>
日本史 PR

源実朝が公暁に暗殺された理由をわかりやすくお伝えします!

鶴岡八幡宮
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

はじめに

源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)の実子で、2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)の弟にあたります。

しかし、最期は源頼家の子公暁(くぎょう又はこうきょう、1200年~1219年)に暗殺され、26歳で生涯を閉じています。

ところで、源実朝を暗殺したのは公暁と言われていますが、実行犯は公暁でも黒幕は別にいたという説もあります。

公暁単独犯であれ、黒幕存在説であれ、それぞれに源実朝を暗殺した理由があるようです。

この記事では、源実朝の生涯と、公暁単独犯・黒幕存在説のそれぞれについて、源実朝が暗殺された理由をわかりやすくお伝えしていきます。

源実朝の生涯 将軍になるまで

1192年、源頼朝と正室北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)との間に、源実朝は誕生します。

ただ、2人の間には既に源頼家がいたので、源実朝は必ずしも源頼朝の後を継ぐという立場ではありませんでした。

1199年、源頼朝が亡くなり、兄の源頼家が後継になります。

第2代将軍となった源頼家ですが、若年でありながらも専制的な振る舞いが多かったため、同年には早くも鎌倉殿の13人という合議制の機関が生まれます。

しかし、合議制の機関と言いながらも、鎌倉殿の13人は有力御家人間の権力闘争の場であり、源頼家はその渦に巻き込まれます。

鎌倉殿の13人の中で、源頼家に近かったのは比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)。

一方、源頼家の弟である源実朝に近かったのが北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)です。

1203年、北条時政の陰謀により比企能員は謀殺され、その後の比企の乱で比企氏一族の多くが討たれます。

また比企氏に近かった源頼家は、北条時政により将軍職を奪われたうえ伊豆国に追放。1204年、北条氏により暗殺されています。

こうして源実朝は、鎌倉幕府第3代将軍の座についています。

 
■合わせて読みたい

スポンサーリンク


源実朝の生涯 暗殺されるまで

源実朝が将軍職に就いた後の1205年には、畠山重忠(はたけやましげただ、1164年~1205年)の乱が起こり、鎌倉幕府はこれを鎮圧します。

戦後の行賞を行うのは将軍である源実朝ですが、若年ということで母の北条政子がこの役割を担っています。

また同年には牧氏事件が起こります。

北条時政と継室の牧の方(まきのかた、生没年不詳)は、源実朝の将軍職をはく奪し、後継に牧の方の娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ、不詳~1205年)を将軍につけようと画策します。

