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日本史

織田信秀とはどんな武将だったの?織田信長の父の生涯を簡単解説

織田信秀が居城とした那古野城(現名古屋城)

織田信秀は、織田信長の父として知られています。では、織田信秀とはどんな武将だったのでしょうか。

織田信長は、約100年続いた戦国時代を収束に導いた武将として知られています。

しかし、織田信長も徒手空拳で上り詰めたわけではなく、父である織田信秀がその下地を作ったから。

そのように考えることもできます。

この記事では、織田信秀とはどんな武将だったのか。織田信秀の生涯を、時系列で簡単にご紹介していきます。

織田信秀が家督を相続するまで

清州織田氏の居城の清州城
織田信秀は、1511年に織田信定の長男として尾張国に生まれます。その後、1526年頃には家督相続をして織田家を継ぎます。

では、織田信秀が誕生したときの織田家はどのような状態だったのでしょうか。

織田信秀が生まれたのはまさに戦国時代。

織田信秀が生まれたときの尾張国の守護は斯波氏でしたが、すでに勢いを失い、尾張国は守護代が権力を握っていました。

その守護代ですが、尾張国には2つの守護代の家があり、尾張国のうちでも上4郡は岩倉城を居城とする「岩倉織田氏」。

下4郡は清州城を居城とする「清洲織田氏」が、実質的に尾張国を支配していました。

織田信秀の織田家は、どちらの織田家でもありません。

織田信秀の家は、清州織田氏の一族ではありましたが、清州織田氏の家臣という存在でした。

清州織田家には、重臣として清洲三奉行がいました。

清洲三奉行とは、「因幡守家」と「藤左衛門家」と「弾正忠家」で、織田信秀が家督を相続したのは弾正忠家になります。

織田信秀は勇猛果敢な武将として知られていますが、その立場は低いものでした。

武将ではあったので、後の豊臣秀吉よりは恵まれた立場と言えそうですが、幼少時に人質生活を送ったとはいえ三河国の領主であった後の徳川家康よりは下の立場。

時代が異なるので単純な比較はできませんが、織田信秀の立場は決して恵まれたものとは言えなかったようです。

そして織田信秀が家督を相続した後のことです。

1533年、織田信秀は京都より公家を招き、蹴鞠の会を催しています。

このことは周囲に威勢を示すためとも言えますが、それだけでなく織田信秀は複数回朝廷に献金を行い、時の足利将軍家にも拝謁したととも伝えられています。

織田信秀は戦国武将らしい実績が喧伝されていますが、それだけでなく朝廷や幕府を重視する姿も見せています。

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織田信秀と斎藤道三が和睦をするまで

ここでは織田信秀の事績を年表形式でお伝えします。

 
1534年織田信長が誕生する
1538年今川氏より那古野城を奪取し居城とする
1539年古渡城を築き居城を移す
1540年三河国に侵攻し安祥城を奪取する
1542年美濃国に侵攻し大垣城を奪取する
1544年美濃国の斎藤道三により大垣城を奪取される
1548年今川氏との第2次小豆坂の戦いで大敗する
末森城を築き居城を移す
1549年齋藤氏と和睦
織田信長と濃姫が婚姻
織田信秀の事績の中で目立つのは隣国との戦いです。

織田信秀は、東方の徳川氏(当時は松平氏)や今川氏。あるいは北方の斎藤氏とは常に緊張関係にありました。

一方、清州織田氏の家臣という立場は、終生にわたって保ち続けています。

もちろん順風満帆というわけではなかったでしょうが、織田信秀は主家である清州織田氏だけでなく、その主家である斯波氏との関係をそのままに維持しています。

織田信秀自身が戦ったのは隣国の大名ですし、一時はそれらの大名に対して優位な立場を保っていました。

しかし、その立場はあくまでも守護代の一家臣。

勢力や権力は清州織田氏や斯波氏を上回っていながら、下風に立っています。

このことは、朝廷や足利幕府に対する態度にも共通するものかもしれませんが、織田信秀は戦国時代の武将として有能でありながらも、秩序を大切にする人物だったのかもしれません。

織田信秀は割と早い時期に亡くなっているので断言はできません。

ただ実際問題として、弾正忠家が世の中に頭角を現すのは、子の織田信長の代になってからになります。

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織田信秀が亡くなるまで

織田氏と斎藤氏が和睦をしたことで、北への脅威は幾分弱くなりました。

しかし、このとき東の今川氏が力をつけてきました。

元々、今川氏は強大な勢力でしたが、今川家の当主である今川義元は三河国の松平氏を実質的に支配下に置くようになっていました。

1549年、それまで織田信秀が支配下に置いていた、三河国の安祥城が今川氏に奪われます。

また翌1550年には、織田家の家臣でも三河国に隣接していた水野氏や山口氏が、今川氏に寝返ってしまいます。

織田信秀はこの頃から体調不良が伝えられますが、1552年、末森城でその生涯を閉じています。

さいごに 織田信秀と織田信長の関係とは

織田信秀が攻めた稲葉山城(現岐阜城)
織田信秀は、正室と側室の間に20人以上の子をもうけています。

もっとも、この中で織田信秀の家督を継ぐのは男子。しかも正室である土田御前(どたごぜん)の子でした。

織田信秀と土田御前の間には、織田信長だけでなく織田信勝・織田秀孝・織田信包の4人の男子がいました。

ここで問題になるのは、織田信長とその弟である織田信勝です。

織田信長は奇行が多く「うつけ者」(大馬鹿者の意)と呼ばれていました。

一方、年の近い弟の織田信勝はきちんとした佇まいを持つ常識人と考えられていました。

母の土田御前は実子の中でも何をしでかすかわからない織田信長を嫌い、織田信勝をかわいがっていたと伝えられています。

では父の織田信秀はどうだったのでしょうか。

1539年に織田信秀は居城を那古野城から古渡城に移しています。この時に織田信秀か那古野城の守護を任せたのが織田信長。

1534年生まれの織田信長に那古野城を任せたうえで、織田信秀は古渡城に向かいます。

もちろん幼少の織田信長に那古野城の守備ができるわけではありませんが、その後も含めて織田信秀に織田信長廃嫡の動きは見られません。

織田信秀が織田信長をどのように思っていたのかはわかりません。

しかし行動を見る限り、織田信秀は織田信長を自らの後継とみていたのではないでしょうか。

この記事では、織田信秀とはどんな武将だったのか。その生涯を時系列で簡単にご紹介をしてきました。

織田信秀は知略あふれる勇猛な武将。だからこそ、周辺の大名と互角にわたりあえた。

また、朝廷や幕府を尊ぶだけでなく、主家の清州織田家や斯波氏を裏切ることもなかった。

知略あふれて勇猛なところは織田信長に引き継がれています。

しかし、旧来の慣習を大切にする織田信秀に対して、織田信長はそれを積極的に壊していった。

織田信秀の行動を見習うとともに、一方では否定もしていった。

だからこそ織田信長は、戦国時代を収束に導けたのかもしれないですね。

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