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勝海舟と西郷隆盛の会談とは!そのあらましをお伝えします

江戸城
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この記事では、勝海舟と西郷隆盛の会談のあらましについてお伝えをします。

江戸幕府の瓦解から明治政府の成立までの過程は革命です。

革命は多くの血が流されることが通例ですが、江戸から明治への移り変わりについては江戸無血開城といわれるとおり、比較的犠牲が少なかったことが知られています。

その江戸無血開城に導いたのが勝海舟と西郷隆盛の会談。果たして、この2人の会談はどのようなものだったのでしょうか。

勝海舟と西郷隆盛の会談に至るまでの過程と、会談そのものについて時系列でご案内をしていきます。

勝海舟と西郷隆盛の会談前後の過程(1868年)

1月 3日鳥羽伏見の戦い
1月 6日徳川慶喜 大坂城から江戸へ退却する
1月 7日朝廷より徳川慶喜追討令が発令される
2月12日徳川慶喜 江戸城を出て上野寛永寺に蟄居する
3月 5日東征大総督熾仁親王 駿府に到着する
3月 6日熾仁親王 江戸城総攻撃を3月15日と定める
3月 7日輪王寺宮が駿府の熾仁親王に徳川慶喜の謝罪状を届ける
3月 9日勝海舟の命を受けた旗本の山岡鉄舟が駿府の西郷隆盛と面会
3月13日勝海舟が薩摩藩高輪薩邸に西郷隆盛を訪ねる
3月14日勝海舟が薩摩藩田町薩邸に西郷隆盛を訪ねる
3月16日西郷隆盛は駿府に戻り東征大総督熾仁親王に報告後京都に向かう
3月19日西郷隆盛の報告により徳川慶喜の恭順が朝廷に認められる
4月11日江戸城無血開城 徳川慶喜は寛永寺を出て水戸へ向かう

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勝海舟と西郷隆盛の会談前(3月9日前後)

江戸城
江戸城総攻撃の代表権を持った人物は東征大総督の熾仁親王(たるひとしんのう)ですが、実質的に指導的立場にいたのは東征大総督参謀である西郷隆盛です。

一方、幕府の側で実権を握っていたのは軍事取扱いの役にいた勝海舟です。

交渉はこの2人の間で行われるべきでしたが、勝海舟は江戸を離れることができません。そのため、勝海舟の書状を携え西郷隆盛のいる駿府へ赴いたのが旗本の山岡鉄舟です。

山岡鉄舟は勝海舟や高橋泥舟とともに幕末の三舟(ばくまつのさんしゅう)といわれるほどの人物で、文武に秀で胆力もある人物として知られていました。

山岡鉄舟と西郷隆盛と会談したのは3月9日。この会談で、江戸無血開城の道筋が開けたとも言われています。

また、この3月9日の前後には、江戸城にいた篤姫(天璋院、13代将軍徳川家定の正室)や、和宮(静寛院宮、14代将軍徳川家茂の正室)からの嘆願書も届いていたといわれています。

篤姫は元々島津家の一族で西郷隆盛の主筋にあたる人物。

和宮は徳川家茂の正室になる前は熾仁親王の許嫁となっていた人物。

奇しくも2人は徳川家の人間でありながらも、東征大総督とも東征大総督参謀とも深く関わりのある女性でした。

篤姫や和宮の嘆願書がどのような影響があったのかは定かではありませんが、少なくとも無碍(むげ)にはできなかったはずです。

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勝海舟と西郷隆盛の会談(3月13日・14日)

西郷隆盛と山岡鉄舟の会談で江戸無血開城の道筋ができたと書きましたが、西郷隆盛は武力行使による政権交代を目論んでいたともいわれています。

そして、西郷隆盛が具体的に望んでいたのは、幕府の中心にいた徳川慶喜の命を奪うことであったともいわれています。

山岡鉄舟の報告に安堵を覚えた勝海舟ですが、まだ最終決定ではありません。

そのため、勝海舟は西郷隆盛との会談前にいくつかの策略を練っていたといわれています。

勝海舟の策略1 外国の力を利用

当時、幕府と関係があったのはフランス、官軍と関係があったのはイギリスです。フランスとイギリスは敵対関係にありましたが、共通の目的もありました。

それは貿易で多大の利益を得ることです。

しかし、戦火が拡大して江戸の町が火の海になると経済そのものが破綻をしてしまいます。

そこで勝海舟はイギリスのパークスに働きかけます。

パークスは官軍に対して、恭順している徳川慶喜の命を奪うことは許されない、江戸城を火の海にして罪のない人を殺戮することは認められない。

官軍がそのような行為に出るのであれば、イギリスもフランスと同じように幕府の見方をすると官軍に圧力をかけます。

官軍といっても財政力はありません。外国を敵に回して戦う能力もありません。外国、特にイギリスの意向は西郷隆盛の決心に大きな影響を与えます。

勝海舟の策略2 幕府海軍の力を利利用

当時の官軍と幕府軍の軍事力を比較すると、その力は幕府軍が勝っていました。特に当時の幕府海軍はとても強大な軍事力をもっていたといわれています。

勝海舟は西郷隆盛に対して、会談が決裂したら海軍に命じて官軍と戦わせることを示唆します。

官軍とはいっても所詮は寄せ集めの軍隊。幕府の実権を握っていた勝海舟の言葉は相当の重みがあったと考えられます。

勝海舟の策略3 江戸の博徒を利用

勝海舟は江戸の博徒と信頼関係がありました。そして、西郷隆盛との会談が決裂したら、博徒に江戸を火の海にすることを命じていました。

西郷隆盛も徳川慶喜の命を欲しいとは思っていても、大きな経済力を有する江戸の町を灰燼に帰すことは望んではいませんでした。

また、そのようなことになったら、やはり江戸の町民だけでなく外国も敵に回してしまう恐れがありました。

会談の結果

勝海舟と西郷隆盛の2日間にわたる会談の結果、徳川慶喜の助命と江戸無血開城などの骨子が決まりました。

ただ、西郷隆盛は実権は握っていたとはいっても形式的な権限は持っていません。

そのため、西郷隆盛は勝海舟との会談後、駿府の熾仁親王、京都の朝廷に報告をし、最終的に江戸無血開城が決まります。

さいごに 勝海舟と西郷隆盛の接点

勝海舟と西郷隆盛の会談の地
勝海舟と西郷隆盛の関係はこの会談が有名ですが、この2人には以前より面識がありました。

その時期は1864年9月。

大坂でこの2人は出会っていますが、この時、勝海舟は薩摩の西郷隆盛に対して、新しい国家体制を作るように進言をしています。

これはとりもなおさず幕府の体制を批判するもの。

幕臣であった勝海舟の言葉に、西郷隆盛は相当の驚きを見せたといわれています。

また、大久保利通にあてた手紙には、驚くと同時に人として惚れてしまったとも書いています。

勝海舟と西郷隆盛は、江戸無血開城の会談の時はいわば敵と味方でした。しかし、実際に西郷隆盛は勝海舟を敬愛していたと思われます。

では、勝海舟は西郷隆盛をどのように思っていたのでしょうか。

明治になり勝海舟は「西郷隆盛の理解者は俺しかいない」というようなことを語っています。

また、西郷隆盛の死後に建立された上野の西郷銅像除幕式にも勝海舟は参列をしています。

勝海舟と西郷隆盛。

2人の接点はそれほど多くはないようですが、勝海舟は西郷隆盛を、西郷隆盛は勝海舟を、それぞれ大きく評価をしていたのは間違いのないところのようです。

 

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