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日本史

源頼朝の死因とは!落馬説や暗殺説などの根拠をご紹介します

源頼朝公の銅像

はじめに

この記事では、源頼朝の死因についてお伝えします。

源頼朝は落馬が元で亡くなったとされていますが、落馬ではなく暗殺された、あるいは病気が元で亡くなったなどとも言われています。

そこで、落馬説・暗殺説・病気説などの、それぞれの根拠をご紹介することにしました。

複数の死因が言われているということは、確定できるほどの史料がないからということですが、それぞれの説にはそれなりの根拠があるようです。

源頼朝落馬説の根拠と疑われている理由

源頼朝が落馬が原因で亡くなったという根拠は『吾妻鏡』の記述が元になっています。

吾妻鏡は、源頼朝が挙兵をした頃から、鎌倉幕府第6代将軍が入洛するまでの約90年間を編年体で記した書物で、完成したのは鎌倉時代末期の1300年頃と言われています。

吾妻鏡は徳川家康が愛読したほど有名な書物で、鎌倉幕府の公式記録とも言われています。

その吾妻鏡に、源頼朝は落馬が元で亡くなったという記述があります。これが源頼朝落馬説の根拠になっています。

もっとも吾妻鏡は、後で作られたものであることや、時の権力者である北条氏の視点から書かれているもので、信ぴょう性については注意が必要とも言われています。

源頼朝が亡くなったのは1199年。

しかし、編年体でありながらも吾妻鏡の記述は1198年で一旦終わり、1199年については記述がありません。

では、源頼朝が落馬したというのがいつ書かれたのかというと1212年。源頼朝が亡くなって13年後です。

これではまるで回想録。

鎌倉幕府の公式記録とも言われる吾妻鏡に、源頼朝の死がかなり遅く出てきたことは不自然ということで、落馬説については疑いが持たれています。

ただ、吾妻鏡は既に室町時代初期には欠落していて、完本でなかったとも言われています。

現在の吾妻鏡は、吾妻鏡を信奉する徳川家康により改めて収集されたものですが、それでもすべてが見つかったわけではなく1199年以外にも欠落している部分が存在している。

したがって、源頼朝が亡くなった当時の記述がみられないのは、必ずしも故意ではないという意見もあります。

落馬説が疑われている理由は他にもあります。

源頼朝は少年期まで京で過ごし、公家の文化にもなじんでいます。しかしながら、あくまでも武家の棟梁なので、乗馬ができないとは考えられません。

当時の馬は今よりもはるかに小さく、源頼朝は長身であったと伝えられています。

吾妻鏡の記述によれば、源頼朝は相模川に架けた橋の開通記念行事の折、馬が暴れだして落馬したとされていますが、乗馬能力や馬の体格を考えると落馬したというのは不自然です。

もっとも、落馬説を肯定する意見として溺水説があります。

これは公家の日記の記述で、「飲水で病が重くなった」という部分で、後述しますが一般的には糖尿病説の根拠になっています。

しかし、何かの原因で橋の途中で落馬し川に落ちたとしたら、大量の水を飲んだという可能性は否定できませんし、そこから肺炎などの病気を発症させた可能性もあります。

これは吾妻鏡の落馬説と、貴族の日記から大量の水を飲んだという説を融合したもので、落馬説を後押しした考えと言えそうです。

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源頼朝暗殺説の根拠

源頼朝は、源氏の御曹司でありながらも、実態は一介の流人でした。

平氏打倒の機運が高まり世に出る機会を得、打倒に成功もしますが、それは取り巻く豪族たちの力によるものです。

つまり、源頼朝は武家の棟梁という立場であったものの、豪族たちから見たらお神輿のような存在だったともいえます。

源頼朝は長女の大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようとします。結果的に計画はとん挫し、大姫も病気で亡くなります。

