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日本三大仇討ちとは曽我兄弟と伊賀上野と浄瑠璃坂だった

鍵屋の辻
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日本三大仇討ちとは

この記事では、日本三大仇討ちについて書こうとしています。

ところで、日本三大仇討ち。その3つの仇討ちには、どれが入るのでしょうか。

日本三大仇討ちについては、はっきりと定まっているわけではありません。ただ、次の2つの説が有力なようです。

日本三大仇討ちについての第1の説は、日本三大仇討ちを曽我兄弟の仇討ち、伊賀上野の仇討ち、赤穂浪士の忠臣蔵とするもの。

第2の説は、日本三大仇討ちを曽我兄弟の仇討ち、伊賀上野の仇討ち、浄瑠璃坂の仇討ちとするものです。

どうやら日本三大仇討ちのうち、曽我兄弟の仇討ち、伊賀上野の仇討ちの2つは確定的。残る一つが、赤穂浪士の忠臣蔵または浄瑠璃坂の仇討ちになりそうです。

第1の説を否定して第2の説を日本三大仇討ちと考える人は、赤穂浪士の忠臣蔵は厳密にいえば仇討ちではない。

だから、赤穂浪士の忠臣蔵を外して、浄瑠璃坂の仇討ちを日本三大仇討ちに入れるというものです。

この記事では日本三大仇討ちのうち、あまりにも有名な赤穂浪士の忠臣蔵を除いて、つまり第2の説を日本三大仇討ちと仮定して、それぞれの仇討の概略を簡単にご紹介していきます。

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日本三大仇討ち1 曽我兄弟の仇討ち

曽我兄弟の仇討ちは1193年に起きた仇討です。

時代でいえば鎌倉時代初期。源頼朝が鎌倉幕府の初代将軍として活躍をしていた時期になります。

簡単に言えば、曽我兄弟の仇討ちは、曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討ち取った事件です。

曽我兄弟の仇討ちの端緒は、工藤祐経と伊東祐親の所領争いです。

工藤祐経は伊東祐親の暗殺を企てますが、伊東祐親を討ち果たすことなく、代わりに伊東祐親の嫡男であった河津祐泰を殺害します。

河津祐泰の妻は後に曽我祐信と再婚。河津祐泰とその妻の間に生まれた2人の男子も曽我姓を名乗ることになります。

工藤祐経は源頼朝の下で御家人にまで出世をします。

一方、曽我祐信の子となった曽我兄弟は困窮の生活を送ります。

それでも長男の一萬丸は曽我家を継ぎ曾我十郎祐成となり、次男の箱王丸は箱根権現社の稚児となります。

箱王丸が箱根権現社の稚児となったのは父の菩提を弔うためのものですが、箱王丸自身はこれを嫌い、親せきであり時の権力者の一人であった北条時政の元に身を寄せます。

結果的に北条時政が烏帽子親となり、箱王丸は曾我五郎時致となります。

曾我十郎祐成も曾我五郎時致も父の仇討ちを画策していたところ、1193年5月に源頼朝が富士の裾野で大規模な巻狩りを実施。

その巻狩りに工藤祐経も参加することを知った曽我兄弟は、工藤祐経の寝所に忍び込み、とうとう工藤祐経を討ち果たすことに成功します。

兄の曾我十郎祐成はその場で討死。弟の曾我五郎時致は取り押さえられますが、後に斬首をされます。

曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟は父の仇である工藤祐経を討ち果たすことに成功はしたものの、結果的に曽我兄弟も命を落としてしまう。

それが曽我兄弟の仇討です。

ところで曽我兄弟の仇討は、思わぬ悲劇をもたらします。

それは、曽我兄弟の仇討をきっかけとして、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が実弟の源範頼を死に追いやったというものです。

また、この事件は源頼朝の正室北条政子が関与していたという噂もあります。

詳しくは、以下の記事を参考になさってください。

 
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日本三大仇討ち2 伊賀上野の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)

仇討のイメージイラスト
伊賀上野の仇討ちは、伊賀越えの仇討ちあるいは鍵屋の辻の決闘などとも言われています。伊賀上野の仇討ちは、江戸時代の初期1634年に起きた事件です。

ことの発端は色恋沙汰。ただし、男女ではなく、男子同士の色恋沙汰です。

1630年における岡山藩主は池田忠雄。この藩主が愛したのが小姓の渡辺源太夫です。しかし、渡辺源太夫を愛していたのは藩主だけではありません。

藩士の河合又五郎も渡辺源太夫に強い興味を持ち、渡辺源太夫に迫っていました。

渡辺源太夫は河合又五郎の要求を拒否、怒った河合又五郎は渡辺源太夫を殺害して自らは脱藩、江戸の旗本安藤正珍の元に身を寄せます。

江戸時代の初期は往々にして大名と旗本の諍いがありましたが、この件も外様大名と旗本の争いに発展します。

問題が解決しない間に岡山藩主の池田忠雄が死去。後継の池田光仲は鳥取藩へ国替え。

また、争いの相手であった旗本は謹慎、かくまわれた河合又五郎は江戸追放となります。

通常はこれで終わるはずでしたが、問題は前藩主池田忠雄の遺言。

池田忠雄は遺言で河合又五郎を討ち果たすようにと命じたことから、普通の仇討ではあまり考えられない兄である渡辺数馬が弟渡辺源太夫の仇討をすることになり、渡辺数馬は脱藩をします。

