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鎌倉時代

鎌倉殿の13人のキャストとそれぞれの生涯をご紹介します!

鶴岡八幡宮

2022年の大河ドラマは鎌倉殿の13人

2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」で脚本は三谷幸喜氏です。

三谷幸喜氏は「新選組!」(2004年)、「真田丸」(2016年)に続き、3度目の大河ドラマの脚本を担当することになります。

新選組!は幕末、真田丸は安土桃山から江戸時代初期の動乱期を描いていて、新選組!は近藤勇や土方歳三、真田丸は真田信繁(真田幸村)など著名な人物を主人公に据えています。

ところが鎌倉殿の13人は、鎌倉時代で戦国時代や幕末よりも古く、あまり馴染みがありません。

さらに原作がない鎌倉殿の13人は題名からもわかるとおり、登場人物がかなり多くなりそうな気配があります。

そこでこの記事では、鎌倉殿の13人のそれぞれの人物を誰が演じるのか、キャストをご紹介するとともに、13人の武将の生涯をご紹介することにしました。

鎌倉殿の13人が誕生した時代背景

鎌倉幕府の初代将軍は源頼朝(みなもとのよりとも)です。

伊豆で流人生活を長く続けながら、最終的には平氏を滅ぼし、京都ではなく遠く離れた鎌倉の地に幕府を樹立した源頼朝はとりわけ著名な人物として知られています。

しかし源頼朝は1199年に不慮の事故(落馬と伝えられていますが定かではありません)で亡くなります。

源頼朝の後を継ぎ鎌倉幕府の第2代将軍となったのは、源頼朝の嫡男である源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)です。

源頼家は源氏の嫡流であり血筋は申し分なかったものの、将軍職を継いだのは18歳。現代でいえば世間知らずのお坊ちゃまといったところでしょうか。

実際、源頼家のとった施策はそれまでの習慣を無視した独断専行的なものが多かったといわれ、家臣である御家人たちの不満を招いてしまいます。

そこで源頼家の実権を取り上げ、御家人たちの集まりである合議制の機関に移行しましたが、それが後世言われる鎌倉殿の13人です。

源頼家が将軍職を継いだのは源頼朝が亡くなった1199年、鎌倉殿の13人と言われる合議制の機関ができたのも同年。

源頼家が政治の実権を握っていたのは、ほんのわずかな期間であることが分かります。

それでは鎌倉殿の13人の生涯と、大河ドラマでのキャストをご紹介していきます。

なお、13人は没年不詳を除き、亡くなった時期の早い順番でご紹介していきます。

 
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鎌倉殿の13人の生涯とキャスト 1人目~6人目

鎌倉殿の13人① 梶原景時

読み方かじわらかげとき
生没年1140年頃~1200年
キャスト中村獅童
梶原氏は平氏の流れを汲む一族でしたが元は源氏に仕えていました。しかし、源頼朝の父である源義朝が平治の乱で敗死してからは平氏に従っています。

流人生活を送っていた源頼朝が挙兵したとき、梶原景時は石橋山の戦い(1180年)で源頼朝と対峙し打ち破ります。

この時、山中に逃げ込んだ源頼朝の存在を知りながらも、知らぬふりをして助けたという逸話が伝えられています。

その後、源頼朝が再起を果たした時、源頼朝の御家人の列に加わり、1184年には源義経の配下として参陣します。

相手は源義仲で勝ちをおさめますが、この時の源頼朝への戦勝報告が他の武将よりもはるかに細かなものであったことから、源頼朝に武将としてだけでなく事務能力の高さも評価されるようになります。

梶原景時は源義経の軍に加わったり、源範頼の軍に加わったりしますが、特に源義経とは対立することが多く、梶原景時は源頼朝に対して讒言めいた報告をすることも多かったと伝えられています。

1192年になると梶原景時は和田義盛に代わり侍所別当に就き、源頼朝が亡くなった後も源頼家に重用されます。

しかし敵が多かった梶原景時は権力闘争に敗れ、所領としていた相模国一ノ宮に引きこもります。

1200年には、九州で兵を集め鎌倉幕府を倒す、あるいは鎌倉幕府を見限り朝廷に仕えるため、梶原景時は一族とともに京都へ向かおうとしますが、駿河国で在地の武将と戦闘状態になり討ち死にをします。