しかしこの行為は、かつての藤原氏や平氏がとった行動と同じで、源頼朝は天皇の外祖父として自らも貴族になることを意味していました。

鎌倉幕府はすでに成立し軌道に乗ろうとしています。豪族たちも有力御家人として幕府で重要な役割を果たしています。

源頼朝が将軍として君臨するのは是としても、御家人たちは源頼朝が公家化することも、積極的な統治をすることも望んでいなかったのかもしれません。

しかし源頼朝は朝廷に接近し貴族化を図り、政治にも積極的に関わります。このことは坂東武士といわれた有力御家人にとって、明らかな裏切りですし失望にもなります。

源頼朝が有力御家人の意に背き、鎌倉幕府の土台が揺らぐ前に実行されたのが、源頼朝暗殺ということです。

また源頼朝の後を継ぎ将軍となったのは源頼家ですが、源頼朝が亡くなった年のうちに鎌倉殿の13人という合議制の機関ができます。

これは源頼家の実権を取り上げ、幕府の運営を有力御家人で行うというものですが、このことも源頼家には政治をさせないという、有力御家人の考えを示したものかもしれません。

なお、源頼朝暗殺の背景としては、源頼朝の貴族化という説が最有力ですが、別の説としては源頼朝浮気説があります。

これは、源頼朝の浮気癖が治らないことに激怒した妻の北条政子が、暗殺を謀ったというものです。

では、それぞれの説の実行犯はだれでしょうか。

源頼朝が朝廷に接近したことが暗殺の理由だとしたら、実行犯は有力御家人の誰か、あるいは総意ということも考えられます。

また、鎌倉幕府は結果的に北条氏が執権として統治するようになりますが、そのことを考えると有力御家人の中でも、とりわけ北条氏が怪しいということになりそうです。

一方、源頼朝浮気説が理由だとしたら、やはり北条政子の実家である北条氏が一番怪しいといえそうです。

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源頼朝糖尿病説の根拠

源頼朝と概ね同時代を生きた、藤原家実(1179年~1243年)の『猪熊関白記』という人物の日記に、先ほどの「飲水で病が重くなった」という記述があります。

糖尿病は水を多く飲む傾向がありますが、ここから源頼朝糖尿病説がでてきます。

糖尿病が死因になるというよりも、糖尿病の合併症により死亡したということは考えられます。

たとえば、糖尿病で足が不自由になり馬の操作を誤った、あるいは視力低下により落馬をしたなどが考えられます。

糖尿病説は猪熊関白記、落馬説は吾妻鏡によるもので、この2つを併せると、源頼朝は糖尿病のため落馬し、それが亡くなる原因となったとなります。

なお、水を多く飲む病気としては尿崩症がありますが、この病気が死に結び付いたという説もあります。

まとめ

源頼朝の死因は、吾妻鏡に記述されていることから落馬説が有力です。

しかし、吾妻鏡には落馬してから亡くなるまでの経緯についての記述がありません。これは、鎌倉幕府の初代将軍への対応としては不自然です。

また、その記述でさえも源頼朝が亡くなった13年後に書かれたものです。

吾妻鏡は欠落した部分があったとはいえ、それでも13年後に源頼朝の死について述べるのは不思議な気がします。

そんなところから出てきたのが、源頼朝暗殺説で、こちらは落馬説よりはるかに根拠は薄弱です。

しかし、源頼朝と有力御家人の関係を考えると、暗殺説も否定しがたいものがあります。

また、源頼家の後を継いだ二代将軍源頼家は、有力御家人である北条氏と比企氏の勢力争いに巻き込まれ、死に追いやられています。

さらに、源頼家の弟で、源頼家の死後三代将軍になった源実朝は、源頼家の遺児公暁に暗殺されます。

こちらについては、公暁単独犯説が有力ですが、後ろで北条氏がそそのかした結果の事件だという説もあります。

そのことを考えると、源氏の3人の将軍は家人である有力御家人の犠牲になったとも考えられます。

それ以外では、糖尿病などの病気が原因で落馬し、それが元で死に至ったという説もあります。

単なる落馬では武士として名誉なことではありませんが、病気が原因であれば仕方のないことだという解釈もできます。

他には、平家一門、安徳天皇、源義経、源範頼、藤原泰衡などの怨霊説もありますが、記載は省略させていただきます。

歴史上有名な人物であっても、最期についてはわからないことはままあるものです。

だから歴史は面白いのかもしれませんが、一方、源頼朝の正確な死因は永久にわからないかもしれないですね。

 
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