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西郷隆盛の上野の銅像が別人と言われている理由とは

はじめに

日本で一番有名な銅像。

それは、上野にある西郷隆盛の銅像かもしれません。

しかし、上野にある西郷隆盛の銅像は別人かもしれない。

そんな話が昔からささやかれています。

結論から言えば、上野にある西郷隆盛の銅像は決して別人ではありません。

では、どうして上野にある西郷隆盛の銅像が別人と言われているのでしょうか。

この記事では、その理由についてお伝えをしていきます。

上野にある西郷隆盛の銅像とは

上野にある西郷隆盛の銅像は、1898年12月に除幕式が行われています。

彫刻家として有名な高村光雲が中心となり作成。そして、その姿は愛犬を連れた着物姿。

明治維新の立役者でありながらも、親しみが持てる、のどかな姿が今でも多くの人々に愛されています。

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上野にある西郷隆盛の銅像を別人と言ったのはだれ

上野にある西郷隆盛の銅像を別人と言ったのは、西郷隆盛の三番目の妻である西郷糸子です。

西郷隆盛の銅像の除幕式に招かれた西郷糸子は、西郷隆盛像を見て「主人はこのような人ではなかった。」というような言葉を発しています。

そして、この言葉をきっかけとして、上野にある西郷隆盛の銅像は別人であるという説が今に至るまで語られています。

上野にある西郷隆盛の銅像が別人と言われている理由とは

上野にある西郷隆盛の銅像を別人と言われている理由については、いくつかがあげられています。

それでは、そのいくつかの理由をお伝えしていきます。

理由1 西郷隆盛は写真が嫌いだった

西郷隆盛が亡くなったのは1877年。

上野の西郷隆盛の銅像が建立されたのは1898年。

死後、約20年の時を経て西郷隆盛の銅像はできあがっています。

上野にある西郷隆盛の銅像は、西郷隆盛自身を見て造られたわけではありません。

また実物ではなくても、通常であれば西郷隆盛の写真などを参考に造られるべきところでした。

ところが、西郷隆盛は大の写真嫌い。公式には西郷隆盛の写真は一枚も残されていないと言われています。

西郷隆盛が写真が嫌いだった理由としては、暗殺を恐れたからと言われています。

確かに、そのことも理由の一つかもしれません。

しかし、西郷隆盛は明治政府から写真の提出を求められたときもそれを拒んでいます。

さらには、この件に関して明治天皇が写真の提出を命じても、その命令に背いてまで写真の提出を拒んでいます。

写真が日本に入ってきたころ、写真に写ると魂がとられてしまうという風説が流布されています。

西郷隆盛は明治維新の中心的人物ですが、本来の思想は旧来の文化や風習を大切にする人物。

西郷隆盛がこうした風説を信じたかどうかは定かではありませんが、西洋文明を基本的には嫌っていた人物であったようです。

暗殺を恐れたというのも一理はありますが、根幹にある思想が西郷隆盛を写真嫌いにしたとも考えられます。

しかし、写真が一枚もないということは、それだけ銅像建立を難しくさせたことは間違いのないところです。

なお、写真がないのと同様に、西郷隆盛は肖像画でさえ描かせなかったと言われています。

理由2 元の肖像画が別人だった

西郷隆盛の銅像の原画を作成したのは、イタリアの版画家であるキヨッソーネです。

キヨッソーネは明治政府に招かれ、多くの著名人の肖像画を描いています。

キヨッソーネは西郷隆盛の肖像画も書きましたが、西郷隆盛については写真が一枚も残っていない。

そこで、登場をしたのが西郷従道と大山巌です。西郷従道は西郷隆盛の弟、大山巌は西郷隆盛の従兄弟。

この2人をモデルにして作成されたのが西郷隆盛の肖像画です。いわば西郷隆盛の肖像画は、いわゆるモンタージュのようなもの。

似ていないと断言することはできませんが、別人をモデルにしたのは紛れもない事実です。

理由3 高村光雲も悩んだ

キヨッソーネの原画に基づいて、高村光雲は西郷隆盛の銅像作成に携わります。

しかし、別人をモデルにした肖像画では、顔のイメージをはっきりとつかむことはできません。 また、どんな体型だったのかもわかりません。

高村光雲は様々な人の意見を聞いて銅像を作成したようですが、結果的には実物よりも険しい顔つきで、実物よりも太った西郷隆盛が出来上がったと言われています。

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上野にある西郷隆盛の銅像が別人なのはどの部分

上野にある西郷隆盛の銅像が別人というのは、銅像の除幕式から言われています。

では、西郷隆盛の銅像が別人と言われるのはどの部分なのでしょうか。

それは大きく2つあります。

まず一つは顔。

そして、もう一つは服装です。

いろいろな意見を見ていくと、西郷糸子は服装がおかしいといっただけで、顔については特に語っていないと言われていますが、果たしてどうでしょうか。

もしかしたら、西郷糸子は顔も別人だし、服装もおかしい。

そのように語っていた、あるいは思っていた可能性はあるようです。

顔が別人

西郷隆盛と西郷糸子の孫である西郷吉之助が、昭和39年に雑誌に寄せた記事で、西郷糸子が次のようなことを語っていたことを回想として述べています。

「上野の西郷隆盛の銅像は実物よりも威圧的である。本当の西郷隆盛は、歌舞伎役者の中村鴈治郎に似ていて好男子だった。」

また、西郷隆盛の銅像を見た板垣退助は、実物と銅像の顔があまりにも違うのに驚いて、洋画家の光永眠雷に改めて西郷隆盛の肖像画を描かせ、西郷家にプレゼントしたという話も残っています。

(この肖像画は現存はしていないと言われています。)

除幕式での西郷糸子の発言は、服装がおかしいと語っただけという説が有力です。

しかし2つの話から、西郷糸子の感想の中には上野の西郷隆盛の銅像は服装だけではなく、顔も別人であったという意味が含まれていたという説も、あながち否定はできないようです。

服装が別人

西郷糸子は上野の西郷隆盛の銅像の服装が特に気に入らなかった。

どうやら、これは間違いないようです。

西郷糸子が言うには西郷隆盛は何事にもきちんとしていて威厳のある人だった。したがって、たとえ外出するにしても、着物姿ででることはなかった。

後世に残る銅像で、あのような姿を描かれることは西郷隆盛にとっても不本意ではないだろうか。

西郷糸子はこのような思いがあったように思われます。

さいごに


 

 

 

 

 

 

 

上野にある西郷隆盛の銅像が別人と言われている理由についてお伝えをしてきました。

その原因は何よりも西郷隆盛が自らの写真を撮影させなかったためです。

また、西郷糸子などが西郷隆盛の銅像が西郷隆盛に似ていないと言ったことが、別人説に拍車をかけています。

もっとも、西郷糸子の言葉は短く、西郷隆盛の銅像のどこが西郷隆盛に似ていなかったのかというのは、必ずしも判然とはしていないように思われます。

しかし、個人的には上野にある西郷隆盛の銅像は、あの顔だからこそ、あの体型だからこそ、そしてあの服装だからこそ、今でも多くの人々に親しまれているのではないかと思っています。


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