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島津斉彬と島津久光はどのような関係だったのでしょうか

島津氏が居城にした鶴丸城
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はじめに

この記事では、島津斉彬(しまづなりあきら)と島津久光(しまづひさみつ)は、どのような関係だったのかについて書いていきます。

一般的には、島津斉彬と島津久光は仲が悪かったと考えられがちです。それは、当時の薩摩藩の状況を考えれば当然のことともいえます。

しかし、一方では島津斉彬と島津久光は仲が悪いという説を否定する意見も多いようです。

島津斉彬と島津久光の関係は、父である島津斉興を抜きにしては語れません。まずは、島津斉興、島津斉彬、島津久光の関係について書いていきたいと思います。

島津斉興と島津斉彬と島津久光

島津斉興は、1791年に生まれ、40歳を過ぎたころに薩摩藩第10代藩主となっています。島津斉興の正室は、鳥取藩主池田氏の娘である弥姫(いよひめ)。

島津斉興と弥姫の間には4人の男児と1人の女児が生まれています。この中で3男と4男は早世していますが、長男は後の島津斉彬、次男は後に岡山藩主池田斉敏となっています。

長男の島津斉彬が誕生したのは1809年。正室の子、しかも長男である島津斉彬は最初から薩摩藩の藩主になることが約束されているはずでした。

ところで、島津斉興には側室もいました。その一人がお由羅の方です。お由羅の方は江戸の町家の出身で、島津斉興とお由羅の方には、2人の男児と1人の女児が生まれています。

この中で、島津斉興とお由羅の方の間に生まれた最初の男児が島津久光になります。

島津久光は、1817年に島津斉興の第5男として誕生をしています。島津久光は側室の子、長男でもありません。普通に考えたら薩摩藩の藩主になれるわけもありませんでした。

それをおかしくしたのが、島津斉彬と島津久光の父である島津斉興です。

正室の弥姫は早い時期に亡くなっています。島津斉興はお由羅の方を寵愛し、その子の島津久光も溺愛します。

そして、島津斉興は長男である島津斉彬を廃して、島津久光を後継にしようと画策します。

そこで決起したのが島津斉彬派の武士。

島津斉彬派は元凶がお由羅の方にあるとみて、お由羅の方を襲撃しようとしますが未遂に終り、これに関わった島津斉彬派の武士は多くが粛清をされてしまいます。

島津斉彬派の勢いは衰えたかに見えましたが、このお家騒動は江戸幕府も知るところとなり、島津斉興は隠居します。(お由羅騒動)

島津斉彬が薩摩藩第11代藩主になったのは1851年。英明を謳われた島津斉彬は多くの改革に取り掛かり、西郷隆盛などの人材の発掘も熱心に行います。

しかし、1858年に急死。コレラという説もありますが、毒殺されたという説も根強くあります。

島津斉彬には後継となる男子はいましたが、すでに夭折。

そのため、薩摩藩第12代藩主になったのは、弟島津久光の子である島津忠義。もっとも島津忠義は幼少であったため、父である島津久光が後見。

島津久光自身は国主ではなかったものの、国主(薩摩藩主)の実父であることから「国父」と称されていました。

島津久光の時代に、江戸から明治に世の中が代わります。

島津久光が亡くなったのは1887年(明治20年)。明治維新の功労者であった西郷隆盛や大久保利通が亡くなった後のことでした。

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島津斉彬と島津久光の関係はどうだったの

島津氏が藩主を務めた鶴丸城鹿児島城(鶴丸城)

島津斉彬と島津久光は、お由羅騒動で後継者争いを演じました。そのことだけを考えると、島津斉彬と島津久光は仲が悪かったと考えるのが自然のようにも思えます。

しかし、実際の2人の関係は悪くなかったとも言われていて、そのことを示すいくつかのエピソードもあるようです。

では、エピソードのいくつかをご紹介していきます。

島津斉彬と島津久光の関係1

島津斉彬と島津久光は、お由羅騒動で対立をしました。

しかし、実質的にこの争いは、島津斉興・お由羅vs島津斉彬で、島津久光自身は関わってなかったと言われています。

島津斉彬が薩摩藩主に就いた後、島津斉彬派はお由羅の方や島津久光の処分を提案しました。

島津斉彬はお由羅の方のことは嫌っていると言われていましたが、お由羅の方を処分することまでは考えていませんでした。もちろん、島津久光を処分することもありませんでした。

こうしたことから、島津斉彬と島津久光の関係は必ずしも悪くはなかったと考えられています。

島津斉彬と島津久光の関係2

島津斉彬は、弟である島津久光の能力を評価していたと言われています。

島津斉彬は勝海舟に送った手紙の中で、島津久光のことを「自分よりも知識があり性格も良い」と書いています。

また、島津久光も兄である島津斉彬を尊敬していたとも言われています。

島津斉彬の考えは、倒幕ではなく公武合体にありました。

この考えを踏襲したのが島津久光で、島津斉彬が亡くなった後は島津斉彬の遺志を継ぐべく公武合体を推進しようとしていました。

また、島津斉彬が愛した家臣、いわゆる「誠忠組」に対しては、兄である島津斉彬の方針を継承することを宣言しています。

島津斉彬は大藩の藩主、島津久光はその一族という関係ですから、日常的な接点はあまりなかったかもしれません。

でも、島津斉彬と島津久光の関係はそれほど悪くはなかったとも言えそうです。

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さいごに 島津久光の器量

島津氏が藩主を務めた鶴丸城鹿児島城(鶴丸城)

島津久光は薩摩藩の国主とはなりませんでしたが国父と言われていました。国父を務めていたわけですから、その器量は凡庸とはいえないように思われます。

実際、島津久光はしっかりとした教育を受けていて、日本の文化や歴史に精通した超一流の知識人とも言われていました。

しかし、島津久光を器量を評価する声はあまり聞こえてはきません。

なぜでしょうか。

有名なのは西郷隆盛との関係です。

島津斉彬に見いだされ、維新の三傑とも言われた西郷隆盛ですが、西郷隆盛は島津久光のことを嫌っていたと言われています。

その代表的なのが、島津久光の面前で放った「ジゴロ」という言葉。

ジゴロとは薩摩の言葉で「田舎者」という意味があるようですが、開明的な島津斉彬に比べたら、島津久光の考えはあまりにも古い。

西郷隆盛のそうした気持ちが「ジゴロ」という言葉に凝縮をされていたようです。

また、明治維新を迎えるとき、島津久光が待っていたのは将軍宣下。

島津久光は倒幕が成功した時、これからは徳川家ではなくて、島津家が将軍になると思い込んでいたとも言われています。

さらに、島津久光は亡くなるまで散髪脱刀令に逆らい、髷を落とすことを拒み、帯刀することもやめなかったと言われています。

島津久光は知識としては超一流のものを持っていましたが、考え方そのものは固陋で視野の狭い人物であったという説が有力なようです。

島津斉彬は開明的で進取に富んだ人物。一方の島津久光は保守的な人物。

島津斉彬と島津久光の人物の対比が、いつしか島津斉彬を善、島津久光を悪の立場に押しやり、それが島津斉彬と島津久光は対立関係になった。

もしかしたら島津斉彬と島津久光の器量の差が、島津斉彬と島津久光の関係を歪めてしまっているのかもしれません。

なんとなくですが、そのように感じています。

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