もっとも渡辺数馬は武士でありながらも剣術は苦手。そこで渡辺数馬は、妹婿の荒木又右衛門に助太刀を依頼します。

渡辺数馬が仇討を決行したのは1634年。

河合又五郎が奈良から江戸へ向かうことを知った渡辺数馬と荒木又右衛門とその門弟の合計4人は伊賀上野の鍵屋の辻で待ち伏せ。

敵の存在を事前に知っていた河合又五郎も、合計で11人の大人数で江戸に向かいます。

伊賀上野の鍵屋の辻で、渡辺数馬たち4人は河合又五郎たち11人に襲い掛かります。最終的に渡辺数馬が河合又五郎を討ち果たして仇討ちは成就します。

その後、渡辺数馬や荒木又右衛門たちは藤堂藩にお預けとなり、4年後に鳥取藩に引き取られます。

もっとも荒木又右衛門は鳥取藩に引き取られた直後に死亡が公表されたことから、今でも暗殺などが疑われているようです。

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日本三大仇討ち3 浄瑠璃坂の仇討ち

浄瑠璃坂の仇討ちは1672年に起こります。ことの発端は1668年。宇都宮藩で前藩主の法要の時に出席者同士の間で争いが始まります。

当事者の一人は奥平内蔵允、もう一人は奥平隼人です。

口論から始まった喧嘩は奥平内蔵允が奥平隼人に刀を振るったことで刃傷沙汰に発展。

先に手を出したのは奥平内蔵允ですが、返り討ちに会って奥平内蔵允はケガをします。そして、その夜、奥平内蔵允は切腹をします。

事を重く見た宇都宮藩は2人に処分を下します。

具体的には当事者の一人である奥平隼人は改易。一方、奥平内蔵允の遺児である奥平源八は家禄没収の上、追放となります。

しかし、奥平内蔵允が既に切腹しているのに対して、奥平隼人は改易。当時の喧嘩両成敗という考え方からしたら、奥平隼人も切腹でなければおかしい。

そのように考えた藩士も多かったようで、牢人となったうえで奥平源八の味方になった人もいたようです。

奥平隼人は改易後、江戸の戸田七之助の元に身を寄せます。このことを知った奥平源八は総勢43名で戸田氏の屋敷に乗りこみます。

この段階で奥平源八は奥平隼人の父を討ち果たすものの、奥平隼人を討ち果たすことはできませんでした。

しかし、戸田氏の屋敷を退去後、追いかけてきた奥平隼人と対峙。見事、父の仇討に成功します。

仇討ち成就後、奥平源八は幕府に出頭、大島に流罪という処分に落ち着きます。

大島で生活すること約6年、奥平源八は恩赦により流罪を許され、その後は彦根藩に仕えています。

日本三大仇討ちで赤穂浪士の忠臣蔵を除いた理由とは

日本三大仇討ち。一般的には曽我兄弟の仇討ち、伊賀上野の仇討ち、赤穂浪士の忠臣蔵の3つと言われています。

もちろん、このことを否定するつもりはありません。

ただ、この記事では日本三大仇討ちを曽我兄弟の仇討ち、伊賀上野の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)、浄瑠璃坂の仇討ちの3つとしてご紹介をしてきました。

その理由はただ一つ。赤穂浪士の忠臣蔵は本当に仇討になるのだろうか。そんな疑問があったからです。

赤穂浪士の忠臣蔵は、確かに赤穂藩の旧臣がかつての主君である浅野内匠頭の仇を取るために吉良上野介を討ち果たした出来事です。

そこだけをとらえれば赤穂浪士の忠臣蔵は日本三大仇討ちどころか、日本史上最大の仇討ちと言えるのかもしれません。

しかし考えようによっては赤穂浪士の忠臣蔵での加害者は、江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭と考えることもできます。

そうなると赤穂浪士の忠臣蔵は仇討ではなく、喧嘩両成敗という不文律を冒した幕府への不満の爆発と考えられなくもありません。

多くの人が赤穂浪士の忠臣蔵を日本三大仇討ちと考えていて、それももっともだとも思えますが、そのような理由から赤穂浪士の忠臣蔵を日本三大仇討ちから外してご紹介をしました。

 
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