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鎌倉時代

畠山重忠の乱が起こるまでのいきさつを簡単解説します!

深谷市の畠山重忠公史跡公園

源頼朝が亡くなるまでの畠山重忠

畠山氏は平氏の流れを汲む一族ですが、拠点が武蔵国男衾郡(現在の埼玉県深谷市)であったことから、当地で勢力を保っていた源氏に従っていました。

しかし、1160年の平治の乱で源義朝(みなもとのよしとも、1123年~1160年)が討たれ、源氏の勢いが衰えると、平氏に属するようになります。

1180年、伊豆の地で流人生活を送っていた源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)が平氏打倒を唱えて挙兵。

畠山家は畠山重能(はたけやましげよし、生没年不詳)が京にいたため、子の畠山重忠(はたけやましげただ、1164年~1205年)が兵を率いて源頼朝討伐に向かいます。

当初は平氏方として戦っていたものの、ほどなく源頼朝に帰順し御家人の列に加わります。

1183年、平氏に代わり京を治めていた源義仲(みなもとのよしなか、1154年~1184年)と源頼朝が対立。

宇治川の戦いでは、源頼朝の命により出陣した源範頼(みなもとののりより、1150年~1193年)・源義経(みなもとのよしつね、1159年~1189年)とともに畠山重忠も参戦し、源義仲を敗死に追い込み、その後の平氏追討に際しては源範頼の軍に属します。

1185年、平氏が滅亡してすぐに起きた源頼朝と源義経の対立。この時も畠山重忠は、源頼朝についています。

そんな畠山重忠に変事かおきたのが1187年。

畠山重忠が地頭として治めていた領地で、代官が狼藉を働き、畠山重忠は責を問われ捕えられます。

捕えられたことを恥じた畠山重忠が絶食したところ、このことを聞いた源頼朝は非はないとして畠山重忠を赦免。

しかし、事はまだ終わりません。

赦免された畠山重忠が一族を連れ、居館としていた菅谷館(すがややかた、現在の埼玉県比企郡嵐山町)に戻ります。

この行動を怪しんだのが、有力御家人の一人である梶原景時(かじわらかげとき、1140年~1200年)です。

梶原景時は源義経と不仲で、源頼朝に源義経のことを讒言し、それが元で両者の対立に至ったとも言われている、いわくつきの人物です。

今度は、梶原景時が畠山重忠に謀反の疑いありと源頼朝に讒言します。

また畠山重忠の取り調べを行ったのも梶原景時で、梶原景時は畠山重忠に源頼朝への忠誠を誓う起請文を出すよう求めます。

しかし、畠山重忠は自分に二心などあるわけないから、起請文など出せないと拒絶。このいきさつを知った源頼朝は赦免、むしろ畠山重忠に褒美を与えたと伝えられています。

1189年の奥州藤原氏との戦いにも参陣し勝利しますが、この時も梶原景時との関わりが生まれています。

戦い後、藤原氏の郎党の取り調べが行われたときのこと。

最初に取り調べをした梶原景時は、まさに勝者が敗者に行う取り調べ方法をとったことから、郎党は憤慨し一切話をしません。

源頼朝が畠山重忠に交代を命じたところ、畠山重忠は礼にかなった対応をしたため、郎党も素直に取り調べに応じたということです。

梶原景時と畠山重忠の人柄については、後世の創作もあるかもしれませんが、当時から畠山重忠は周囲から好かれ、梶原景時はまったく逆であったことが推測できます。

1199年、源頼朝は亡くなります。

その際、源頼朝は畠山重忠に対して、自分の子供たちを守るようにと遺言をしたとされています。

このことを見ても、畠山重忠は源頼朝の信任を得ていたことがわかります。

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畠山重忠の乱が起きるまで

源頼朝亡きあと繰り広げられたのは有力御家人による権力闘争で、早くも1200年には源頼朝の信頼が厚かった梶原景時の乱が起こります。

権力を持っていただけにそれを快く思わない御家人も多く、有力御家人66人による梶原景時弾劾状が作られ、鎌倉幕府の第2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)の元に届けられます。

これにより梶原景時は失脚し、亡くなります。

この66人の署名の中に畠山重忠の名もありました。

また、1203年には比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)の乱が起こります。

これは第2代将軍源頼家の後継争いで、源頼家を支持する比企能員と、源頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)を第3代将軍につけようとする北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)が対峙します。

