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梶原景時の乱までの経緯や最期などをわかりやすく解説します!

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梶原景時の乱までの経緯や最期などを解説します

梶原景時(かじわらかげとき)の生年は1140年頃、没年は1200年。

梶原景時の主君であった源頼朝の生年は1147年、没年は1199年。

梶原景時は、源頼朝の敵方でありながらも、後に源頼朝の元で大きな権力を握るようになります。

しかし、源頼朝が亡くなると鎌倉幕府内部の権力闘争に敗れ、梶原景時の乱で波乱の生涯を閉じます。

この記事では、梶原景時の乱までの経緯や最期などを、わかりやすくお伝えしていきます。

なお、梶原景時の乱は梶原景時の変と表記されることがあります。

乱と変では違いがあるようですが、諸説ありその境目が必ずしもはっきりしていません。ここでは、表記を梶原景時の乱に統一して書き進めてきます。

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梶原景時が源頼朝に臣従するまで

梶原氏は元々は源家に仕えていました。

しかし、源頼朝の父である源義朝が平治の乱(1159年)で敗死してからは、平家に仕えるようになります。

源頼朝は平治の乱後も生き延びることはできましたが、平家の監視のもと、伊豆で流人生活を送ります。

源頼朝が平家追討の兵を起こしたのは1180年で、伊豆国で目代を務めていた山木兼隆(やまきかねたか、不詳~1180年)を襲い殺害に及びます。

この事件を収めるために向かったのが、梶原景時と梶原氏と同族の大庭景親(おおばかげちか、不詳~1180年)です。

梶原景時と大庭景親は石橋山の戦いで源頼朝に勝ち、源頼朝は山中に潜みます。

源頼朝を捕縛するため、さらに梶原景時と大庭景親は探索の手を伸ばします。

そして、最初に洞窟に潜む源頼朝を発見したのは梶原景時。

梶原景時に発見された源頼朝は死を覚悟しますが、梶原景時は「ここにはいない」と周囲に知らせるばかりか、源頼朝に対して逃げ道の案内をします。

一緒にいた大庭景親は自分も確認しようと洞窟に近づくものの、これを押しとどめたのは梶原景時。結果として、源頼朝は逃げ延びることができています。

その後、源頼朝は安房国に逃れ再起。同年のうちに鎌倉の地に入ることができています。

このとき源頼朝を執拗に追いかけた大庭景親は捕らえられ最期を迎えます。

一方、梶原景時は許されるばかりでなく、臣従して御家人に加わり、後には鎌倉幕府の侍所所司に任じられ重用されます。

梶原景時が重用されるのは、第一に源頼朝を助けたということが考えられます。

しかし、それだけでなく梶原景時には教養がありました。

当時、源頼朝に従っていた武将の多くは、勇猛だが教養がないといわれていました。

その中にあって梶原景時には教養があり、実務能力にも優れていたことが、頭角を現す一因になったものと思われます。

時代は変わりますが、豊臣秀吉に仕えた石田三成とこのあたりは似ていたのかもしれません。
 
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源頼朝が亡くなるまで

梶原景時は、自らの意思あるいは源頼朝の命により、数々の事件に大きな関わりを持ち、その結果としてさらに源頼朝の信任を得て重用されていきます。

上総広常を謀殺

1184年、源頼朝の命を受けた梶原景時は、上総広常(かずさひろつね、不詳~1184年)を謀殺します。

この事件は、上総広常が源頼朝に対して謀反を企てているということで、源頼朝が先手を打ったものです。

謀反の企てについては、後に否定され、源頼朝も後悔したと伝えられています。

もっとも上総広常は、源頼朝が安房国で再起を図った頃より従っていた武将で、勢力も大きく戦功も多大なものがありました。

その勢いをかってかどうかはわかりませんが、源頼朝に対しても不遜な態度を示すことが多く、源頼朝にとって目障りな存在になりつつありました。

謀反を疑ったのか、あるいは邪魔な存在を駆逐したかったのかどうかははっきりとしないものの、少なくとも梶原景時が源頼朝の信任を受けていたのは間違いないようです。

宇治川の戦い

梶原景時の評価を一層高めたのが1184年の宇治川の戦いです。

宇治川の戦いは、源頼朝よりも一足早く京都に入った源義仲(みなもとのよしなか、1154年~1184年)との争いです。

源義仲は京の地から平家を追い出すことに成功したものの、源義仲の軍が乱暴狼藉を続けたことで後白河法皇とも対立をしていました。

後白河法皇の命を受け軍を起こしたのが源頼朝で、源頼朝の弟である源範頼〈みなもとののりより、1150年~1193年)や、源義経(みなもとのよしつね、1159年~1189年)などが実際に戦ったのが宇治川の戦いです。

戦いは源範頼や源義経の勝利に終わり、源義仲は北陸に逃れると途中、源範頼の軍に討たれ最期を遂げます。

宇治川の戦いには、梶原景時も参陣しています。

そして、各将が鎌倉にいる源頼朝に報告をします。

このとき、源範頼や源義経などが「勝った」という簡単な報告であったのに対し、梶原景時の報告は討ち取った武将、源義仲の最期の様子など事細かなものであったといわれています。

