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阿野全成事件のいきさつや結末などを簡単解説します!

醍醐寺の山門
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阿野全成事件とは

鎌倉幕府が創設されて間もなくの頃、阿野全成事件が起こります。

阿野全成事件の中心人物となったのが阿野全成(あのぜんじょう)です。

鎌倉幕府の最初の頃は幕府の内部抗争も激しいものがありましたが、阿野全成事件もその一つに数えられます。

この記事では、阿野全成事件発生までのいきさつ、阿野全成事件の結果などについて簡単にお伝えしていきます。

阿野全成の出自

知名度は高くないものの、阿野全成は出自が確かな人物です。

鎌倉幕府の初代将軍は源頼朝ですが、その弟の一人が阿野全成です。

源頼朝も阿野全成も平治の乱で命を落とした源義朝(みなもとのよしとも、1123年~1160年)の子供です。

まずは、阿野全成の兄弟たちを母を含めてご紹介します。

 
読み方生没年
源義平みなもとのよしひら京都の遊女又は三浦義明の娘1141年~1160年
源朝長みなもとのともなが波多野義通の妹1143年~1160年
源頼朝みなもとのよりとも藤原季範の娘(正室)1147年~1199年
源義門みなもとのよしかど藤原季範の娘(正室)生没年不詳
源範頼みなもとののりより遠江国池田宿の遊女1150年(?)~1193年
源希義みなもとのまれよし藤原季範の娘(正室)1152年~1180年又は1182年
阿野全成(幼名今若丸)あのぜんじょう常盤御前1153年~1203年
義円(幼名乙若丸)ぎえん常盤御前1155年~1181年
源義経(幼名牛若丸)みなもとのよしつね常盤御前1159年~1189年
源義朝には9人の男子がいました。

源頼朝は源義朝の第3男でしたが、兄2人が平治の乱で父の源義朝と同時期に亡くなり、さらに源義朝と正室の間に生まれたことから源氏の嫡流たる地位を得ています。

阿野全成は源頼朝の異母弟であり、源義経の同母兄です。

源氏を名乗らなかったため目立ちませんが、阿野全成はまぎれもなく源氏の血を受け継いでいます。

また阿野全成は阿野全成事件で最期を迎えますが、その時期は源頼朝が亡くなった後の1203年。

阿野全成事件は源頼朝が亡くなり、鎌倉幕府が混乱していた時期に起こったことが分かります。
 

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阿野全成事件までのいきさつ

阿野全成は1160年の平治の乱に際して、命こそ助けられますが、京都の醍醐寺に入り7歳で出家させられます。

1180年、源頼朝の挙兵を知った阿野全成は醍醐寺を抜け出し、源頼朝と下総国で面会を果たしています。

源頼朝の弟といえば源範頼や源義経が有名ですが、源頼朝と最初の面会を果たしたのは阿野全成です。

そのこともあってか、源頼朝は阿野全成と面会を果たした時、涙を流して喜んだと伝えられています。

その後、源頼朝の正室北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)の妹阿波局(あわのつぼね、不詳~1227年)を妻に迎えます。

また、駿河国阿野荘(現在の沼津市付近)を与えられたため、それまでの全成から阿野全成を名乗るようになります。

阿野全成は源頼朝の実弟であり、有力な豪族であった北条氏に近い存在でした。

さらに1192年には、妻の阿波局が源頼朝と北条政子の間に生まれた次男源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)の乳母になっています。

阿野全成は鎌倉幕府の中でも大きな存在でした。

源頼朝の弟であった源範頼や源義経が不慮の死を遂げたことを考えると、この時点での阿野全成は強い輝きを放っていたのではないでしょうか。

阿野全成の運命が大きく変わったのは源頼朝が亡くなり、嫡男の源頼家が鎌倉幕府第2代将軍になってからです。

簡単に言えば、源頼朝は鎌倉幕府を程よく抑えていたものの、若い源頼家ではコントロールできなかったということです。

源頼家が将軍になったのは1199年。

しかし同年にはいわゆる「鎌倉殿の13人」と言われる合議制の機関ができ、源頼家は将軍でありながらも実権を失っています。

鎌倉殿の13人は合議制の機関と書きましたが、実態は有力豪族の権力争いの場であり、各豪族がそれぞれ勝手気ままな動きをしていました。

鎌倉殿の13人の中でも阿野全成の義父である北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)や、その子北条義時(ほうじょうよしとき、1163年~1224年)は源頼家を排斥し、源頼家の弟であり阿波局が乳母を務めた源実朝の擁立を画策します。

そこで起こったのが阿野全成事件です。

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阿野全成事件の結末

実権を失っていた源頼家ですが、それでも情報は集まってきます。

1203年、北条氏の陰謀を知った源頼家は、源頼朝が挙兵して以来従っていた武田信光(たけだのぶみつ、1162年~1248年)に命じて阿野全成を捕縛します。

もっとも、阿野全成は捕まったものの、北条氏に謀反の罪が波及することはありませんでした。

また、妻の阿波局も捕縛されそうになりますが、姉の北条政子に拒否され難を逃れています。

捕縛された阿野全成は常陸国に配流され、さらに源頼家の命を受けた八田知家(はったともいえ、1142年~1218年)により生涯を終えます。

阿野全成が源頼家排斥にどの程度の影響があったのかわかりませんが、中心とされた北条氏に類が及ぶこともなかったし、北条氏から出た阿波局も無傷でした。

そのようなことを考えると阿野全成は鎌倉幕府の内部抗争の人身御供になってしまったのかもしれません。

阿野全成事件のその後

源頼家は、難敵である北条氏を排斥することができませんでした。

結果として源頼家は北条氏を中心とする勢力に将軍の座を追われ、伊豆国修善寺に追放。さらに同地において暗殺され生涯を閉じています。

 

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さいごに

醍醐寺の五重塔
阿野全成は源頼朝在世時は、源範頼や源義経のように誅殺されることなく、さらには源頼朝よりも長く生きています。

しかし源頼朝が亡くなると、源頼家や有力豪族の争いに巻き込まれるような形であっけない最期を遂げます。

ところで、阿野全成は悪禅師とも呼ばれていました。

この時代の「悪」は必ずしも善に対する悪ということではなく「強い」という意味もあります。

例えば源義朝の長男で平治の乱の際に命を落とした源義平は、剛勇な武将として知られていて悪源太義平ともいわれていました。

悪には強いという意味、源太には源氏の長男という意味があります。

阿野全成は悪禅師ともいわれていて、これは醍醐寺の修行時に名づけられたもののようです。

阿野全成は必ずしも著名な人物ではなく、平氏追討時の功績もはっきりとしていませんが、悪禅師と言われていたということはそれなりに強さがあったものと思われます。

阿野全成はどのような人物だったのでしょうか。

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