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大江広元が鎌倉殿の13人の中で果たした役割とは!

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はじめに

源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)が亡くなり、後を継いだ源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)ですが、独断専行が目立ったことから、それを抑えるために作られた合議制の機関が鎌倉殿の13人です。

ただ、鎌倉殿の13人の実態は有力御家人による権力闘争の場で、創設された1199年から様々な出来事が起こっています。

鎌倉殿の13人の中心を占めるのは、いわゆる武断派の武将たちですが、数は少ないながらも文治派と目される人もいました。

その文治派の代表が、今回、ご紹介する大江広元(おおえのひろもと、1148年~1225年)です。

大江広元は、鎌倉殿の13人の中でどのような役割を果たしたのでしょうか。

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大江広元とは

大江広元の出自は不明ながらも、元は朝廷に仕える下級貴族であったと考えられています。

父は大江維光(おおえのこれみつ、1110年~1175年)、養父は中原広季(なかはらひろすえ、生没年不詳)という説もあれば、全く逆に父は中原広季、養父は大江維光という説もあります。

また、生年は1148年、没年は1225年という説が有力ながらも、生年については異説もあります。

分かっているのは、兄の中原親能(なかはらちかよし、1143年~1209年)が源頼朝に仕えた縁で、大江広元も源頼朝の側近になったこと。

そして、鎌倉殿の13人に名を連ね、権力闘争に負けることなく80歳前後の長命を保ったことです。

なお、中原広元が大江広元を名乗るようになったのは1216年。

晩年を迎えるまでは中原広元ですが、この記事では大江広元に統一してお伝えをしていきます。

大江広元が鎌倉殿の13人に名を連ねるまで

兄の中原親能は京の下級貴族でしたが、1180年に源頼朝が挙兵したすぐ後に京を出奔し、源頼朝の元に馳せ参じています。

これは、源頼朝と中原親能に面識があったためと考えられています。

1183年には源頼朝の命を受け、源義経の軍に従って上洛。

1184年には、同じく源頼朝の命を受け、京都の治安の維持や公家との折衝に当たっています。

中原親能の影響を受けた大江広元も、源頼朝に従い重用。政所の別当となり、朝廷などとの交渉に手腕を発揮します。

また、鎌倉幕府の大きな特徴として、守護・地頭制度がありますが、守護・地頭の設置も大江広元の献言によるものとされています。

1199年、源頼朝が亡くなり、源頼家が後継になりますが、同年には早くも鎌倉殿の13人と言われる合議制の機関ができています。

そして武将ではないものの、鎌倉幕府の運営に功績があった大江広元も、その列に加わっています。

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鎌倉殿の13人創設後の大江広元

鎌倉殿の13人創設後、大江広元はいくつかの事件に関わっています。

梶原景時の乱

梶原景時(かじわらかげとき、1140年~1200年)は源頼朝在世中、信任厚く重用されていました。

当然、鎌倉殿の13人にも名を連ねていますが、同時に他の御家人との間に軋轢もありました。

そこで出されたのが、有力御家人66名による梶原景時を糾弾する連判状です。

提出先は、源頼家の側近として仕えていた大江広元。

大江広元は梶原景時のこれまでの実績を惜しんで、連判状を預かりの形にしていたものの、有力御家人の和田義盛にせかされ、最終的には源頼家に差し出しています。

この後、梶原景時は失脚し、1200年の梶原景時の乱で最期を迎えています。

和田義盛の乱

1213年、北条氏打倒の陰謀が謀られます。

陰謀そのものは事前に明らかになりますが、企てに参加した疑いで和田義盛(わだよしもり、1147年~1213年)の子や甥が捕らえられます。

和田義盛の子は許されたものの、甥は配流の上、屋敷も没収。

この仕打ちに憤りを見せた和田義盛は、反北条派の結集を試み、実際に鎌倉の地で武装蜂起。最終的に、和田義盛は討ち死にしています。

和田義盛の乱に際して、大江広元は北条義時(ほうじょうよしとき、1163年~1224年)とともに、和田義盛を鎮圧するための文書を発していたことが分かっています。

大江広元は鎌倉幕府の政策決定に大きな影響力があったこと、北条氏と行動を共にしていたことがうかがえます。

承久の乱

1221年に起こったのが承久の乱です。

承久の乱は、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう、1180年~1239年)が、鎌倉幕府執権北条義時に対して追討の兵をあげたものです。

それまでの鎌倉幕府は内部抗争こそ熾烈であったものの、今回は朝廷が相手です。

鎌倉幕府内部でも動揺が見られましたが、北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)の演説により、方向は主戦論に決します。

それでも主流であったのは、朝廷の軍勢を箱根の山で迎え撃つというもの。この段階では、どちらかといえば消極的な戦術をとることが意見の中心になっていました。

しかし、これに異を唱えたのが、元は下級貴族とはいえ朝廷の動静に詳しかった大江広元です。

大江広元は軍の迅速な行動と、京都まで出撃して積極的な戦術をとることを主張します。

この献策が取り入れられ、鎌倉幕府方は京都まで軍を動かし、朝廷側に大勝します。

箱根で迎え撃つ場合でも鎌倉幕府は勝っていたかもしれません。

しかし、京都まで積極的に進出したことで戦いを速やかに勝利に導くとともに、鎌倉幕府の権威を一層高めることに成功しています。

さいごに

大江広元は、冷静沈着な人物であったと伝えられています。

また、貴族出身ということもあり、当時の鎌倉幕府の中では知識もあり、実際に朝廷との関わり合いも相当にあったと考えられます。

そのため、あまり目立たないながらも、大江広元が鎌倉殿の13人の中で果たした役割はことのほか大きかったものと思われます。

さらに、鎌倉幕府内部において大江広元に近しい存在だったのは、源頼朝の妻として権力を握っていた北条政子や、2代目執権の座についていた北条義時です。

こうしたいくつかの要素があって、権力闘争の激しかった鎌倉幕府においても、80歳前後の長命を保つことができた。

そんな稀有の存在が、大江広元であったように思われます。

 
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