梶原景時は武将としてだけでなく、実務能力にも優れていたため源頼朝に重用されてきました。

一方、鎌倉幕府には多数の権力者がいてその競争も激しいものでした。

その後の鎌倉幕府は北条氏が実権を握りますが、北条氏に敵対することが多く、結果として破れてしまった梶原景時は実態以上に悪者にされている可能性もあるようです。

 
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鎌倉殿の13人② 三浦義澄

読み方みうらよしずみ
生没年1127年~1200年
キャスト佐藤B作
三浦氏は平氏の流れを汲む一族とされています。

三浦義澄は源頼朝の挙兵に際して参陣。源頼朝の宿老として、壇ノ浦の戦いや、奥州藤原氏の戦いにも加わります。

1200年の梶原景時の乱では幕府側に加わりますが、梶原一族が滅ぼされた直後に病没をしています。

鎌倉殿の13人③ 安達盛長

読み方あだちもりなが
生没年1135年~1200年
キャスト野添義弘
安達盛長は源頼朝が流人生活を送っていたころから仕えていて、挙兵をしてからも源頼朝に従い成果を挙げています。

安達盛長は源頼朝の信頼は篤かったものの鎌倉幕府の官職につくことはなく、源頼朝が亡くなり十三人の合議制の組織ができた1199年に三河国の守護に任じられています。

なお、源頼朝と北条政子を結びつけたのは安達盛長であるとも伝えられています。

鎌倉殿の13人④ 比企能員

読み方ひきよしかず
生没年不詳~1203年
キャスト佐藤二朗
比企能員は、源頼朝の乳母を務めた比企尼の甥で後に比企尼の養子になります。

比企能員は源頼朝の信用を得て、壇ノ浦の戦いの後に上野国と信濃国の守護に任じられています。

また、比企能員の娘の若狭の局が源頼家の側室となり、長男の一幡(いちまん、1198年~1203年)を産むと、さらに権勢をふるうようになります。

そして1200年の梶原景時の変に際しては、梶原景時排斥の主要人物にもなっています。

1203年、源頼家が危篤の状態になったとき、北条時政が遺産の分与を決定します。

これによれば、分与を受けるのは一幡と源頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)で、分与はむしろ源実朝に厚いものでした。

北条時政の対応に憤慨した比企能員は源頼家に働きかけ北条時政を倒そうと画策します。

しかし企ては北条時政の知るところとなり、北条時政は自宅に比企能員を招きます。

企てが露見していることを知らない比企能員は、北条時政の邸宅に入ったところで殺されてしまいます。

その後、比企氏一族は滅ぼされ、一幡も北条氏により討ち取られてしまいます。

源頼朝亡き後の鎌倉幕府では御家人同士の争いが激しくなっていましたが、比企氏と北条氏の対立は代表的な一つと言えそうです。

 
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鎌倉殿の13人⑤ 中原親能

読み方なかはらちかよし
生没年1143年~1209年
キャスト
中原親能は大江広元の兄で、大江広元とともに幕府の中枢で活躍しますが、中原親能で目立つのは朝廷と鎌倉幕府の間を取り持つ交渉役。