結果的に比企能員は謀殺され、後に源頼家も追放され、第3代将軍には源実朝がついています。

畠山重忠の妻は北条時政の娘で、畠山重忠にとって北条時政は義父になります。

このようなこともあり、比企の乱に際しても畠山重忠は北条氏の強い味方となり、それが畠山重忠の地位を高めてもいました。

しかし、1205年になると畠山重忠に謀反の嫌疑がかけられ、畠山重忠の乱につながっていきます。

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畠山重忠の乱のいきさつ

1204年、京の地にいた平賀朝雅(ひらがともまさ、不詳~1205年)と、畠山重忠の嫡男畠山重保(はたけやましげやす、不詳~1205年)が酒宴の席で諍いを起こします。

諍いそのものはその場で収まり、大事には至らなかったものの、この出来事が翌年の畠山重忠の乱に結びついていきます。

1205年、平賀朝雅は北条時政の継室牧の方(まきのかた、生没年不詳)に諍いの件を訴えます。

平賀朝雅は牧の方の娘婿であることから、牧の方は夫の北条時政に畠山重忠と畠山重保親子に謀反の疑いありと告げ口をします。

北条時政にとって、畠山重忠は娘婿であること、そして畠山重忠の人となりを知っていたので、当初は謀反を否定。

しかし、牧の方の強い押しにあい、畠山重忠討伐を決意します。

最初に犠牲になったのは、当時、鎌倉にいた畠山重保です。

鎌倉幕府は出陣のための軍勢を集め、兵は鎌倉の由比ヶ浜に集まり始めます。

自分に謀反の疑いがかけられているとは知らない畠山重保も、3人の家来とともに由比ヶ浜に到着しますが、そこで討たれてしまいます。

畠山重保を討ち取った北条時政は、次に大軍を催して、鎌倉に向かう途中であった畠山重忠を迎え撃ちます。

畠山重忠が鎌倉へ向かった理由は、鎌倉に変事があったことを知ったためです。

しかし、自分に謀反の疑いがかけられていること、すでに畠山重保が討ち取られていることは伝わっていませんでした。

そのため、畠山重忠が引き連れていたのは僅か140騎程度と伝えられています。

鎌倉方の大軍と畠山重忠が対峙したのは二俣川(現在の神奈川県横浜市)です。

畠山重忠はここで初めて自分に謀反の疑いがかけられ、子の畠山重保が討ち取られていることを知ります。

多勢に無勢、畠山重忠には逃げるという方法もありましたが、ここは武士らしく潔く戦うべきと決し戦いが始まり、約4時間の戦いの後、畠山重忠は討ち死にします。

畠山重忠の乱後

牧の方の讒言で討伐軍を編成した北条時政も、畠山重忠が少しの兵を率いていなかったにも関わらず勇敢な最期を遂げたことを知り、畠山重忠に謀反の意思などなかったことを悟ります。

そして、同族であるにもかかわらず畠山重忠に謀反の罪をかぶせ、さらに討伐軍に積極的に加わっていた、稲毛重成(いなげしげなり、不詳~1205年)父子、榛谷重朝(はんがやしげとも、不詳~1205年)父子を討ち取ります。

しかし、第3代将軍源実朝の後ろ盾ともいえる北条政子は、畠山重忠の本領については北条時政の娘で畠山重忠の妻になっていた女性に安堵しますが、他の領地は畠山重忠を討ち取った武士たちに分け与えています。

畠山重忠の乱のいきさつは複雑です。

まず、一番わかりやすいのは前述のとおり、牧の方を寵愛する北条時政が、娘婿の畠山重忠ではなく牧の方の讒言を信じたことです。

ただ、それだけでなく当時の武蔵国の状況も関係していそうです。

1203年の比企能員の乱で比企氏は滅ぼされましたが、比企氏の地盤は武蔵国で、比企氏滅亡後進出してきたのが北条時政です。

一方、畠山重忠も武蔵国を地盤としていましたが、北条時政の進出により、畠山重忠と北条時政には軋轢が生じていました。

さらに北条時政の意を汲んで、武蔵国に手を伸ばしていたのが平賀朝雅です。

もしかしたら牧の方の讒言というのは口実で、実際は畠山重忠と北条時政・平賀朝雅の対立が激しさを増し、それが畠山重忠の最期を招いたのかもしれません。

畠山重忠と北条時政・平賀朝雅の対立は、北条時政・平賀朝雅の勝利に終わります。

しかし、その後は別の事件で、北条義時(ほうじょうよしとき、1163年~1224年)と北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)姉弟の手により、北条時政と牧の方は追放され、平賀朝雅は誅殺されています。

畠山重忠の乱で、もっとも果実を得たのは北条義時と北条政子であったのかもしれません。

 
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