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鎌倉時代

北条義時が承久の乱を迎えるまでの半生を簡単解説します

北条義時の墓があると伝えられる法華堂跡

北条義時とは

北条義時(ほうじょうよしとき、1163年~1224年)は、鎌倉幕府の第2代執権として活躍した人物です。

鎌倉幕府の草創期は、有力御家人による権力闘争が激しかった時代で、父の北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)は、その戦いに勝利し初代執権の座におさまっています。

これだけを書くと、北条義時は単なる世襲の2代目執権となりますが、実際には北条時政と北条義時にも激しい権力闘争がありました。

父に打ち勝ち権力を得た北条義時に、次に待ち受けていた試練は承久の乱。

この記事では、北条義時が承久の乱を迎えるまでの半生を簡単にお伝えしていきます。

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鎌倉殿の13人に加わるまで

北条義時は、北条時政の次男として1163年に誕生しています。

後に鎌倉幕府の2代目執権となる北条義時も、生まれたときは家督を相続する権利もありませんでした。

また、北条氏自体も伊豆国の一部を治める小豪族に過ぎない存在でした。

北条氏が世に出るきっかけとなったのは、源氏の嫡流である源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)の存在です。

平治の乱で父の源義朝(みなもとのよしとも、1123年~1160年)を失った源頼朝は、命こそ永らえたものの伊豆国に流され流人生活を送っていました。

また、源頼朝の監視役にあたっていたのは北条氏ということで、北条氏にとって源頼朝はむしろ厄介ものであったかもしれません。

そんな源頼朝と、北条時政の娘で北条義時の姉である北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)が恋に落ち、源頼朝と北条政子は結婚しています。

この頃から、北条氏の運命は変わりつつありましたが、1180年に源頼朝が平氏打倒を掲げ挙兵。

北条氏も源頼朝の味方をします。

もっとも挙兵直後の石橋山の戦いで、平家方の大庭景親(おおばかげちか、不詳~1180年)に大敗。

この戦いで、北条義時は兄の北条宗時(ほうじょうむねとき、不詳~1180年)を失っています。

また、源頼朝と北条時政・義時親子も一時別行動をとっていますが、後に合流しています。

この頃の逸話としては、源頼朝の浮気に伴う北条義時の行動があげられます。

1182年、源頼朝が亀の前(かめのまえ、生没年不詳)という女性を寵愛していることを、北条時政の継室牧の方(まきのかた、生没年不詳)が北条政子に告げ口します。

源頼朝の浮気に激怒した北条政子は、牧の方の父である牧宗親(まきむねちか、生没年不詳)に命じ、亀の前が住む伏見広綱(ふしみひろつな、生没年不詳)の邸を破壊。

今度は、源頼朝が怒り、牧宗親の髷を切ってしまいます。

髷を切られるのは武将にとって大きな恥辱。北条時政は舅の牧宗親が辱められたことに大きな怒りを覚え、一族を率いて伊豆国に帰ってしまいます。

源頼朝にとって北条氏は大きな後ろ盾で、北条氏の離反は大きな痛手となったはずです。

ところが、北条義時は父と行動を一にせず鎌倉に残ったことから、源頼朝と北条氏の決裂を回避することができ、源頼朝も北条義時を大いに称賛したと伝えられています。

北条義時は、その後、平氏追討の戦いや奥州藤原氏との戦いにも参加し武功をあげ、源頼朝に重用されています。

しかし、この時の戦いには多くの武将が参加しているため、それほど目立つこともありませんでした。

また、北条家の実権は父の北条時政が握っていたため、北条義時の力は北条家内部でもそれほど強いものではありませんでした。

北条義時が徐々に頭角を現してくるのは、1199年に源頼朝が亡くなり、その後にできた鎌倉殿の13人に名を連ねるようになって以降のことです。

※ 兄の北条宗時が亡くなったことで、次男の北条義時が北条氏を継ぐ立場になったと考えられます。しかし北条義時は分家、北条氏の後継は異父弟の北条政範であったという説もあります。これは母の出自によるもので、北条義時の母よりも、北条政範の母である牧の方の方が身分が高かったためです。

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執権になるまで

源頼朝の後継となったのは源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)ですが、独断専行が目立ったため、これを抑えるために作られたのが鎌倉殿の13人と言われる合議制の機関です。

もっとも有力御家人で構成された鎌倉殿の13人は、合議制というよりもまさに権力闘争の場。

早くも1200年には、鎌倉殿の13人に名を連ね有力御家人の一人であった梶原景時(かじわらかげとき、不詳~1200年)が失脚します。

また、1203年には北条時政が比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)を自邸に招いたうえで謀殺。

比企氏一族を滅ぼすとともに、源頼家の嫡男である一幡(いちまん、1198年~1203年)を死に追いやります。

さらに、源頼家を追放するとともに、源頼朝の子であり、源頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)を第3代将軍の座に就けます。