度々、鎌倉と京都を往復していたことが知られています。

鎌倉殿の13人⑥ 和田義盛

読み方わだよしもり
生没年1147年~1213年
キャスト横田栄司
和田義盛は平氏の流れを汲む一族で三浦氏の支族とされています。

源頼朝が挙兵したすぐあとに参陣。1180年に源頼朝が鎌倉に入り数々の機関を設置したとき、和田義盛は最初の侍所別当に任命されています。

1184年の平氏追討に際して、和田義盛は源範頼の軍奉行として従軍。源範頼の軍は源義経の軍を支援し最後は平氏を滅亡に追い込みます。

さらに1189年の奥州藤原氏の追討にも参加して戦功をあげています。

1192年には侍所別当の職を梶原景時に奪われるような形で代わりますが、1200年に梶原景時が亡くなると再びその職に服しています。

1203年の比企能員の変後、源頼家は激怒し、和田義盛などに北条氏討伐の御教書を出しますが和田義盛はこれを北条時政に届け、事が露見した源頼家は追放されます。

1213年、北条氏打倒の陰謀が謀られ、和田義盛の子や甥が捕らえられます。子は許されたものの、甥の和田胤長は配流されたうえ屋敷は没収。

北条氏の仕打ちに忸怩たる思いを抱いていた和田義盛は反北条派の結集を試みます。

和田一族は鎌倉市街で戦いを展開。一時は優位を示したものの、結局は破れ和田義盛は討ち死にします。

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鎌倉殿の13人の生涯とキャスト 7人目~13人目

鎌倉殿の13人⑦ 北条時政

読み方ほうじょうときまさ
生没年1138年~1215年
キャスト坂東彌十郎
北条氏は平氏の流れを汲む一族とされ、伊豆国を拠点とする土豪でした。

北条時政は伊豆で流人生活を送っていた源頼朝の監視役でしたが、源頼朝と北条時政の娘である政子が婚姻して以降は源頼朝を支援するようになります。

源頼朝の挙兵に際しては北条時政も参加。

平氏が滅亡した後に起こった源義経の謀反に際しては、源頼朝の命を受けて北条時政が兵を率いて入京。混乱状態にあった京都の治安維持や朝廷との折衝に辣腕を振るいます。

その後も地方豪族との争いに勝ち、最終的には伊豆・駿河・遠江3か国の守護になっています。

このように北条時政の地位は上がっていったものの、同時期に台頭してきていた比企能員と対立。

比企氏を滅ぼすことに成功した北条時政は次に源頼家を追放し、源頼家の弟である源実朝を将軍の地位に就けます。

もっとも源実朝はこの時12歳。政治の実権は北条時政にあり、1203年には鎌倉幕府の初代執権になります。

鎌倉幕府で実権を握っていた北条時政でしたが、これを快く思わなかった武将の一人が畠山重忠(はたけやましげただ、1164年~1205年)です。

畠山重忠は北条時政の娘を正室に迎え入れていましたが、北条時政は畠山重忠謀反の罪で討ち果たします。

人望篤かった畠山重忠を討ち果たしたことで、多くの御家人が北条時政に反感を抱いたとされています。

また同じ1205年に、北条時政は源実朝の暗殺を計画。しかし子の北条義時は源実朝を保護。

多くの御家人が北条義時の味方についたため、北条時政は隠居したうえで伊豆国に追放をされます。

その後は鎌倉幕府の表舞台に立つことはなくなり、当地において病死をします。

鎌倉殿の13人⑧ 八田知家

読み方はったともいえ
生没年1142年頃~1218年
キャスト
八田知家は1156年の保元の乱では源義朝に従い戦功を挙げます。

平氏追討に際しては源範頼に従いますが、源義経と同様、勝手に任官をしたことで一時は源頼朝の不興をかっています。

もっとも1189年には奥州藤原氏の討伐軍にも加わっていることから一定の評価がなされていることが分かります。

八田知家で知られているのは、1203年、源頼家に敵対をしていた阿野全成(あのぜんじょう、1153年~1203年)を源頼家の命により滅ぼしたことです。

阿野全成は源頼朝の異母弟であり、源頼家の叔父にあたる人物です。

 
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鎌倉殿の13人⑨ 三善康信

読み方みよしやすのぶ
生没年1140年~1221年
キャスト小林隆
三善康信は元は朝廷に使える下級貴族でした。

三善康信の母が源頼朝の乳母の妹であったことから、源頼朝が流人生活を送っている頃から京の情勢を定期的に伝えていました。

その後、鎌倉に向かった三善康信は源頼朝から問注所執事に任じられます。

三善康信は大江広元と近い関係にあり、そのため長命を保つことができたと考えられています。

※ 問注所は訴訟を取り扱う機関で、政所の中に属する組織とされていて、執事とは長官を意味しています。

鎌倉殿の13人⑩ 北条義時

読み方ほうじょうよしとき
生没年1163年~1224年
キャスト小栗旬
北条義時は北条時政の次男ですが、長男が戦死をしたことで北条時政の後継となります。源頼朝挙兵時から北条時政とともに参陣。

