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源範頼の能力は源頼朝にどのように評価されていたの?

源範頼ゆかりの石戸蒲桜
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源範頼と源頼朝

この記事では、源範頼(みなもとののりより)の生涯と、その生涯に深く関わっていた源頼朝(みなもとのよりとも)との関係を中心にお伝えします。

とりわけ気になるのは源範頼の能力。

源範頼は異母弟の源義経(みなもとのよしつね)と比較すると、戦術面の能力では目立っていませんが、源頼朝との対立は避けることができています。

しかし、源義経より少し長く生きることができたものの、源範頼も源頼朝によって最期を迎えています。

果たして、源範頼の能力は源頼朝にどのように評価されていたのでしょうか。
 
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源範頼が源頼朝と出会うまで

源頼朝も源範頼も、源義朝の子として誕生しています。

源義朝の三男が源頼朝、六男が源範頼、七男が阿野全成、九男が源義経です。

 
源頼朝1147年~1199年
源範頼1150年頃~1193年
阿野全成1153年~1203年
源義経1159年~1189年
源範頼の生まれた場所は、現在の遠江国蒲御厨(とおとおみのくにかばのみくりや、現在の静岡県浜松市)です。

母ははっきりとしていませんが、蒲御厨近隣の遊女であったとも言われています。

生まれ育った場所が蒲御厨であることから、源範頼は蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれることもあります。