この一連の流れを主導したのは北条時政で、結果として北条時政は初代執権になっています。

では、この時、北条義時は何をしていたのでしょうか。

北条義時の家来は、一幡の死に直接関わっています。また、追放された源頼家も、北条義時の兵に討たれています。

一連の流れの中心となったのは北条時政。実行の役割を担ったのは北条義時。

役割は違うとはいえ、北条時政と北条義時親子は同じ目的を持って動いていたことがわかります。

1205年、畠山重忠の乱が起こります。

畠山重忠(はたけやましげただ、1164年~1205年)は、有力御家人の一人で人望も篤い武将でした。

畠山重忠の乱のきっかけは、畠山重忠と平賀朝雅(ひらがともまさ、不詳~1205年)の酒席での諍いです。

平賀朝雅は牧の方の娘婿であったことから、牧の方は畠山重忠を疎ましく思い、畠山重忠に謀反の疑いありと夫の北条時政をたきつけます。

当初は取り合わなかったものの、牧の方に押された北条時政は畠山重忠を討つことに決めます。

一方、北条義時は畠山重忠に謀反の意思などはないと感じ、この頃から北条時政と北条義時には亀裂が見られるようになります。

また、前年の1204年には北条家の後継と目されていた北条政範が急死をします。北条政範の母は、北条時政の継室の牧の方。

子を失った牧の方は、次に源実朝を廃して、娘婿の平賀朝雅を新しい将軍の座につけようと画策。

畠山重忠の乱、そして平賀朝雅の将軍就任への画策。これに強く反発をしたのが、北条政子と北条義時。

結果として、北条時政と牧の方は伊豆国北条の地に追放され、北条時政に代わり北条義時が執権の座に就きます。

源実朝暗殺まで

北条時政失脚の原因の一つは、権力を得て独裁的になったことにあります。

そのことを見ていた北条義時は、独裁ではなく融和的な政策を目指しますが、引き続き自分の地位を脅かすような存在に対しては厳しい態度で臨んでいます。

その代表的な事例が1213年の和田義盛の乱です。

和田義盛(わだよしもり、1147年~1213年)は北条氏の政治運営に異を唱え、北条氏討伐を企画するものの、味方と信じていた三浦義村(みうらよしむら、不詳~1239年)の裏切りにあい事が露見。

鎌倉の地を戦場として、一時は和田義盛有利とされた時期もありましたが、最後は討ち取られています。

北条義時はそれまでも政所別当を務めていましたが、和田義盛の乱を契機に和田義盛が務めていた侍所別当になり、結果として鎌倉幕府の中で最も重要な地位を得ています。

1219年、鎌倉幕府第3代将軍源実朝が公暁(くぎょう、1200年~1219年)に暗殺される事件が起こります。

公暁は第2代将軍源頼家の子で、公暁にとって源実朝は叔父になります。

暗殺の原因ははっきりとはしていません。

一番、分かりやすいのは公卿が父源頼家から将軍職を奪った源実朝を恨んでいたというものです。

しかし実行犯は公暁だとしても、操っていた人物がいるということで、北条義時や三浦義村あるいは2人の共謀とする説もあります。

真実はわかりませんが、北条義時が源実朝暗殺に関与していた可能性はあるようです。

はっきりとしているのは源実朝や公暁の死により、源頼朝の血流が絶えてしまったということです。

承久の乱まで

源頼朝の血流が絶えたことで北条義時が考えたのは、親王を新たな将軍に迎え入れることです。

しかし、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう、1180年~1239年)は拒否。

鎌倉幕府は親王を将軍に迎えることを諦め、源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経(ふじわらのよりつね、1218年~1256年)を将軍に迎え入れます。

もっとも、この時の藤原頼経は僅か1歳で、政務を執り行う能力はありません。

そこで、北条政子が尼将軍として藤原頼経の後見となり、実際の政務は主に北条義時が執り行う体制が出来上がりました。

後継将軍の問題は解決したものの、朝廷と鎌倉幕府の関係は悪化します。

1221年、周到に準備を整えた後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒す兵をあげます。

鎌倉幕府は朝敵の扱いを受け動揺しますが、これを治めたのが尼将軍と言われた北条政子。

さらに北条義時は、嫡男の北条泰時(ほうじょうやすとき、1183年~1242年)を総大将に上洛。

各地から馳せ参じた武将などの合計は19万人。あっという間に、幕府軍は朝廷軍をせん滅します。

承久の乱の結果、首謀者とみなされた後鳥羽上皇や順徳上皇(じゅんとくじょうこう、1197年~1242年)は配流。

挙兵に反対していたと伝えられる土御門上皇(つちみかどじょうこう、1195年~1231年)も配流となった他、朝廷方に属していた公家や武将なども厳しく処分をされています。

また、承久の乱を契機として設けられたのが朝廷を監視する六波羅探題。

さらに、朝廷方の公家や武将の所領は没収され、幕府に味方した武将たちに与えられています。

鎌倉幕府が朝廷に勝利した結果、鎌倉幕府の地位とともに、執権たる北条義時の立場も大きく向上します。

北条義時の最期

承久の乱をおさめて、鎌倉幕府と自らの地位を高めた北条義時ですが、承久の乱の翌々年の1224年に病死をしています。

もっとも急死であったことから、毒殺であるとか、家来に刺殺されたとか、いくつかの説があるようです。

何れにしても、承久の乱という鎌倉幕府の存在を揺るがすような出来事を治めてすぐに生涯を閉じたことは、何やら意味深いものを感じるところです。

 
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