようです。

また、幼少時から剣術をしていましたが、それは主に近所の子供たちとのけんかで磨かれたもの。当時の江戸は剣術が盛んで有名な道場がいくつもありましたが、勝小吉は道場の剣術を「まどろっこしい」と嫌っていました。

3 14歳の家出

勝小吉は早熟な子供で、14歳の時に男は何をしても食べていけると、家のお金を持ち出して上方に家出をします。もっとも、そのお金は小田原で盗まれてしまったので物乞いをしながら西に向かいます。

その後は、倒れているところを僧侶に助けられたこともありますが、一方では村人に棒で叩かれて村を追い出されたり、さまざまな経験をします。

中には奉公を世話してくれる人がいたり、養子になることをすすめられたりということもあったようですが、何しろ自由人。とにかく一つの場所にじっとしていることができなかったと語っています。

ところで家出の最中、勝小吉は崖から落ちて睾丸を強く打ちます。結果的に勝小吉は江戸に戻りますが、その影響から2年間は痛みで外出ができなかったと語っています。

睾丸と言えば息子の勝海舟も幼少時に犬に噛まれて生死の境をさまよったことが知られていますが、夢酔独言には勝小吉が勝海舟を必死に看病したことが書かれています。

4 勝海舟の看病

前述のとおり、勝海舟が犬に睾丸を噛まれて瀕死の重傷を負った時のことです。医師は傷口の縫合に取り掛かりますが、勝海舟は9歳の子供。麻酔などもありません。

勝海舟が泣きわめくと手術が進まないことから、勝小吉は勝海舟の枕もとで怒鳴りつけます。そして怒鳴りつけるだけでは効果がないことを知ると、勝小吉は刀を抜いて畳に突き立て勝海舟を泣かせないようにしています。

勝海舟に厳しい態度を見せる勝小吉ですが、その後は毎日水垢離(みずごり)をとり、金毘羅宮に平癒の祈願をし、さらには勝海舟に添い寝をします。その甲斐あってか勝海舟は約70日後にけがから回復します。

5 けんか修行

けがが癒えた16歳のころから、勝小吉は剣術の稽古に身を入れるようになります。ただ、勝小吉がとった方法は道場での剣術よりも実践での剣術。

剣術の仲間と街に繰り出して、見ず知らずの相手に喧嘩を売ります。勝小吉側は僅か4人、対して相手は最終的には50人ということもあったようで、喧嘩を繰り返しながら勝小吉は剣術の腕を磨いていきます。

また道場での稽古もしますが、特に大事にしたのは他流試合。積極的に他の道場に出向いて、その道場の門人をたたき伏せて、配下のようにしていく。このようなことをしながら、勝小吉は剣術の腕をますます磨いていきます。

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6 座敷牢と勝海舟の誕生

勝海舟生誕の地



 

 

 

 

 

 

 

 

 

21歳の時、勝小吉は再び家出をします。江戸での喧嘩修行という人生経験と、すでに地方にも江戸の仲間がいたことから、物乞いをする必要はなかったものの、江戸から仲間が迎えに来たことで仕方なく江戸に戻ります。

江戸に戻った勝小吉を待っていたのは座敷牢。勝小吉は座敷牢で約3年を過ごします。

もっとも、座敷牢とはいってもある程度の自由はあったようで、この3年間の中で勝小吉24歳の時に勝海舟が誕生をしています。

7 2度目の座敷牢

勝小吉は37歳の時、再び座敷牢に入れられそうになります。ただし初回の時とは異なり2度目の座敷牢については勝小吉も大抵抗。

勝小吉は座敷牢に入れられても、改心する気持ちなどはまったくないと言い放ち、さらには断食して生涯を終えると駄々をこねます。

死んでしまったら元も子もないので、勝小吉は座敷牢を逃れることに成功します。ただし、座敷牢を逃れた勝小吉が向かったのは吉原。宣言どおり、勝小吉には自分を変えようという気持ちは全くなかったようです。

8 妻の信子との関係

元々、勝小吉は男谷姓。勝家には婿養子で入り、妻は信子という名前でした。

勝小吉は婿養子であることが嫌で放蕩を重ねてきたという話もありますが、勝小吉が座敷牢に入っていたときそこに通っていたのが信子。そして、誕生したのが後の勝海舟です。

この信子も気丈な女性として知られています。

あるとき、勝小吉がある女性に惚れたことを信子に打ち明けると、信子は私が自害してその女性を迎え入れればいいと勝小吉に言い放ちます。勝小吉も売り言葉に買い言葉で、信子に自害用の短刀を渡して遊びに行ってしまいます。

結果的に、このことを知った知人が勝小吉をいさめたことで、勝小吉は家に帰り事なきを得ますが、夫婦ともに相当の頑固者であったことがうかがえます。

9 勝小吉の剣術の腕前

勝小吉の剣術は実践で腕を磨いた剣術です。では、勝小吉の剣術の腕前はどの程度だったのでしょうか。

勝小吉の甥に男谷信友がいます。男谷信友は「幕末の剣聖」と言われるほどのつかい手として知られていますが、試合をしたとき勝小吉は男谷信友を子供のようにあしらったといわれています。

道場で学んだ剣術より、喧嘩を通じて磨いた剣術の優秀さを示すようなエピソードともいえますが、幕末の侠客として知られる新門辰五郎も勝小吉を「喧嘩で右に出る者はいない」と評しています。

さいごに

勝海舟と坂本龍馬像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、勝小吉の生涯をご案内するとともに、夢酔独言などから読み取れるエピソードをご紹介してきました。

ところで、夢酔独言はだれのために書いたものなのでしょうか。

勝小吉は作家でもなければ学者でもありません。夢酔独言を出版してお金を得ようと思ったわけではないでしょうし、実際に夢酔独言が世に出るのは勝小吉が亡くなって、ずっと後のことです。

夢酔独言は勝小吉の自叙伝ですが、この自叙伝の序文で「夢酔独言は孫やひ孫のいましめのために」と記載されています。要は、孫やひ孫に対して決して自分のようになるな、あるいは真人間になるようにという願いを込めて書かれたものです。

ここで気になるのは、夢酔独言は孫やひ孫のためであって子のためではないということです。勝小吉の子は勝海舟。勝海舟は出来のよい子であったのでいましめる必要がなかった。だからこそ、孫やひ孫にいましめを送ったと考えられています。

また夢酔独言の中で、勝小吉は息子の勝海舟を評して「俺はトンビだが、あいつは鷹だ」と語っています。まさに「トンビが鷹を産む」ということを表しています。

では、勝海舟は父の勝小吉をどのように見ていたのでしょうか。

勝海舟は父のことを「あんなに胸のすくような喧嘩ができる人はなかなかいない」「借金を頼まれるとお金がなくても貸してしまう」。今の感覚でいえば、勝海舟は父を江戸っ子の鏡のように見ていたのかもしれません。

勝海舟は幕臣でありながら幕府を残そうとはせず、新しい世の中を創ることが必要と考えていた人物です。幕府にしがみつくというよりも、新たな世の中を迎えることが大切と考えた勝海舟はやはり父である勝小吉の生きざまに大きな影響を受けた結果。

勝海舟の心中は分かりませんが、何となくそんな気がします。

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