しかし、この謀略は未然に発覚し、北条政子と北条義時姉弟は、北条時政と牧の方を追放。源実朝は事なきを得ます。

もっとも、これは鎌倉幕府の実権が北条時政から、その子供である北条政子と北条義時に移ったことを意味するもので、源実朝の権威が高まったものではないようです。

1213年、和田義盛の乱が起こります。

きっかけは、源実朝を廃し、源頼家の遺児を将軍にし、さらには執権北条義時を討つという謀反の計画です。

謀反は未然に防ぐことができましたが、画策に加わったとして捕らえられたのが和田義盛(わだよしもり、1147年~1213年)の子と甥です。

子については源実朝の裁断で許されたものの、甥は北条義時により追放。これに怒った和田義盛は北条義時追討を掲げて挙兵しますが、最後は討たれます。

和田義盛の乱の後、源実朝は論功行賞を行い、和田義盛が担っていた侍所別当の役を北条義時に与えます。

和田義盛の乱当時、源実朝はある程度、政治の表舞台に立っていたようです。

ただ、和田義盛討伐に直接携わっていたのは北条義時で、源実朝は戦火を避けるため避難をしていました。

和田義盛の乱の実態は、和田義盛と北条義時の権力争いそのもので、将軍である源実朝は埒外に置かれていたと考えられます。

1218年、源実朝は右大臣に任じられます。

父の源頼朝でさえ就くことができなかった官位で、武士としてはもちろん初めてです。

そして昇任を祝う鶴岡八幡宮への拝賀が、翌1219年1月に執り行われることになりました。

雪が降り積もる中で行われた拝賀は夕刻に始まり、拝賀を終えた源実朝は夜に鶴岡八幡宮を立ち去ろうとします。

そのとき源実朝を襲撃したのが、源実朝の兄で将軍でありながらも非業の最期を遂げた源頼家の遺児公暁です。

公暁は鶴岡八幡宮の大銀杏の影に隠れて待ち伏せ。

源実朝の姿を確認するとともに、源実朝に襲い掛かり暗殺に成功します。

しかし、公暁自身もその日に討手により最期を遂げています。

スポンサーリンク


公暁が源実朝を暗殺した理由

公暁は、源実朝の兄で将軍でありながらも非業の最期を遂げた源頼家の遺児です。

公暁は源頼家の次男又は三男で、源頼家が亡くなったときは僅か5歳でした。

源頼家亡きあとは、祖母の北条政子により、三代将軍となった叔父源実朝の猶子となり、1211年、12歳の時には出家して公暁と名を改めます。

出家後は、園城寺(おんじょうじ、滋賀県大津市)で修行の後、1217年に鎌倉に戻り、やはり北条政子の働きかけで、鶴岡八幡宮の別当に就任します。

公暁が別当を務める鶴岡八幡宮に拝賀のために訪れたのが源実朝です。

地の利は公暁にあり、さらに襲撃をしたのは冬の夜。

灯りがあったとはいえ、それでも暗がりの場所が多かったのは確かなことで、公暁が源実朝を討つのはそれほど難しくなかったのかもしれません。

ところで、公暁が源実朝を討つときに叫んだのが「親の仇はかくうつものぞ」という掛け声。

このことから、公暁が源実朝を暗殺した理由は、父源頼家が非業の最期を遂げた後、将軍になった源実朝を恨んだ。

怨恨による襲撃と考えるのが分かりやすいところです。

公暁は実行犯で黒幕は他にいた

源実朝は公暁に討たれて最期を遂げた。どうやら、このことは確かなようです。

しかし、単独犯であった。

こちらについては少し疑問が残ります。

源頼家が非業の死を遂げ、跡を継いだのは実弟の源実朝です。源実朝が陰謀をめぐらして、源頼家を追い落とした。絶対にないとは言い切れないかもしれません。

しかし、源頼家が亡くなったとき、源実朝は僅か12歳の少年にすぎません。

また、源頼家には比企氏、源実朝には北条氏というバックがついており、実際には比企氏と北条氏の権力闘争が、源頼家の運命を決めたといっても過言ではありません。

もしかしたら公暁は誰かに吹き込まれて、源実朝を親の敵と思い込んだ可能性も十分にあります。

そこで黒幕として考えられるのが、北条義時です。

源実朝が鶴岡八幡宮の拝賀をするとき、北条義時は随行することになっていました。

しかし、公暁が源実朝を襲撃をすることを知っていた北条義時は、拝賀の前に体調不調を訴え、源実朝の傍を離れて難を逃れたという説があります。

このことが事実だとすれば、北条義時が公暁をそそのかして源実朝暗殺に導き、自らは傍観者の立場をとっていたという可能性がでてきます。

源実朝暗殺については、公暁が単独で行ったという意見があります。それに対して、実行犯は公暁だけれども、黒幕は別にいるという意見もあります。

ここでは、黒幕の一人として北条義時を挙げましたが、他にも鎌倉幕府の有力御家人である三浦義村(みうらよしむら、1168年~1239年)が黒幕であるという説。

あるいは、北条義時と三浦義村の二人が共謀したという説もあります。
 

■合わせて読みたい


黒幕が源実朝暗殺を考えた理由

公暁の単独犯が事実ならば、その理由は怨恨説が一番強いように思われます。

一方、黒幕がいたとしたら、黒幕が源実朝の暗殺を考えた理由とは何でしょうか。

これもいろいろと言われていますが、一つ考えられるのが、源実朝が鎌倉幕府の将軍でありながらも、かなり朝廷寄りであったことです。

このことについては、源実朝の官位の昇任のスピードから理解することができます。

源実朝と官位

 
1203年従五位下征夷大将軍に補任(将軍に就任)
1204年京の公家の娘信子を正室に迎える
1205年正五位下右近衛権中将に任じられる
1206年従四位下に任じられる
1207年従四位上に任じられる
1208年正四位下に任じられる
1209年従三位・右近衛中将に任じられる
1211年正三位に任じられる、従二位に任じられる
1213年正二位に任じられる
1216年権中納言に任じられ左近衛中将を兼ねる
1218年1月、権大納言に任ぜられる

3月、左近衛大将に任ぜられる

10月、内大臣に任じられる

12月、内大臣より右大臣に転じる
源実朝は征夷大将軍に任じられた後、猛烈な勢いで昇任を果たし、最後は父の源頼朝の官位をしのぐようになっています。

元々、武家は公家の下風に置かれていました。

平家の世の中になり武家の地位も高まりましたが、平家は政権を京に置いたことで段々と公家化していきます。

平家の後、武家政権を築いた源氏は、公家化を嫌って幕府を京から遠く離れた鎌倉に置いたとも言われています。

このように公家と武家は水と油のような存在で、特に鎌倉幕府の有力御家人は朝廷と距離を置き、内部では激しい権力闘争があったものの、武家政権を確立することに心を砕いていました。

ところが、武家の棟梁である源実朝は朝廷に官位を求め、公家の文化に傾倒する傾向がありました。

源実朝の急激な昇任については、北条義時だけでなく、京の下級公家出身で鎌倉幕府でも重責を担っていた大江広元(おおえのひろもと、1148年~1225年)も危惧していたようですが、源実朝自身は御家人の声に耳を貸すこともなく、ますます朝廷寄りの姿勢を見せます。

鎌倉幕府を実質的に動かす有力御家人にとって、源実朝の姿勢が許しがたいものになっていった。

しかし、自らが手を下してしまうと謀反になってしまう。

それを防ぐために使われたのが公暁であった。

源実朝が暗殺されたのは、鎌倉幕府にとって決して名誉のことではありません。また、公暁自身も源実朝を暗殺したその日に討たれてしまっています。

このように後世の記録に残りにくい状況が重なり合ったため、源実朝暗殺の背景はわかりにくいものになっていますが、果たして真実はどうだったのでしょうか。

さいごに

この記事では、源実朝が暗殺された理由をご紹介してきました。

真実は永遠にわからないかもしれませんが、分かっていることが一つあります。

それは、源実朝を最後に源氏の将軍が絶えてしまったことです。

源頼朝の後を継いだのは、源頼家と源実朝ですが、二人とも将軍になるべき子孫を残すことができませんでした。

源実朝の後は、京都の貴族を将軍に据えることになりますが、所詮はお飾り。

この後の鎌倉幕府は、実質的に執権である北条氏が統治することになります。
 
■合わせて読みたい

こちらの記事もお読みください