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北条時房はイケメンで文武両道に秀でた武将だった!

鎌倉の鶴岡八幡宮
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北条時房の生涯をお伝えします

伊豆の弱小豪族に過ぎなかった北条氏は、北条時政の時代に勢力を拡大し、子の北条義時の代で地位を確かなものにしています。

北条氏が台頭してきたときに頭角をあらわしたのが、イケメンで知られ文武両道に秀でた北条時房です。

この記事では、北条時房の生涯を簡潔にお伝えします。

※ 元服後、最初に名乗ったのは北条時連です。北条時連は源頼家の命により北条時房と改名しています。この記事では、表記を北条時房に統一して書き進めていきます。

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源頼家が追放されるまで

北条時房が生まれたのは1175年。

兄の北条義時の生まれが1163年なので、年の離れた弟になります。

もっとも北条義時は、父北条時政と正室伊東祐親の娘(名前は不明)であったのに対し、北条時房の父は北条時政であったものの、母の名前はわかっていません。

このことから、北条時房は北条義時の異母弟であったと考えられます。

武将としての記録では、1189年に鎌倉幕府が奥州の藤原氏を追討した奥州合戦に参加したことは分かっていますが、元服後間もないこともあり活躍ぶりははっきりしてません。

1199年、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が不慮の死を遂げ、嫡男源頼家が二代将軍になります。

このとき、北条氏の一族で蹴鞠や和歌に堪能と言われた北条時房は側近に取り立てられています。

ところで、源頼家が政務を見るようになって、すぐにできたのがいわゆる「鎌倉殿の13人」です。

将軍の座に就いた源頼家ですが、若年で独断専行も目立ったことから、すぐに実権を取り上げられ、鎌倉殿の13人という合議制機関が作られています。

ただ、この合議制の機関の実態は有力御家人の権力闘争の場で、翌1200年には鎌倉殿の13人に名を連ねていた梶原景時が失脚し生涯を終えています。

鎌倉殿の13人の中でも、特に対立したのが比企氏と北条氏です。

源頼家の母は北条政子です。しかし、源頼家は比企能員と近く、北条政子の父北条時政とは疎遠でした。

そこで北条時政が比企能員を謀殺し、比企氏一族を滅亡に追い込んだのが1203年の比企の乱です。

比企の乱で、後ろ盾を失った源頼家は将軍の座を追われ追放。翌1204年、北条氏に討たれ21歳の短い生涯を終えています。

側近であった北条時房も普通であれば処分されるべき立場でしたが、罰を受けることなく、むしろ北条氏内部での力を増していったと考えられています。

北条氏一族なので処分されなかったという説もありますが、北条時房は北条氏のスパイとして源頼家の元に送り込まれていた。そんな説もあるようです。

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北条義時が亡くなるまで

北条氏と比企氏の争いは北条氏の勝利に終わりますが、鎌倉幕府の内部抗争はまだまだ続きます。

1205年、畠山重忠の乱が起こります。これは北条時政が畠山重忠に謀反の疑いありとして討伐を命じたものです。

しかし、謀反の話しは北条時政の継室牧の方の讒言で、畠山重忠に謀反を起こす考えはなかったと伝えられています。

この時、北条義時・北条時房は反対しますが、結局は父に押し切られて出陣。畠山重忠を死に追いやっています。

畠山重忠の乱を契機に、北条時政と北条義時は反目。

同年に起きた牧氏事件で、北条義時は父の北条時政を追放するとともに、北条時政が就いていた執権の座に収まっています。

北条義時に従っていた北条時房は、鎌倉幕府の中での立場をますます重いものにします。

北条時房は1213年の和田の乱で武功をあげています。

実務では、1219年に3代将軍源実朝が暗殺された後、朝廷と交渉して摂関家である藤原頼経を鎌倉に連れ、摂家将軍擁立に成功します。

また1221年の承久の乱では、勝利の後も京に残り、初代六波羅探題南方となっています。

※ 六波羅探題は主に朝廷を監視する役割を担っています。南方の初代は北条時房、北方の初代は北条義時の子で後に三代執権となる北条泰時です。

北条時房が亡くなるまで

1224年、北条義時が急死し、鎌倉幕府内部で分裂の兆しが現れます。

この事態を憂いた北条義時の姉で尼将軍と言われた北条政子は、北条泰時を鎌倉に呼び戻し、さらに北条時房も呼び戻します。

そして、北条政子は北条泰時と北条時房の二人を新たな執権とします。

もっとも異説もあり、執権は北条泰時、それに次ぐ地位を連署とし北条時房を就けたとも言われています。この説が正しければ、北条時房は初代連署になります。

北条泰時と北条時房は、甥と叔父の関係で直接に武力で戦うことはなかったようですが、主導権を巡る争いはあったと考えられています。

以降は、いくつかの諍いはあったと伝えられてますが、鎌倉幕府の中でお互いに政務をとり、北条時房は1240年に病没しています。

まとめ

この記事では、北条時房の生涯を簡潔にお伝えしてきました。

イケメンの基準は現代とは異なるかもしれませんし、写真などがある時代でもありません。

それでも、北条時房がイケメンであったことだけは伝えられています。もっとも、いかに北条氏一族といえども、容姿だけで世の中を渡れる時代ではありません。

事績を見ると、北条時房は武功もあげてますし、実務能力にも優れていたことがわかります。

だからこそ、権力闘争が激しい時代であっても生き残れたのではないでしょうか。

 
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