1181年、源頼朝と北条時政が一時的な諍いを起こした時、北条義時は父ではなく源頼朝にに味方したことから一層の信認を得るようになります。

源頼朝が亡くなった後、権力闘争の中心にいたのは北条時政ですが、北条義時も積極的に関与。

一説に、源頼家の嫡男である一幡、源頼家を暗殺をしたのは、北条義時の命を受けた配下の武将だと伝えられています。

1205年には姉の北条政子とともに父の北条時政を追放。北条義時は父に代わり政所別当の地位に就くとともに、御家人の中でも最高の地位に昇りつめます。

御家人同士の争いは引き続きあったものの、父の北条時政よりは柔軟な態度で徐々に執権としての地位を高めていきます。

1219年、源実朝が暗殺され、源氏の正当な血流が途絶えてしまいます。

そこで親王を新たな将軍として迎え入れようとしますが後鳥羽上皇は拒否。改めて摂関家の藤原頼経を第4代将軍として迎え入れます。

この一件が鎌倉幕府と朝廷の対立を招き、承久の乱に発展をしていきます。

1221年、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を出します。北条義時は大軍を編成して上京し、あっという間に制圧します。

後鳥羽上皇は隠岐島に配流。朝廷側の主だった人物も厳しい処分を受けています。

承久の乱の結果、幕府側は所領を大幅に拡大。朝廷の権勢は衰え、幕府政治が確立をしていきます。

鎌倉殿の13人⑪ 大江広元

読み方おおえのひろもと
生没年1148年~1225年
キャスト栗原英雄
大江広元は元は朝廷に使える下級貴族でした。兄の中原親能が流人時代の源頼朝と親交があったことから、大江広元も鎌倉幕府の公文所の別当となります。

※ 公文所は公文書の管理を行う組織で、別当とは組織の長官を意味しています。

また後には政所の別当となり、政務・財政の役割を担い、朝廷との交渉の任にも当たっています。

大江広元は長命を保っていますが、基本的には後に鎌倉幕府の実権を握った北条氏と協調関係にあったためと考えられます。

鎌倉殿の13人⑫ 二階堂行政

読み方にかいどうゆきまさ
生没年生没年不詳
キャスト
二階堂行政は生没年不詳で来歴もはっきりとはしませんが、下級官吏として朝廷に仕えていたと考えられています。

母が源頼朝と遠い親戚のような関係にあったことから、三善康信と同時期に源頼朝に仕えています。

鎌倉幕府での役割は、最初は公文所の奉行、次に大江広元の部下として政所令の別当や政所の執事として、実務的な官僚としての経験を積んでいきます。

亡くなった年ははっきりとしてませんが、記録から源頼家在世中ではないかと考えられています。

鎌倉殿の13人⑬ 足立遠元

読み方あだちとおもと
生没年1130年頃~不詳
キャスト
足立遠元は武蔵国足立郡の豪族で、安達盛長は叔父にあたるとされています。

足立遠元は平治の乱では源義朝に従っています。また、源頼朝挙兵に際しては早い時期から帰属し、1184年には公文所の寄人の1人として任じられています。

亡くなった年ははっきりとしてませんが、記録から1207年を過ぎたあたりではないかと考えられています。

 

まとめ


この記事では、鎌倉殿の13人と言われる13人の武将の生涯を簡単にご紹介をしてきました。

ところで、鎌倉殿の13人とは鎌倉幕府の合議制の機関ですが、誕生したのは1199年。

しかし翌年の1200年には、13人のうち梶原景時・三浦義澄・安達盛長の3人が亡くなっています。

鎌倉殿の13人のうちすべての人物が存在していたのは僅か1年。

そのため13人の合議制機関については実態を疑う意見もあるようですし、少なくともごく短期間で崩壊したのは事実です。

ところで2022年の大河ドラマの題名は「鎌倉殿13人」。

各武将の生涯とキャストをご紹介してきましたが、この記事を書いている段階でキャストが分かっているのは9人。

4人についてはキャストが分かっていません。

鎌倉殿13人で、13人すべてが登場しなければいけないわけではありませんが、果たしてどうなるのでしょうか。

その点も含めて三谷幸喜氏の脚本に期待したいところです。

 
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