※ 冠者は元服した男子のことを意味します。

1160年に起こった平治の乱では、源義朝だけでなく、源義朝の長男の源義平、次男の源朝長も亡くなります。

一方、三男の源頼朝や九男の源義経は死罪になることは免れたものの、源頼朝は伊豆国に流罪、源義経は鞍馬寺に預けられます。

それに対して源範頼は、平治の乱当時は知られた存在ではなく、そのまま蒲御厨での生活を続けることができています。

1180年、源頼朝は打倒平氏を掲げて挙兵します。

源範頼が源頼朝といつ出会ったのかは定かではありませんが、1183年には従軍の記録があることから、この間に関係が始まったと考えられます。
 
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源範頼の活躍 宇治川の戦い

源範頼の活躍がはっきりと分かるのが、1184年1月。

源義仲を追討するとき、源範頼は兄源頼朝の命を受け大将軍に任じられています。さらに同月の宇治川の戦いには、源義経とともに参陣。

このときの戦術は、宇治周辺に集結する平氏の軍勢に対して、源範頼の軍は大手にあたる瀬田に陣を敷き、源義経の軍は搦手(からめて)から宇治に攻め込みます。

源範頼の戦術は、大手から攻め込むのではなく、大手に陣を敷くことで敵の注意を引き付ける。

あるいは、搦め手から逃げた兵が逃亡すると京を目指すはずであるが、敗れた兵が大量に京に逃げ込むと京の治安が維持できなくなる。

そうした考えから、平氏を積極的に攻めるのは源義経に任せ、自らは平氏の京への流入を極力避けるように動いたとも考えられます。

源頼朝にとって、源範頼や源義経は弟ではあるものの、育ったのはまったく別で、出会いからそれほどの時間がたっているわけではありません。

しかし、源範頼も源義経も、出陣していない源頼朝の代理の役割を果たしています。

源頼朝は源氏の後継者たる立場だったとはいえ、流人生活を長く続けていました。

挙兵に際して味方をしたのは、自分の監視役であった北条氏などごくわずかで、その後に味方したのも少し前までは平氏に近かった武将ばかりです。

源頼朝挙兵時に周囲にいたのは、自分に近しい人物ではなく、完全に信頼することはできなかった。

そのため、出会って間もないとはいえ、血のつながった弟たちの方が信頼できるし、源氏の血を受け継いだ者が上に立てば有力豪族たちも統御しやすい。

そんな思惑が源頼朝にはあったのではないでしょうか。

そうだとすれば、源頼朝は源範頼や源義経の能力というよりも、血筋を評価したものと思われます。
 
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源範頼の活躍 一ノ谷の戦い

1184年1月の戦いは源義仲を相手にしたものですが、同年2月の一ノ谷の戦いは平氏を相手にしたものです。

福原の地で強固な防御網を敷く平氏に対し、宇治川の戦いの戦いのときと同じく、源範頼は大手口、源義経は搦手を担当します。

源範頼は大手口から福原に籠る平氏に正面攻撃を仕掛けます。

平氏が源範頼の軍に気を取られている間に、源義経は搦め手から奇襲攻撃を行い、結果的に福原から平氏を追い出し海に追いやることに成功。

その後の平氏は、海上生活を余儀なくされます。

宇治川の戦いや一ノ谷の戦いで、戦術面での評価が高かったのは、直接敵に仕掛けて勝利を得た源義経です。

源範頼はその点においては、源義経に劣っていました。

しかし、源範頼に麾下には梶原景時など、腕もたつが口もたつといった有力武将がいました。

梶原景時は後に源義経と不仲になり、源頼朝に告げ口をし、それが源頼朝と源義経の亀裂を招いたとも言われる人物です。

源範頼の戦術面の能力は源義経に劣るものの、将としての統率能力ははるかに優れていた可能性があります。

その後、3月になると源範頼は御家人と諍いを起こし、源頼朝に激しく叱責をされ、何度も詫びてようやく許されるという事件がありますが、このあたりを見ると、源頼朝の源範頼に対する評価が垣間見えてきます。

