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真田信幸(真田信之)と徳川家康・徳川秀忠との関係とは!

真田信幸(真田信之)と徳川氏との関係とは

この記事では真田信幸(真田信之)と徳川氏との関係についてお伝えをしていきます。

まずは、この記事で取り上げる人物の生没年について記してみます。

真田信幸(真田信之) 1566年~1658年 享年93歳

初代将軍 徳川家康 1543年~1616年 享年75歳
2代将軍 徳川秀忠 1579年~1632年 享年52歳
3代将軍 徳川家光 1604年~1651年 享年46歳
4代将軍 徳川家綱 1641年~1680年 享年40歳

長命を保った真田信幸(真田信之)は、初代将軍の徳川家康から4代将軍の徳川家綱まで、江戸幕府に仕えたことが分かります。

この記事では、真田信幸(真田信之)と徳川氏との関係のうち、特に真田信幸(真田信之)が活躍した時代の関係。

具体的には、真田信幸(真田信之)と徳川家康、そして真田信幸(真田信之)と徳川秀忠の関係についてお伝えをしていきます。

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真田信幸(真田信之)と徳川家康の関係

真田信幸と徳川家康の関係は「良い関係」を保っていたようです。

真田信幸と徳川氏に直接的な関係が生まれるのは1585年の第1次上田合戦。

ただし、第1次上田合戦は真田信幸の父である真田昌幸と徳川家康との戦い。真田昌幸の嫡男であった真田信幸は父とともに徳川家康と戦います。

真田信幸と徳川家康の最初の関係は敵味方という立場だったようです。

第1次上田合戦が終り豊臣秀吉が天下を取ると、真田昌幸は豊臣秀吉に臣従。また、豊臣秀吉の命令により真田昌幸は徳川家康の与力大名となります。

ところで、真田信幸は第1次上田合戦において、真田昌幸の下知に従いながらも、独自に見事な采配を振るいます。

このときに敵でありながらも真田信幸の采配や戦いぶりを気に入ったのが徳川家康。

真田昌幸と真田信幸親子が徳川の与力大名になるとともに、徳川家康の重臣で徳川四天王の一人である本多忠勝の娘を自らの養女にして、そのうえで真田信幸の正室として嫁がせることになります。

真田信幸の戦いぶりを実際に目にして気に入ったのは、本多忠勝とも、あるいは同じ徳川四天王の一人である井伊直政であったとも伝えられ、定かではない部分もあります。

もちろん、この結婚は真田昌幸を抑え込むための政略結婚ですが、徳川家康が真田信幸を気に入っていたのはどうやら間違いのないところ。

真田信幸も徳川家康の養女を正室に迎えたことで、徳川家との関係を深めていきます。

その後、徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いで主人公として登場します。

このとき、真田信幸は父の真田昌幸、弟の真田信繁と袂を分かち、徳川家康の東軍に与します。

これはどちらが勝つにしても真田家を残すという真田昌幸の深慮遠謀とも言われていますが、その背景には真田信幸と徳川家の関係があったのは間違いない所です。

結果的に、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍が勝利します。東軍に属していた真田信幸は真田昌幸の旧領を含み9万5千石に加増されます。

しかし、徳川家康は西軍に属した諸将を厳しく処罰。真田昌幸や真田信繁を斬首に処そうとします。

このときにこれを思いとどまらせたのが真田信幸。真田信幸は義父の本多忠勝とともに懇願。最終的に真田昌幸と真田信繁の親子は九度山追放という処分で命を長らえています。

この出来事は真田信幸にとっても命がけのもの。そして、懇願が身を結んだことで、真田信幸と徳川家の関係は一層強固なものになっていきます。

なお、関ヶ原の戦い後、真田信幸は真田信之と改名をしています。これは父である真田昌幸の「幸」の字を使うことを遠慮したためと言われています。

1614年大坂冬の陣が起こります。

このとき、父の真田昌幸は亡くなっていましたが、弟の真田信繁は健在。真田信繁は豊臣家の誘いに応じて大坂城に入城。独自に真田丸を築いて徹底的に抗戦をしています。

真田信之は病気のため大坂の陣には参陣をしていませんが、真田信之の軍は当然のことながら攻城戦に参加をしています。

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真田信幸(真田信之)と徳川秀忠の関係

上田城

上田城



 

 

 

 

 

 

 

 

真田信幸(真田信之)と徳川家康は主従でありながらも良好な関係を築けていました。

しかし、真田信之と2代将軍徳川秀忠の関係は決して良好とはいえなかったようです。

そして、その原因は真田信之の父である真田昌幸に原因がありました。

1600年の関ヶ原の戦いで、徳川秀忠は38000人の兵を率いて中山道を西に進みます。その途中にあったのが真田昌幸のいる上田城。上田城にこもるのは僅かに2000人。

徳川秀忠の軍の目的はあくまでも石田三成を討つこと。その目的を考えれば、徳川秀忠は上田城を無視して西進することは十分に可能でした。

しかし、真田昌幸の策略により、挑発され、じらされ、挙句の果て戦闘では大打撃を受けてしまいます。(第2次上田合戦)

結果的に、徳川秀忠は上田城攻略を諦めて関ヶ原の地に向かいますが、既に関ヶ原の戦いは終結。徳川家康の東軍が勝ったものの、徳川秀忠は父である徳川家康の大逆鱗に触れてしまいます。

徳川秀忠は律義者で知られています。そのため父の徳川家康に逆らうことも一切ありませんでした。

徳川秀忠が第2代将軍になったのは1605年の事ですが、実際の権限は大御所と呼ばれるようになった徳川家康のもの。

この関係は徳川家康が亡くなる1616年まで続きます。

また、徳川家康と真田信之の関係は良好であったため、真田信之と徳川氏の関係も徳川家康存命中は良好でした。

しかし、徳川家康が亡くなり、徳川秀忠に実質的な権限が移ると真田信之と徳川氏の関係はぎくしゃくします。

徳川秀忠は第2次上田合戦で真田昌幸・真田信繁親子に大きな恥をかかされています。真田信之に直接の関係はありませんが、徳川秀忠は真田氏に対して遺恨を持ち続けていたと言われています。

それが具体的な形となって表れたのが1622年の移封。真田信之は信州上田から信州松代へ移封を命じられます。

石高こそ、それまでの10万石から13万石に加増になったものの、松代は同じ信州でも縁の薄い土地。

この移封は、徳川家康の時代からの流れで真田家をつぶすことはできないけど、真田家に意趣返しはしたい。

そんな徳川秀忠の心境が現れた領地替えだとも考えられています。

もちろん真田信之も徳川秀忠の心境は分かっています。そのため、徳川家康の代以上に、真田信之は徳川秀忠に熱心に仕えたとも言われています。

さいごに

松代城

松代城



 

 

 

 

 

 

 

 

真田信之は父の真田昌幸や弟の真田信繁と比べたら目立たない存在です。

しかし、真田信之は武略にも知略にも優れていた。そうしたバランスの取れた武将だからこそ徳川家康に信用され、徳川氏と良好な関係を築けたものだと思われます。

真田信之自身は2代将軍に睨まれました。また、真田家自身も真田信之の死後、お家騒動があったり、財政破たんがあったりと順風満帆というわけではありませんでした。

でも真田家そのものは幕末まで大名として存続しています。

それはとりもなおさず真田信之と徳川氏の関係が良好であったからここそと思われるのですがいかがでしょうか。


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