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寿桂尼とは!女戦国大名と言われた今川義元の母はどんな人?

桶狭間の戦い古戦場
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はじめに

この記事では、寿桂尼(じゅけいに)について、ご案内していきます。

寿桂尼は、戦国時代の今川家を4代にわたって支え続けた女性で、女戦国大名と讃えられています。

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女戦国大名と言われた寿桂尼の生涯とは

寿桂尼の生年は不明です。亡くなったのは1568年。享年は明らかではないものの70歳台か80歳台。当時としては長命だったようです。

また、出自は公家の中御門家とのことですが、名前も明らかではありません。

寿桂尼というのは、夫である今川氏親が亡くなり、さらに寿桂尼が生んだ3人の男子のうち2人が亡くなり、出家した後の名前になります。

寿桂尼が世の中に知られるようになるのは、今川氏親の正室になってからのことですが、今川氏親に嫁いだ年も、1505年説と1508年説があるようです。

寿桂尼は今川氏親との間に3人の男子を設けます。それが長男の氏輝、次男の彦五郎、そして五男の義元です。

夫の今川氏親は駿河国の守護大名。ただ時代は戦国時代。今川氏親は、守護大名から戦国大名に転身できた有能な武将であったようです。

しかし、今川氏親は1526年8月に病没します。また亡くなる前の数年間は、病床にあったという説もあります。

今川家の国法である今川仮名目録は、1526年4月に制定されていますが、果たして患っていた今川氏親にそのようなことができたのか。

そんな疑問から、寿桂尼が今川仮名目録制定に深く関わっていたのではないかとも考えられています。

このあたりの真偽については定かでないものの、寿桂尼が女戦国大名と言われるスタートの出来事であった。

そうした可能性は否定できないかもしれません。

今川氏親が亡くなった後、今川家は嫡男の今川氏輝が相続をします。ただ、今川氏輝が相続したときの年齢は僅か14歳。

当時は今よりも成人になるのが早かったとはいえ、14歳の少年に駿河国を束ねる力はありません。

そのため、今川氏輝が今川家を継いでからの約2年は、寿桂尼が国務を執り行ったと考えられています。

また、このころから寿桂尼は女戦国大名と称されるようになった。そのような意見が一般的です。

1526年に今川家の当主となった今川氏輝ですが1536年に亡くなります。また、その直前に今川氏輝の弟の彦五郎も亡くなっています。

寿桂尼の立場からしたら、自らが生んだ3人の男子のうち、ごく短期間に2人を失ったことになります。

そのためか寿桂尼はここで出家し、寿桂尼を名乗るようになります。

寿桂尼となって行ったのは、自らの3人目の男子で、今川家の五男であった義元の擁立。

当時の今川義元は僧籍にありましたが、還俗させて今川家の後継者にすることを考えます。

もっとも、今川家の後継者候補としては今川義元の兄もいます。

この兄が、今川氏親と側室の間に生まれた玄広恵探で、この人物も今川家の後継者になろうとします。

そこで起こったのが、花倉の乱(はなくらのらん)。

1536年、花倉の乱に勝利した今川義元は今川家を相続します。

ただこのときの今川義元は17歳で、しかも僧籍にあったため、軍事を学んだこともなければ経験もありません。

今川義元に一軍を統べる力がないことは明らかで、寿桂尼などがこの戦いにも関与していた可能性があります。

今川義元の治世下での寿桂尼の役割は定かではありません。もっとも戦国大名としての今川家は、今川義元の時代に最盛期を迎えます。

当時の今川家は海がある南以外は、北・東・西に敵を抱えていました。

今川義元は、三方を敵に囲まれていたものの国をよく保ち、北の武田家、東の北条家とは三国同盟を締結。

直面する敵は西にある尾張の織田家だけとなり、政治力などから海道一の弓取りと言われるようにもなります。

この時期、寿桂尼の役割は定かではありませんが、改めて表舞台に登場する機会が生まれます。

それが1560年の桶狭間の戦いで、この戦いで今川義元自身が討死を遂げてしまいます。

今川義元の後継者は今川氏真。今川氏真はこのとき22歳の頃。

当時としては立派な成人ですが、今川氏真は周囲から「うつけ」と言われるほどで、駿河一国を統治する能力には疑問が持たれていました。

そのため、既に老境に差し掛かっていた寿桂尼が表舞台に復帰せざるを得なくなります。

今川義元が亡き後の駿河国に食指を伸ばしていたのは武田信玄です。しかし、武田信玄はすぐに駿河国に侵攻することはありませんでした。

それは、武田信玄と正室三条の方の輿入れに尽力をしたのが寿桂尼であったこと。

また、桶狭間の戦い以降、今川家の地位は徐々に衰退していったものの、女戦国大名と言われた寿桂尼が、まだ健在であったことなどが理由と考えられています。

ところが、寿桂尼は1568年に亡くなります。

寿桂尼が亡くなる前から武田家との関係は悪化していましたが、カリスマ性を発揮していた寿桂尼の死により、武田家は駿河国に侵攻を開始。

今川氏真は一命は助けられたものの、戦国大名としての今川家はここに滅亡をします。

 
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さいごに

今川義元の墓今川義元の墓

寿桂尼は生年も明らかでなければ、出家前の名前もはっきりとはしていません。

しかし、その事績を見ていくと夫である今川氏親、子である今川氏輝と今川義元、孫である今川氏真と今川家を4代にわたって支え続けた、まさに女戦国大名であったようです。

寿桂尼が活躍できたのは、今川家が抱えていた事情もさることながら、寿桂尼のもつカリスマ性が大きく影響したのかもしれません。

戦国時代にあって、女戦国大名と讃えられたのはむしろ当然なのかもしれません。

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