まず、源頼朝が源範頼を起用したのは、能力ではなく血筋だと思われます。

もしかしたら能力は覚束なくても、血筋で有力御家人を統御できると考えたのかもしれません。

そこで大軍を預けたところ、戦闘での成果は源義経よりは劣るものの、有力御家人の統御では成果を上げ勝利に導くことができた。

御家人との諍いで源範頼を叱責したのは、源範頼の役割は将を統率すべきものであり、役割を損なうような行動はするなという表れかもしれません。

源頼朝は、源範頼の将としての能力を評価していたと思われます。

一方、源範頼も自分の役割を理解するとともに、叱責を従順に受け入れているところを見ると、弟であっても源頼朝の家人に過ぎないという自覚もあったのではないでしょうか。
 
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源範頼の活躍 壇ノ浦の戦いまで

1184年8月、源範頼に与えられたのは九州進軍の任で、平氏を直接討滅する役割ではありません。

しかし、西国に逃げた平氏を瀬戸内海近辺にとどめおく。

平氏が敗れたら次に逃げるのは九州になりますが、先に源氏が九州を抑えておけば、平氏は逃げ道を失います。

このとき、源範頼につけられたのは北条義時や比企能員や和田義盛など、源頼朝の有力御家人たちです。

源範頼の九州進攻は直接に平氏を滅ぼすものでないものの、重要な役割であることは間違いなく、ここでも源頼朝が将としての源範頼の能力を評価していたことがわかります。

しかし、九州へ大軍を進めるのは容易ではありません。途中の陸地や海には平氏がいます。

特に大軍勢を賄うための兵糧は海路で運ばなければいけないのに、そこは平氏がしっかりと抑えています。

実際に、侍所別当を務めていた和田義盛は勝手に鎌倉に帰ろうとします。

困窮した源範頼は、同年11月に源頼朝に書状を送り、1585年1月にはようやく九州に向かうことができています。

源範頼の九州進攻は成功し、同年3月の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。

平氏滅亡に大きな力を発揮したのは、過去と同じく源義経です。一方、源範頼はどちらかといえば、源義経の行動を側面から援護するというものです。

世間的には、源義経の行動の方が目立ったかもしれません。

しかし、源範頼も源頼朝の主力を預けられて、大軍を統率しています。また、九州進攻に苦慮して送った書状に対して、源頼朝も即座に食料や船の手配もしています。

この場面では、源範頼が源頼朝に対して、報告・連絡・相談をしっかりとしていて、源頼朝も要望にしっかりと応えている。

源頼朝が、源頼朝の能力を高く評価していた結果なのかもしれません。
 
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源範頼の活躍 奥州藤原氏の滅亡まで

平氏滅亡後、源範頼は九州の地に残り、戦後処理にあたっています。

このときも源頼朝は、源範頼に対して何事も勝手な判断をせず、きちんと報告するようにと書状を送っています。

また源範頼も源頼朝の言いつけを守り、こまめな報告を怠らなかったと言われています。

一方、源義経はどうだったでしょうか。

源義経は戦術家として優れ、武芸にも秀でていました。

しかし能力があるためか独断専行が多く、下につけられた有力御家人は不満を募らせていました。

その代表格が梶原景時です。

平氏滅亡前から、源頼朝と源義経の間はぎくしゃくしていましたが、梶原景時などの讒言が不仲を決定づけるきっかけの一つになっています。

結果として、源義経は源頼朝追討の兵をあげるものの失敗、奥州藤原氏を頼ります。

1189年になると、源頼朝は藤原秀衡に圧力をかけ、藤原秀衡の攻勢を受けた源義経は自害。

また、その直後には源頼朝自らが出陣し、奥州藤原氏を滅ぼしていますが、この戦いに源範頼も従軍しています。

源範頼の最期

1190年、源頼朝は大納言任官の拝賀のため上洛します。

このとき行列の前駆を務めたのが源範頼ですが、この件に関して一部から不平が述べられます。

源頼朝は不平に対して、源範頼は弟であり、代わりを務められる者はいないと語っています。

しかし、兄弟というだけで重要な役割が与えられるはずもありません。

源頼朝は、源範頼を弟としてだけでなく、一人の武将としても能力を評価していたことがうかがえます。

おそらく、この時が源範頼にとっても絶頂期だったのでしょうが事態は急変します。

1193年5月、曾我兄弟の仇討ちが起こります。

この事件は、現在の静岡県富士宮市で源頼朝も参加する巻狩りの最中に起こったもので、事件の概要が鎌倉にいた北条政子にもたらされます。

その内容は源頼朝が事件に巻き込まれて亡くなったというもの。

もちろん誤報ですが、落胆した北条政子に源範頼は「源頼朝が亡くなっても、私が控えています。」と語ります。

源範頼にしてみたら、落胆する北条政子を安心させるためのものだったのかもしれません。しかし、鎌倉に帰還し、北条政子からいきさつを聞いた源頼朝の解釈は異なります。

源頼朝は、自分に何かあったら弟の源範頼が後継に打って出てくるのではないか。つまり、源頼朝は源範頼に対して謀反の意思があるとかぎ取ったのかもしれません。

源頼朝の疑念を知った源範頼は、起請文を源頼朝に送り疑いを晴らそうとします。

ところが、そこに書いてあった署名が源範頼。

源範頼が書状に自分の名前を書くのは不思議ではないかもしれません。

しかし源頼朝の立場からすると、源姓を名乗ることができるのは、幕府の将軍である自分だけで、臣下が名乗るのは僭越であると考えた可能性があります。

源頼朝は猜疑心の強い人物と言われていますが、書状に源範頼と書いたことで謀反の疑念をもったと考えても不思議ではありません。

このことを聞いた源範頼は弁明しますが、かえって源頼朝の疑念は膨らむばかり。結局、源範頼は伊豆国に追放され、その後に誅殺されたとあります。

もっとも、一連の出来事は一級と言われる史料には見当たらないため、虚構として否定する意見もあるようです。

 
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まとめ

この記事では源範頼の生涯を、源範頼の能力は源頼朝にどのように評価されていたのかを軸にお伝えしてきました。

源頼朝と源範頼が出会った頃は、源頼朝に味方する人は少なく、さらに味方する人々に対する信頼も確固たるものではありませんでした。

源範頼が重用されたのは、味方が少なかったので、血のつながる弟はとりわけ大切だった。

この時点では、源範頼の能力を評価する段階ではなく、源範頼を使わざるを得なかったと考えられます。

次に平氏追討の過程においては、戦術においては源義経よりは目立たない存在であるものの、一軍の将としての器は備わっている。

源頼朝は源範頼の能力を見出し、評価を高めていったと思われます。

この時点で対比されるのが源義経です。

源義経は一騎掛けの武者としては優秀だったかもしれませんが、独断専行が目立ち、有力御家人の心も離反していきます。

平氏追討に役割を果たしたのは源範頼と源義経ですが、二人の能力には大きな差異があり、源頼朝が評価したのは源範頼であったことは明らかです。

もっとも評価の基準は、将としての器だけでなく、自分の言いつけをしっかりと守り、忠実に成果を上げていくことだったように思われます。

その点を考えると源義経の非業の死は、むしろ当然だったと言えるでしょう。

源頼朝は弟である源範頼に対して、弟であるよりも家人であるという立場を堅持したかったのかもしれません。

そして、些細な瑕疵から謀反の疑いを強くし、最後は源義経だけでなく源範頼も葬ってしまった。

鎌倉幕府が軌道に乗り始めることで、弟であり家人である源範頼よりも、ただの家人として扱える有力御家人の方が、謀反の心配も少なく、大切になってきたのかもしれないですね。

なお、源範頼の最期については疑念があり、源範頼生存に関する複数の説があります。

その中の一つが、源範頼は生き延びて武蔵国足立郡石戸宿(現在の埼玉県北本市)に逃れたというもので、北本氏には源範頼に由来する桜があります。

この桜は、石戸蒲桜と称され日本五大桜の一つに数えられています。

 
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