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はじめに
北条政子(ほうじょう まさこ、1157年~1225年)は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)の妻で、2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)や、3代将軍源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)の母でもあります。確かに後世に名を残しても不思議ではありませんが、一方、この時代の女性が名を残すのも稀有なことです。
北条政子については、悪女という噂がつきまといますし、実際に後世の日野富子(ひのとみこ、1440年~1496年)や、淀殿(よどどの、1569年~1615年)と並び、日本三大悪女の一人としてあげる意見もあります。
そこで、この記事では北条政子が悪女といわれるようになったエピソードを3つご紹介することにしました。
北条政子は悪女だったのでしょうか。
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悪女エピソード1 亀の前
1177年頃に婚姻をした源頼朝と北条政子ですが、1182年に2人目の子を懐妊します。ところが、源頼朝は亀の前(かめのまえ、生没年不詳)という女性を寵愛するようになります。
このことを知った北条政子は激怒。亀の前が住んでいた邸を打ち壊すとともに、亀の前を追い出してしまいます。
当時の風習として、ある程度の立場を持つ公家や武家は一夫多妻が当たり前でした。
伊豆国で流人生活を送っていたとはいえ、幼少期は京都に住んでいた源頼朝。また、源頼朝自身、源氏の嫡流として血筋も申し分ないものでした。
そんな源頼朝が複数の女性を寵愛するのは、むしろ普通のことでした。
また、北条政子の父で地方豪族の一人にすぎない北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)も複数の妻妾がいて、多くの子供を設けていました。
当時の公家や武家が妻妾を抱えていた目的の第一は、多くの子供を設け一族の勢力を維持・拡大すること。
そうした時代背景を考えると、北条政子のとった行動はむしろ常識外れ。
常識外れの行為を行った北条政子は、この一事をもって、強烈な嫉妬深さを印象付けるとともに、一族の繁栄を阻止した悪女と考えられるようになります。
悪女エピソード2 源範頼
1193年、源頼朝は現在の静岡県富士宮市で、シカやイノシシを集団で狩猟する大規模な巻狩りを催します。巻狩りは10日以上にわたって行われますが、最終日に起きたのが日本三大仇討の一つに数えられる曾我兄弟の仇討ちです。
曾我兄弟の仇討ちは、曾我祐成(そがすけなり、1172年~1193年)と曾我時致(そがときむね、1174年~1193年)兄弟が、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね、1147年~1193年)を討ち果たして事件で、現場は大混乱します。
曽我兄弟の仇討ちの報は、鎌倉の北条政子の元にも伝えられますが、その内容は源頼朝が亡くなったというもの。
このとき、傍らにいた源頼朝の弟源範頼(みなもとののりより、1150年~1193年)は、北条政子に「兄(源頼朝)が亡くなっても私がいますからご安心ください。」と言葉を掛けます。
無事に鎌倉に戻った源頼朝は、北条政子からこの言葉を聞き、自分(源頼朝)の地位を狙っていると猜疑心にかられたあげく源範頼を追放します。
このことだけで北条政子を悪女とするのは疑問の残るところですが、実は北条政子の虚言、あるいは北条政子による源範頼追い落としの陰謀であったという説もあります。
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悪女エピソード3 源頼家・比企氏一族
1199年、源頼朝は不慮の死を遂げ、後継になったのが源頼家です。しかし、源頼家は独断専行が目立ったことから、すぐに鎌倉殿の13人と言われる合議制の機関が作られ、実権が取り上げられてしまいます。
そのことが原因になったのか、源頼家の心は遊興に向かい、とりわけ蹴鞠に強い興味を覚えます。
蹴鞠は公家の遊びとして一般化していましたが、武士の棟梁が好んでするべきものではないと考えた北条政子は諫めます。
しかし、源頼家は諫言を聞こうとはしません。
また、源頼家は北条政子の実子ではあるものの、乳母父を務めていたのは有力御家人の比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)。
さらに比企能員の娘と源頼家の間には、長子の一幡(いちまん、1198年~1203年)も誕生していました。
源頼家により近いのは北条政子の父北条時政よりも比企能員。この時点では、北条氏よりも比企氏が権勢を誇っていたと考えられます。
1203年、源頼家は病床につき、一時は危篤の状態に陥ります。
この時、北条時政と娘の北条政子は源頼家を廃し、源頼家の子の一幡と、北条政子の実子で源頼家の弟源実朝の二人で、日本を分割して治めることを画策します。
北条時政と北条政子の陰謀を知った比企能員は、危篤状態を脱した源頼家に通報。
自らの立場を危うくする北条時政と北条政子に源頼家も激怒し、比企能員に北条氏討伐を命じます。
しかし、この密議を盗み聞きしていた北条政子は、北条時政に通報。
北条時政は、比企能員を自邸に招きます。
源頼家との密議が露見していることを知らない比企能員は、北条時政邸に出向き、そこで討たれています。
さらに、北条時政は比企氏一族を滅ぼすとともに、北条政子にとって孫にあたる一幡も討伐してしまいます。
その後、源頼家は健康を回復しますが、比企氏滅亡と一幡の死を知り激怒。しかし、時すでに遅く、源頼家は北条政子の命により出家。
さらには、伊豆の修善寺に幽閉され、1204年に北条氏の手により最期を遂げています。
この一連の流れについては異説もあるものの、比企氏の滅亡や、一幡や源頼家の死は事実で、すべてにおいて北条政子が強く関与していたと考えられています。
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まとめ
北条政子は日本三大悪女の一人に数えられることが多い女性で、それを裏付けるようなエピソードも散見されます。この記事では、北条政子が悪女といわれるようになったエピソードを3つご紹介しました。
エピソードを見ると、北条政子は当時としてはかなりの嫉妬深い女性であることが伺えます。
また、北条の家を守るために、自分の子や孫を死に追いやったのも、どうやら間違いないようです。
そうした意味で、北条政子は悪女と言われても仕方ない側面もあるようです。
一方、この記事ではご紹介していませんが、慈しみの深い女性であるというエピソードも残っています。
もしかしたら、北条政子は愛情深く、感情の振幅がとりわけ大きい女性ではなかったのでしょうか。
また、北条政子は激動の時代を生き抜き、源頼朝とともに作った鎌倉幕府を安定に導いたのも事実で、後世、その手腕を大きく評価する意見も見受けられます。
何れにしても後世にこれだけ知られている女性はそうはいません。北条政子はやはり傑出した人物と言えるのではないでしょうか。
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