源頼朝としては、細かで正確な情報を知りたかったところ。

それを満たした報告をしたのが梶原景時だけだったことから、源頼朝は梶原景時の武将としてだけでなく、実務能力の高さを認めることになります。

源義経との対立

源義仲を倒した源頼朝は平家追討に乗り出します。

ここで源氏の中で起こったのが、源義経と梶原景時の対立です。

平家追討の当初、梶原景時は源義経の配下につきますが、すぐに源範頼の配下へ移っています。

この頃から、梶原景時と源義経の相性はよくなかったようで、その後の戦いでも二人は意見の対立を見ることが多かったようです。

たとえば、屋島の戦いでは源義経のことを大軍を率いるのにはふさわしくない猪武者。

壇ノ浦の戦いで先陣に立とうとする源義経を将の器ではないと、梶原景時は源義経を酷評しています。

また、梶原景時が源頼朝に送った報告書では、源義経は傲慢で配下の言うことを聞こうとしない。

戦いが終わったら、一刻も早く源義経の元を離れ、鎌倉へ戻りたいという趣旨のことを書き連ねます。

これが、梶原景時の讒言と言われるものですが、他の武将で異を唱える者もいなかったことから、源頼朝は梶原景時の言を信じ源義経を疎んじます。

梶原景時の讒言だけではないかもしれませんが、源頼朝と源義経は離反し、1189年源義経は奥州の地で最期を迎えます。

侍所別当に就任

1192年、梶原景時は前任の和田義盛(わだよしもり、1147年~1213年)に代わり、鎌倉幕府の侍所別当に就任をします。

一説には、和田義盛を欺き、侍所別当の座に就いたとも言われています。

なお、侍所とは軍事や警察の役割を持つ組織で、別当はその長官です。

梶原景時は、鎌倉幕府の御家人の中で最高の権力を握るようになります。

この頃より、源頼朝が亡くなるまでの間が、梶原景時の絶頂期であったのではないでしょうか。
 
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梶原景時の乱

1199年、源頼朝が亡くなります。

鎌倉幕府第2代将軍となったのは源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)で、梶原景時は引き続き源頼家に重く用いられます。

しかし源頼家の失政が重なったため、将軍就任後の数ヶ月で実権を取り上げられ、幕府の運営は十三人の合議制機関に移行をします。

梶原景時も十三人の合議制機関のメンバーに加わります。

ただ、この合議制機関は話し合いで幕政を運営するというよりも、熾烈な権力闘争の場でした。

鎌倉幕府の有力御家人の一人であった結城朝光(ゆうき ともみつ、1168年~1254年)は、源頼家の失政を嘆き「源頼朝が亡くなったときに自分も出家しておけばよかった」と語ります。

このことを聞いた梶原景時は、源頼家を貶めるようなものだと讒言して、厳しい罰を与えることを求めます。

しかし、梶原景時の讒言を知った御家人は怒り、梶原景時を追放するため、三浦義村や和田義盛などが66人の連署を作成し、源頼家に差し出します。

事の経緯を知った梶原景時は所領の相模国一ノ宮の館に蟄居し、十三人の合議制機関から離脱、翌1200年に一族を率いて相模国一ノ宮に西に向かいます。

この理由ははっきりとはしていませんが、鎌倉幕府を離れて朝廷に仕えようとしていた。

あるいは、九州に向かい兵を集め、西国から鎌倉幕府を倒そうとしていたなど、いくつかの説があります。

しかし梶原景時は駿河国で在地の武将と諍いを起こし自害。一族も多くが討ち死にをしています。

鎌倉幕府に反旗を翻したということで一連の戦闘を梶原景時の乱としていますが、実際に反旗を翻したのかは定かではなく、さらに鎌倉幕府が追手を差し向けて梶原景時を討ち果たしたということでもなさそうです。

梶原景時の乱は少しばかり不思議な戦いと言えそうです。
 
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さいごに

この記事では、梶原景時の乱までの経緯や最期などをわかりやすくお伝えしてきました。

源義経の人気がとりわけ高かった時代は、源義経が善、梶原景時は悪ということで、梶原景時が実像以上に悪く言われるようなことも多かったようです。

今ではそこまでの意見は少ないかもしれませんが、梶原景時の讒言は有名で、すべてが事実ではないとしても、ある程度、そうした行為はあったものと考えられます。

また、梶原景時失脚の原因となった連署にしても、多くの御家人が名を連ねている事実を見ると、単なるやっかみなどではなく、多くの人の怨嗟の対象になっていたとも思われます。

梶原景時は源頼朝の命を助け、武だけではなく実務能力にも秀でていました。

そのため源頼朝に重用されていたのは確かですが、次第に傲慢になり、それが周囲の人から見て「虎の威を借る狐」のように見えていたのかもしれません。

それにしても源頼朝が亡くなって後、すぐに失脚してしまった事実の裏には、相当に根深いものがあったように思われます。

 
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