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木曽義仲と巴御前
木曽義仲(きそよしなか、1154年~1184年)は源氏の流れを汲む武将で、栄華を誇っていた平家を京からの追い落としに成功。しかし、朝廷との軋轢や、京での失政があり、ごく短期間で同族の源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)が派遣した兵に敗れ討死しています。
ところで木曽義仲で、よく聞かれるのが巴御前(ともえごぜん)という女性です。
巴御前は、生没年不詳で、木曽義仲との関わり合いが確認できるのも、わずかな場面に限られています。
しかも、巴御前の名が見られるのは後世の軍記物が中心で、一級と言われる史料にその名前を見ることはできません。
しかし、一方では各地に巴御前の墓所が確認されています。
果たして、木曽義仲と巴御前はどのような関係だったのでしょうか。この記事では、木曽義仲の生涯を中心に、巴御前との名場面について触れていきます。
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木曽義仲が京に入るまで
木曽義仲は、源義賢(みなもとのよしかた、不詳~1155年)の次男として誕生。源義賢は、源為義(みなもとのためよし、1096年~1156年)の次男です。源為義の長男で、源義賢の兄が源義朝(みなもとのよしとも、1123年~1160年)。
源義朝と源義賢は兄弟です。
したがって、源義朝の子で後に鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)と、木曽義仲は従兄弟になります。
木曽義仲が誕生した当時、父の源義賢は武蔵国大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に居を構えていました。
しかし1155年に、源義朝と源義賢兄弟が対立し、源義朝の長男である源義平(みなもとのよしひら、1141年~1160年)が大蔵館を襲撃。
源義賢は、源義平に討ち取られます。
当時2歳だった木曽義仲にも死の危険が迫っていましたが、どうにか信濃国木曽谷に逃れることができています。
木曽義仲は源氏の出であり、本来は源義仲ですが、木曽谷で育ったことから木曽義仲の名で知られています。
さて、1180年になると平家の横暴に業を煮やした以仁王(もちひとおう、1151年~1180年)が平氏を倒すべきとの令旨を発します。
また、この時に平氏政権の中にあっても地位を保っていた源行家(みなもとのゆきいえ、1141年~1186年)は、以仁王に同調し全国の源氏に決起を呼びかけます。
呼びかけに応じた源氏の一人が木曽義仲です。
木曽義仲は早くも1180年に挙兵。
1181年には木曽の地から越後へ、さらに北陸に兵を進めるとともに、すでに亡くなっていた以仁王の遺児・北陸宮(ほくりくのみや、1165年~1230年)の擁護を唱えます。
ここまで木曽義仲と源頼朝に直接の接点はなく、関係性もそれほど悪くはありませんでした。
しかし、源頼朝と関係が悪化した志田義広(しだよしひろ、不詳~1184年)と、源行家が木曽義仲を頼ってきて状況は変わります。
志田義広は、源為義の三男。源義朝や源義賢の弟で、源頼朝にとっても木曽義仲にとっても叔父にあたる人物です。
また、源行家は源為義の十男。志田義広と同じく、源頼朝や木曽義仲の叔父になります。
2人の叔父が源頼朝の元を離れ、木曽義仲を頼り、さらに木曽義仲が2人を擁護したことから、源頼朝と木曽義仲の関係は一気に悪化。
源頼朝と木曽義仲の間では武力衝突の可能性もありましたが、木曽義仲が嫡男の木曽義高(きそよしたか、不詳~1184年)を、源頼朝の子である大姫(おおひめ、1178年~1197年)に婿入りさせるということで決着。
源頼朝と木曽義仲の直接的な対立を避けることはできましたが、この出来事が後年の木曽義高と大姫の悲恋につながっていきます。
その後、平氏は大軍を率いて北陸に向かいます。
当初は平氏方が優勢であったものの、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が大勝利をおさめ京都へ進軍。
平氏も防戦に努めたものの、最後は京を離れ西国に逃れ、代わりに木曽義仲が京の地に入ります。
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木曽義仲が失脚するまで
木曽義仲は入京後、後白河法皇(ごしらかわほうおう、1127年~1192年)により、平氏追討を命じられています。また、京の治安を命じられるとともに任官、さらに朝日将軍という称号をも得ます。
もっとも、木曽義仲が輝いていたのはこの辺りまでで、その後は失政を重ねていきます。
失政の第一は朝廷との軋轢です。
後白河法皇は、平氏とともに西国に逃れた安徳天皇(あんとくてんのう、1178年~1185年)に代わり、先代の高倉天皇(たかくらてんのう、1161年~1181年)の子を天皇に擁立することを考えます。
一方、木曽義仲は以仁王の子である北陸宮の擁立を強く押します。
しかし皇室の伝統にしたがえば、天皇の子を天皇にするのは当然のこと。
さらに、皇位継承問題に意見を述べられるのは、皇族又は貴族に限られ、武将にその権限はないとも考えられていました。
最終的に高倉天皇の子が即位をしたものの、この件で朝廷と木曽義仲の関係は悪化します。
失政の第二は治安維持の失敗です。
朝廷より京の治安維持を命じられていましたが、木曽義仲の大軍は戦いに疲れていたばかりでなく、兵糧も十分ではありませんでした。
そのため治安を維持するための軍が、逆に略奪行為に及ぶありさまで、民の恨みをかいます。
この状態を見かねた後白河法皇は木曽義仲を叱責。
京に留まることが難しいと考えた木曽義仲は、平氏追討をさらに推し進めるため、西国に出陣します。
そのころ後白河法皇の元に届いたのが源頼朝からの書状です。
書状には書いてあったのは、平氏や木曽義仲の横暴ぶりとは異なり、朝廷を安堵させるものであったことから、源頼朝は後白河法皇の信を得て、さらに源頼朝の軍勢が京に向かうことになります。
西国に軍勢を進めていたものの木曽義仲は苦戦をしていました。
そこでもたらされたのは、後白河法皇が木曽義仲を見限り、源頼朝を重用するというもの。木曽義仲の敵は平氏ではなく、源頼朝に置き換わりつつありました。
木曽義仲と巴御前の名場面
京に戻った木曽義仲に対して、源頼朝に命じられた源義経の軍勢は不破の関(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)まで進出してきました。また、後白河法皇も木曽義仲を京から追い出すための画策をします。
窮地に陥った木曽義仲は後白河法皇に対して弁明し、聞き入られないことを悟ると後白河法皇を幽閉。
さらには前関白松殿基房(まつどのもとふさ、1144年~1231年)の子を摂政にする傀儡政権を樹立。傀儡政権より源頼朝追討の文書を発給させます。
この時点までの木曽義仲は追いつめられていたものの、京の地を抑えていたため有利に事を進められる場面もありました。
しかし1184年になると、源範頼や源義経の軍勢が美濃国に進出。
やむを得ず木曽義仲も軍を進めますが、朝廷からの信を失っていたため集まった兵も少なく宇治川の戦いで惨敗。
その後、落ち延びていく途中、粟津の戦い(現在の滋賀県大津市)で討死します。
木曽義仲が京に入ったのは1183年7月、最期を遂げたのが1184年3月。僅か数か月で、栄光の座を滑り落ちたことが分かります。
ところで、巴御前が登場するのは、木曽義仲が大敗を喫した宇治川の戦いです。
巴御前は木曽義仲に仕える女武者であると同時に、木曽義仲の妾であると伝えられています。
木曽義仲には正室がいたので、巴御前が正室でなかったのは確かなようです。
また当時は数は少ないながらも女性が戦場に登場していたこともあったようで、巴御前は怪力と弓の名手で知られていました。
木曽義仲は宇治川の戦いで惨敗しましたが、まだ数名の武将がしたがっていて、その中には巴御前の姿もありました。
木曽義仲は巴御前に、「(自分の)死に際して、その場に女性がいたとなると心苦しい。すぐに戦場を離れてくれ。」と話します。
対して巴御前は「最後の戦をしてからこの場を立ち去る。」と語り、実際に敵将の一人を倒したのち木曽義仲と別れています。
その後の巴御前の行方は定かではありません。
越後へ逃れ木曽義仲を弔うために尼になったという説、あるいは鎌倉幕府の有力御家人和田義盛の妻になったという説などがあります。
また巴御前の墓と伝えられている場所も、東国を中心に複数個所あることが伝えられています。
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さいごに
この記事では、木曽義仲の生涯を中心に巴御前についても触れてきました。冒頭でお伝えした通り、巴御前について書かれた史料は数少なく、巴御前が登場するのもほんの数回。
宇治川の戦いの場面だけではありませんが、巴御前が登場する場面はわずかにとどまっています。
巴御前は生没年不詳で、はっきりとした事績もわかりませんが、お墓が複数残っていることを考えると、実在の人物であったのは確かなようです。
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